これが元祖『御願ハンドブック』
近年の沖縄県産本のスーパーヒットといえば、『よくわかる御願(うぐゎん)ハンドブック』(ボーダーインク刊)。沖縄で古くから行われている年中行事や「拝み」の儀式をわかりやすく解説したマニュアル本です。この本の爆発的ヒットという現象は、伝統的行事や儀式がいまだに現代の沖縄社会のなかで生き続けていることを示しています。逆にマニュアル本の流行に「最近の若い者は御願のやり方もわからんくなったさ~」というオジイ・オバアのなげきも聞えてきそうです。
実はこの『御願ハンドブック』の大流行の約300年も前、同じように琉球で御願のマニュアル本が流行したことがあります。そのマニュアル本とは、1738年に書かれた『四本堂家礼(しほんどう・かれい)』。これが元祖『御願ハンドブック』です。この本の作者は蔡文溥(さい・ぶんぷ)。またの名を祝嶺親方天章(しゅくみね・うぇーかた・てんしょう)といい、久米村の出身の学者として有名な人物です。「四本堂」とは彼の別名で、『四本堂家礼』とは要するに「蔡さんの家の礼法」という意味なのです。
蔡文溥は清代初めての国費留学生として中国で学び、帰国後は国王の教師にまでなっています。そして彼は子孫の守るべきしきたりとして、自分の家で行われている儀式や慣習を中国古来の礼法を記した『朱子家礼』を参考にまとめたのです。その内容は冠婚葬祭や年中行事の礼法85項目からなります。位牌の形式や供えものの種類、祭壇への配置の仕方まで図入りで丁寧に解説してあります。この『四本堂家礼』は蔡氏個人の家だけでなく、やがて王府の高官のみならず久米島や石垣までの士族の間にも広まり、琉球の士族全体の『御願ハンドブック』として活用されたのです。
現在、沖縄の人たちが行っている伝統的な年中行事には、この元祖ハンドブックが元になっているものが結構あります。例えば旧暦3月に行われる清明祭(シーミー)。1768年に王家の墓・玉陵で行われたのが初めてとされていますが、実は、この40年前に書かれた『四本堂家礼』には清明祭の記述があり、蔡氏一門がすでに行ってたことがわかります。蔡家は琉球の御願の最先端をいっていたのです。
ただこの元祖のハンドブックには、現在拝みの対象になっていない神様もあります。それは「大和神」です。中国系久米村の家に何と神棚があって大和神(善興寺境内にあった天神)を祭っていたのです。さらにこの大和神は火の神(ヒヌカン)と習合していて、さらに「火神菩薩」とも呼ばれています。かつての火の神は台所のカマド神だけではない側面を持っていたようです。中国で学んだ蔡文溥は、琉球の御願をより中国風にすべく元祖ハンドブックを書いたはずなのですが、それでも彼は大和神について何の疑問をいだくことなく、拝みの対象にしています。琉球が「中国化」する以前、中国系久米村においてすら文化は「純粋培養」されていたわけではなく、様々な要素が混ざり合っていたのです。
この元祖御願ハンドブックから140年後、王国末期に書かれたマニュアル本に『嘉徳堂規模帳(かとくどう・きもちょう)』があります。ここでは拝みの対象に大和神は消え、床の神と中国の文昌帝君が加わり、より中国的信仰が濃くなっています。この本は現在伝わるしきたりのカタチに近いといえますが、それでもなお火の神は「火神観音」として観音信仰と結びついています。
このように御願は時代を経てだんだんと変わっていき、その中で生まれた慣習がマニュアル本によって琉球全体に広まっていったことがわかります。ただ、そこでも唯一変わらないものは、人々が幸せを願う「祈り」そのものであるといえるでしょう。現代の『御願ハンドブック』は、人々の「祈り」の新しいカタチとして、これから次の時代へと伝えられていくのかもしれません。
参考文献:『よくわかる御願ハンドブック』、小川徹『近世沖縄の民俗史』
(図は『嘉徳堂規模帳』に記された位牌や供え物の配置図)
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