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2009年4月10日 (金)

今帰仁で歴史講座!

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またまたワタクシ「とらひこ」の歴史講座です。今度は今帰仁で行います!

今帰仁村・文化財講座「薩摩の琉球侵攻と今帰仁」

講師:上里隆史(『目からウロコの琉球・沖縄史』『誰も見たことのない琉球』著者)

とき:2009年4月22日(水)旧暦3月27日18:30開始(18:00開場)

ところ:今帰仁村中央公民館(講堂)

入場無料!

お問合わせ:今帰仁村文化財係資料室(担当:宮城) TEL:098-051-5477 FAX:098-056-3217

内容:1609年は沖縄の歴史において大きな転換期となったことはよく知られています。3月25日に運天港に到着した薩摩軍は、27日に今帰仁で交戦し、監守一族の居城として城を構えていた今帰仁城を焼き討ちにしました。今年はちょうど400年目の節目の年にあたります。そこで今帰仁村教育委員会では、400年前のその事件の「その日」に、その歴史的な意味を考えることを目的に、表題の文化講座を計画いたしました。是非多くの方のご来場をお待ちしています。

今帰仁や沖縄北部にお住まいの方、ぜひ参加してみてください!

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コメント

今帰仁で4百年目の「その日」ということに惹かれて、知人も誘って出かけました。
「ちょうど4百年前のこの日、このあたりの村は炎と煙が上がっていた」という、とらひこさんの導入は非常にリアリティがあり、私は一気にタイムスリップした気がします。
「その日」に講座を行う意義は、そこにあったんですね。
今帰仁城跡での万灯会も幻想的でとても素晴らしく(今朝の沖縄タイムスに写真入で出てますね)、4百年に一度しか灯されない追悼の火の、「その場」にいたことに、身震いするほど感動しました。
企画をした今帰仁村教育委員会にも大変感謝です。ありがとうございました。

投稿: 南ふう | 2009年4月23日 (木) 12:40

>南ふうさん
遠くからお越しいただき、ありがとうございました。

僕も400周年の「その日」に立ち会うことができ、光栄でした。そうしたことを念頭におきながら、当時の状況を想像してみたんです。

今帰仁グスクのロウソクもキレイでしたね。400周年ということで400本ともしたらしいですよ。

投稿: とらひこ | 2009年4月25日 (土) 13:14

私も400百年前の、薩摩の琉球侵攻の際に薩摩側の記録によると、あまり戦いは無かった、よって死傷者も少なかったという公表に疑問を感じているものです。
朝鮮での薩摩軍の戦のやりかたからみて、琉球でもかなりの残虐なことが行われたのではないかとおもわれますが
如何せん伝聞が少なく不思議なことだとおもいます。

南方新社がだした「しまぬゆ1」には奄美大島、徳之島の
戦いの様子が書かれていますが、やはり島の人の言い伝えではかなりの犠牲者がでていたようです。

それにつけても沖縄側に言い伝えがほとんど無いというのは、仏教の教えが浸透してない故に、亡き人を供養するという習慣が薄いのが一因ではないかとおもわれます。400百年前の事とはいえ供養もされずに忘れられた人々の無念さがおもわれます。

私なりに調べた事で、あるいはと思われる事がありますのでかいておきます。
今帰仁謝名に円浄寺というお寺がありますがそこに
謝名観音という観音さんが建っています。住職のはなしでは、先代の住職が謝名親方を供養する為に建てられたということでした。謝名親方といいますと、薩摩侵攻の際に
交戦派の首謀で、戦後、一人悪者にされて薩摩に護送の後に首をはねられて殺された方です。又、その円浄寺の場所は、お寺の建つ前は、多くの屍が集められていたような所で
こうり島出身で関西で成功された先代の住職は、なにかを思われてか、そこにお寺を建てたということでした。あるいはその多くの屍というのが、400年前の戦に関係しているのではないかという思いが脳裏をよぎりました。

今ひとつは、金武町億首川の名前の由来ですが河原にたくさんの首が晒されていたことから、ついたようです。
尚巴志の今帰仁攻略の時の戦であるという説と、薩摩侵攻
の時の戦であると言う2つの説があるそうですが、戦で首を
刎ねるという習慣は、沖縄ではあまり聞かないように思われ薩摩軍のものではないかとおもわれます。

以上、長々と述べましたが、当ブログのテーマと、去年の秋頃から私の脳裏を去来する思いとが重なりましたので、書かせてもらいました。

投稿: 石厳富 | 2009年4月30日 (木) 02:20

>石厳富さん
いろいろご教示、ありがとうございます。僕も薩摩侵攻時、琉球側が抵抗したと考えています。「戦いがなかった」という先入観をとりのぞいて丹念に史料を見ていくと、決して無抵抗ではなかった様子が見えてきます。

恩納村にも島津軍船が座礁したという大和干瀬があると聞いたことがあります。薩摩侵攻をめぐる各地の伝承をまとめて調べてみると、また何かわかるかもしれませんね。

投稿: とらひこ | 2009年5月 7日 (木) 14:17

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