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2009年4月29日 (水)

渡嘉敷に恐竜!?

史料をめくっていると、たまに不可解な出来事を記述した箇所に出くわすことがあります。琉球王国の正史『球陽』には、なんと1698年に渡嘉敷島の海で「異獣」が目撃された怪事件が記されています。

それによると、渡嘉敷島の海浜を巡視していた役人たちが、付近の黒島の海中から突如出現しサンゴ礁のフチにうずくまる異様な動物を発見したとあります。その動物の体は黒いウシに似ていて、顔と耳・目はブタのようであったとのこと。4本の脚には水かきが付いており、まつ毛とヒゲは白色、尾はまっすぐで約30センチ、太さ約10センチ。鳴き声はウシのようで、うずくまる姿は犬のようであったといいます。驚いた役人たちは村へ知らせに行き、翌日、大勢の村人たちと現場へ向かいましたが、すでに怪生物の姿はありませんでした。

慶良間諸島の近海にはクジラが出現することが知られていますが、身体的特徴からみると、どうもちがいます。ジュゴンとも一致しません。我々が見たことのない新種の生物なのでしょうか。まさか絶滅せずに生き残った恐竜の一種?ネッシーやイエティ(雪男)のようなUMA(未確認生物)なのでは!?(ナ、ナンダッテー)

・・・と一瞬思ったのですが、いろいろ考えたところ、可能性として高いのはアシカやアザラシのたぐいではないかと思いつきました。2002年に東京の多摩川に現れ、日本中で話題になったアゴヒゲアザラシのタマちゃんをご記憶でしょうか。渡嘉敷島の「異獣」はいわばタマちゃんの琉球バージョンであり、今なら「トカちゃん」とでも命名され、見物客が殺到するかもしれないシロモノなのではないでしょうか。

当時の気候寒冷化と関連させ、この「異獣」をオットセイと推測する説もありますが、アシカの可能性も考えられます。かつて日本沿岸にはニホンアシカが1年を通じ生息していました(こちら参照)。この種は1975年を最後に目撃されなくなり、絶滅したと考えられています。300年前には相当数いたはずのニホンアシカが、まれに沖縄に回遊してきても不思議ではありません。

1581年にも名護の久志付近でアザラシらしき目撃例がありますが、沖縄周辺海域はアシカやアザラシの主要な生息地ではなく、沖縄で確認された事例があるのか、さらに調査する必要があるでしょう。みなさんも沖縄の海で泳ぐだけでなく、海面をながめてみては。もしかしたら変な生物が見つかるかもしれませんよ。

参考文献:『球陽』、北村伸治「沖縄の雪の古記録、沖縄近海の異獣古記録」(『沖縄技術ノート』4号)

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2009年4月17日 (金)

目からウロコ、出張コラム!

今日、4月17日より「週間タイムス住宅新聞」にて連載コラム「目からウロコの琉球探検」が開始されます!

連載は月1回(第3金曜日)、住宅や建築のことにかぎらず、王国時代の生活に関わる面白いエピソードをわかりやすく、盛り込んでいきたいと思っています。

第一回目は、「赤瓦が生まれたワケ」というお話です。

「目からウロコ~」がネットだけでなく、新聞でも読める!沖縄にお住まいの方、ぜひぜひご一読くださいませ!

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2009年4月15日 (水)

暗闇の巡回人

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復元なった琉球王国の首里城。今では多くの人々がここを訪れ、夜には正殿をはじめとした建物が美しくライトアップされ、見る人を楽しませています。王国時代の人々がこのきらびやかな夜の首里城の姿を見たら、おそらく驚がくするはずです。昔にはこれだけの電灯がなかったから、というわけではありません。何と、かつての首里城は深夜になれば明かりをともすことが禁止されていたからです(!)『球陽』には、こう記されています。

禁城(首里城)、夜深に入れば、火灯を禁ず。

つまり、夜中の首里城は明かり一つもない真っ暗闇だったというわけです。

そういうわけで城内を警備する役人は、明かりもなく真っ暗闇で巡回していました。漆黒の闇の城を巡ったところで、はたして警備の役目が果たせたのでしょうか?担当の役人たちは相当苦労したことでしょう。手探りで首里城内をウロウロしていたのではないでしょうか。こうした城内の明かりを禁ずる決まりは、火事を防止する意味もあったか、あるいは宗教的な意味があったかもしれません。

こうした意味不明の決まりに対して、尚敬王は、巡回人が暗闇で毒蛇のハブに襲われることを心配し、1737年、深夜の警備に明かりを持って城内を巡回することを許可し、以後はながくこれを例としたということです。ということは、それまで深夜の巡回人がハブに噛まれる事件が続出していたということでしょう。朝になればハブに噛まれた役人たちがよくそこらに転がってたのかもしれません(汗)

今ではまったく考えられませんが、かつての首里城は意外にもハブが出る危険な場所でした。首里城西端のアザナ(物見台)は時報のための鐘がすえ付けられていたのですが、それを鳴らすためには、うっそうとした密林を抜けなくてはいけません。時報を知らせる役人は、夕方や雨の日にこの密林でハブに噛まれる被害が多発していたそうです。そこで1736年、皮でつくられたブーツを支給してハブから脚を守ったとのこと。

首里城内を巡回する役人の最大の脅威は、侵入者や賊などではなく、ハブだったということなんですね。

参考文献:『球陽』、真栄平房敬『首里城物語』

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2009年4月10日 (金)

今帰仁で歴史講座!

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またまたワタクシ「とらひこ」の歴史講座です。今度は今帰仁で行います!

