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2009年2月 4日 (水)

倭寇は琉球船を襲わなかった?(1)

大交易時代、琉球王国はアジア各地域に交易船を派遣してばく大な富を手に入れ、繁栄を極めたことはよく知られています。琉球船が活躍していた同じ時期、アジアの海には「倭寇(わこう)」と呼ばれる海賊が荒らしまわっていたのですが、琉球船はこの倭寇に襲われた事例がない、という意見があります。これは本当なのでしょうか。

結論を先に述べてしまいますと、これは事実ではありません。琉球船は常に倭寇襲撃の危険にさらされており、そのなかで海外貿易に乗り出していたのです。

例えば1421年(第一尚氏の時代)には、琉球船が倭寇の船20隻に襲われ、皆殺しに遭っています。以降、琉球船は海賊に備えて貿易船に防衛のための武器を積んだ、と琉球の外交文書集(『歴代宝案』)にあります(※)。同じく1421年、前九州探題・渋川道鎮から朝鮮王朝への報告によると、朝鮮へ向かう琉球船が対馬(つしま)の海賊にまちぶせされ、死者数百人、貿易品は略奪され、生存者は奴隷として連行、船も焼失するという惨事が起きています(『朝鮮世宗実録』)。これ以降、琉球は朝鮮へ直接、船を派遣することはなくなってしまいました。

また1420年に京都へ向かった朝鮮使節は、瀬戸内海の海賊衆から「琉球船は宝物を満載しているので、船が来たらただちに略奪する」との証言を聞いています(『老松堂日本行録』)。これらの事例からでもわかるとおり、15世紀初頭の琉球にとって倭寇は大きな脅威だったのです。朝鮮半島方面の海寇・倭寇と琉球(とくに第一尚氏王朝)が特別な友好関係であったとする説は、これらの事実から成り立ちません。

では琉球は倭寇に対してただ手をこまねいていただけなのでしょうか。いえ、そうではありません。1431年、琉球は朝鮮に再び使節を派遣します。その時、琉球使節とともにいたのは、何と対馬海賊の頭目、早田六郎次郎でした。彼は対馬の豪族、早田左衛門太郎の子で、この頃の早田氏は対馬島主の宗氏をしのぐほどの実力者となっています。おそらく早田氏は対馬での琉球船襲撃事件にも関与していたと考えられます。

この時の琉球使節は朝鮮国王に対し、こう述べています(『朝鮮世宗実録』13年11月)。

「我が琉球は武寧・思紹王の頃より朝鮮と友好の礼を互いに行ってきました。しかしその後、倭人(倭寇)が(通交を)妨害し、ひさしく修好を行なえませんでした。昨年、以前のようによしみを通じようと船を準備して風を待ちましたが、数か月もよい風が吹きません。そのとき、対馬の賊首・六郎次郎の商船(1隻)が琉球に滞在していたので、それに便乗してやって来ました」

1421年の対馬の海賊襲撃事件以来、琉球は倭寇を警戒し朝鮮へ派遣船を出せずにいたことがうかがえます。さらに驚くべきことは、琉球使節は自分たちを襲った側であるはずの対馬海賊の船に乗って朝鮮へやってきたのです。

これはいったいどういうことなのでしょう。やはり琉球は倭寇と何らかの同盟関係にあったのでは?と思うかもしれませんが、ちょっと待ってください。そう考えるのは早計です。その理由は次回に。

(【こちら】につづく)

※以前に『歴代宝案』の倭寇襲撃の記事を中国派遣船と考えましたが、この対馬での事件を指している可能性があります。

※万国津梁の鐘「三韓」=琉球王・朝鮮出自説については【こちら

参考文献:『歴代宝案』、『朝鮮王朝実録』、宋希璟『老松堂日本行録』

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コメント

とらひこさんのコラムの大ファンですが、桜坂の講座でも毎回楽しんでいます。コラム以上の裏話に目からウロコが落ちまくりです。今夜の講座も興味深かった。

さて倭寇と琉球船の関係、実際はどうだったんでしょうか?
先週末ブログ案内にあった「小型青磁」展に出かけましたら、ギャラリートークで対馬・倭寇の話がありました。今回のブログに関連して、タイムリーで面白そうです。
続きを早く知りたい気持ちを抑えて、次回を楽しみにしています。

投稿: 涙の滴 | 2009年2月 4日 (水) 00:48

>涙の滴さん
いつもありがとうございます。

小型青磁展にも行かれたんですね、今回の記事はちょうどその話題と重なりますね。

次回をご期待ください。

投稿: とらひこ | 2009年2月 4日 (水) 22:47

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