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2009年2月11日 (水)

倭寇は琉球船を襲わなかった?(2)

対馬海賊の船に便乗した琉球使節の事例からわかることは、当初、朝鮮への派遣船は琉球が独自に準備しており、対馬賊首の六郎次郎の船へ便乗することに急きょ予定が変更されたこと、また六郎次郎の船は「商船」として琉球(おそらく那覇港)に停泊していたことです。

「琉球使節はたまたま商倭の船とともに来た」(『朝鮮世宗実録』)とあるように、対馬船は交易を目的としてたまたま琉球に滞在していただけで、琉球使節の便乗は偶発的な出来事であり、あらかじめ「盟約」のような特別な協力関係は存在しなかったと考えたほうが妥当です。

このような「便乗」のかたちは本当に特別なものなのでしょうか。おそらく日本中世史に詳しい方は思い当たるかもしれません、これは海賊衆の「警固(けいご)」と呼ばれる中世の慣行に近いのではないでしょうか。警固とは海賊衆が自分の縄張りの範囲に航行する船の安全を保障するため、報酬をもらって「ガイド兼パイロット」の役を担当する行為。警固方式は雇い主の船に海賊が乗り込むか(上乗り)、あるいは海賊船が伴走するなど様々だったようですが、琉球使節の対馬船への便乗はこの警固の一種であったのはほぼ間違いないと思います。当時、日本の遣明船や日本へ向かう朝鮮使節など外交使節船にも海賊衆による警固が適用されていたことから、不自然なことではありません。

朝鮮へ向かう要所の対馬海域はまさに六郎次郎の縄張り。この「海のヤクザ」ともいうべき賊の頭目・六郎次郎に「みかじめ料」を払って味方につけ水先案内をさせれば、これほど安全なことはありません。六郎次郎も当時の社会慣行であった海上警固を琉球に要請されたために容易に応じたのでしょう。対馬側にとっても琉球とともに朝鮮へ向かえば、警固料だけでなく貴重な貿易の機会を手にすることができます。

六郎次郎は当時の慣行にのっとりきわめてビジネスライクに琉球と取引したのであって(契約すれば保護する、そうでなければ襲う)、琉球王との特別な結びつき(たとえば同じ「倭寇」出自であることの仲間意識や親族関係)があったとは思えません。このように琉球は中世日本で一般に行われていた社会慣行をうまく活用して海賊衆(倭寇)を味方につけ、最も安全な方法で朝鮮王朝との通交を再開したのです。

この便乗・委託方式は以後も踏襲され、那覇港で交易活動をしていた博多商人の道安(どうあん)や佐藤信重などが「琉球使節」として朝鮮と通交しています。彼らは琉球国王の代理として一時的に臣下となると同時に、自らの交易品も朝鮮に持ち込み商売をしたのです。やがて博多商人たちはこの外交ノウハウを活用(悪用?)し、偽の琉球使節を仕立てて朝鮮貿易を行ってしまいます。

ちなみに1501年に朝鮮へ向かった琉球使節の乗った船は、4隻で470人の大使節団でしたが、何と琉球人はたったの22人だけ!あとはすべて「倭人」だったようです(『朝鮮燕山君日記』)。このように第二尚氏の時代になっても琉球は船を直接派遣せず、便乗・委託方式は対朝鮮通交の基本スタイルだったことがわかります。

14世紀後半以降の那覇の港町には琉球の現地権力とは無関係に活動する多くの民間交易勢力が滞在しており、日本人の居留地までありました。王府はこうした海域アジアの民間勢力を上手に活用することで、アジア各地域との通交を可能にしたわけですね。

※尚徳王=倭寇説については【こちら

参考文献:橋本雄「朝鮮国王使と室町幕府」(日韓歴史共同研究委員会編『日韓歴史共同研究報 告書 第二分科(中近世)』)、『中世日本の国際関係』、佐伯弘次「15世紀後半以降の博多貿易商人の動向」(『東アジアと日本』2号)、上里隆史「琉球那覇の港町と「倭人」居留地」(小野正敏ほか編『考古学と中世史研究3 中世の対外交流』)

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コメント

目的の為にヤクザな人のお世話にはなるなんて…。
餅は餅屋でも、おっとこ前ですね~。

逆に、わざわざ沢山派遣しなくても目的が果たされるなら、それも素敵だと思います。(´∀`人)

なんだか「轟の滝」(泡盛の方ね)の「普通のじょーとー」と言うキャッチフレーズが思い浮かびました。

投稿: パイレーツ・オブ・川平湾 | 2009年2月20日 (金) 10:54

>パイレーツ・オブ・川平湾さん
中世という時代は、けっこう危ない世界だったみたいですよ。そういうなかで琉球はいろいろ生き残る道を模索していたんでしょうね。

投稿: とらひこ | 2009年2月20日 (金) 23:14

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