今帰仁村・文化財講座「薩摩の琉球侵攻と今帰仁」

講師:上里隆史(『目からウロコの琉球・沖縄史』『誰も見たことのない琉球』著者)

とき:2009年4月22日(水)旧暦3月27日18:30開始(18:00開場)

ところ:今帰仁村中央公民館(講堂)

入場無料!

お問合わせ:今帰仁村文化財係資料室(担当:宮城) TEL:098-051-5477 FAX:098-056-3217

内容:1609年は沖縄の歴史において大きな転換期となったことはよく知られています。3月25日に運天港に到着した薩摩軍は、27日に今帰仁で交戦し、監守一族の居城として城を構えていた今帰仁城を焼き討ちにしました。今年はちょうど400年目の節目の年にあたります。そこで今帰仁村教育委員会では、400年前のその事件の「その日」に、その歴史的な意味を考えることを目的に、表題の文化講座を計画いたしました。是非多くの方のご来場をお待ちしています。

今帰仁や沖縄北部にお住まいの方、ぜひ参加してみてください!

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2009年4月 4日 (土)

目からウロコの講座!

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やってきました、桜坂市民大学講座の第6期、とらひこの歴史講座です!

目からウロコの沖縄歴史」(4月14日スタート、毎週火曜・夜。全5回)

かんたん沖縄の歴史入門」(4月12日スタート、毎週日曜・昼。全5回)

の2回。昼・夜に分けて行います!今回は日曜日の昼に講座開設。休日に歴史を楽しく学ぶのはいかがでしょう。

今回は知られざる沖縄の歴史秘話に加え、初心者向けの沖縄の歴史の流れを簡単に紹介します。歴史をまったく知らなくても大丈夫!

沖縄の歴史に興味のある方、また一から知りたい方、ぜひぜひ受講してみてください!

受講申し込みは【こちら】から

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2009年4月 1日 (水)

これが元祖『御願ハンドブック』

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近年の沖縄県産本のスーパーヒットといえば、『よくわかる御願(うぐゎん)ハンドブック』(ボーダーインク刊)。沖縄で古くから行われている年中行事や「拝み」の儀式をわかりやすく解説したマニュアル本です。この本の爆発的ヒットという現象は、伝統的行事や儀式がいまだに現代の沖縄社会のなかで生き続けていることを示しています。逆にマニュアル本の流行に「最近の若い者は御願のやり方もわからんくなったさ~」というオジイ・オバアのなげきも聞えてきそうです。

実はこの『御願ハンドブック』の大流行の約300年も前、同じように琉球で御願のマニュアル本が流行したことがあります。そのマニュアル本とは、1738年に書かれた『四本堂家礼(しほんどう・かれい)』。これが元祖『御願ハンドブック』です。この本の作者は蔡文溥(さい・ぶんぷ)。またの名を祝嶺親方天章(しゅくみね・うぇーかた・てんしょう)といい、久米村の出身の学者として有名な人物です。「四本堂」とは彼の別名で、『四本堂家礼』とは要するに「蔡さんの家の礼法」という意味なのです。

蔡文溥は清代初めての国費留学生として中国で学び、帰国後は国王の教師にまでなっています。そして彼は子孫の守るべきしきたりとして、自分の家で行われている儀式や慣習を中国古来の礼法を記した『朱子家礼』を参考にまとめたのです。その内容は冠婚葬祭や年中行事の礼法85項目からなります。位牌の形式や供えものの種類、祭壇への配置の仕方まで図入りで丁寧に解説してあります。この『四本堂家礼』は蔡氏個人の家だけでなく、やがて王府の高官のみならず久米島や石垣までの士族の間にも広まり、琉球の士族全体の『御願ハンドブック』として活用されたのです。

現在、沖縄の人たちが行っている伝統的な年中行事には、この元祖ハンドブックが元になっているものが結構あります。例えば旧暦3月に行われる清明祭(シーミー)。1768年に王家の墓・玉陵で行われたのが初めてとされていますが、実は、この40年前に書かれた『四本堂家礼』には清明祭の記述があり、蔡氏一門がすでに行ってたことがわかります。蔡家は琉球の御願の最先端をいっていたのです。

ただこの元祖のハンドブックには、現在拝みの対象になっていない神様もあります。それは「大和神」です。中国系久米村の家に何と神棚があって大和神(善興寺境内にあった天神)を祭っていたのです。さらにこの大和神は火の神(ヒヌカン)と習合していて、さらに「火神菩薩」とも呼ばれています。かつての火の神は台所のカマド神だけではない側面を持っていたようです。中国で学んだ蔡文溥は、琉球の御願をより中国風にすべく元祖ハンドブックを書いたはずなのですが、それでも彼は大和神について何の疑問をいだくことなく、拝みの対象にしています。琉球が「中国化」する以前、中国系久米村においてすら文化は「純粋培養」されていたわけではなく、様々な要素が混ざり合っていたのです。

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この元祖御願ハンドブックから140年後、王国末期に書かれたマニュアル本に『嘉徳堂規模帳(かとくどう・きもちょう)』があります。ここでは拝みの対象に大和神は消え、床の神と中国の文昌帝君が加わり、より中国的信仰が濃くなっています。この本は現在伝わるしきたりのカタチに近いといえますが、それでもなお火の神は「火神観音」として観音信仰と結びついています。

このように御願は時代を経てだんだんと変わっていき、その中で生まれた慣習がマニュアル本によって琉球全体に広まっていったことがわかります。ただ、そこでも唯一変わらないものは、人々が幸せを願う「祈り」そのものであるといえるでしょう。現代の『御願ハンドブック』は、人々の「祈り」の新しいカタチとして、これから次の時代へと伝えられていくのかもしれません。

参考文献:『よくわかる御願ハンドブック』、小川徹『近世沖縄の民俗史』

(図は『嘉徳堂規模帳』に記された位牌や供え物の配置図)

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