ターバンが冠に変わる時
琉球の官人が身につける冠といえば「ハチマキ(鉢巻、八巻)」。かつてはインド人のターバンのように長い1枚の布をぐるぐる頭に巻いたものでした(こちら参照)。このハチマキ、どうしてターバンから冠のように変わってしまったのでしょうか。
琉球官人のハチマキ(クリックで拡大)
この変化は1600年頃に起こったとされていますが、実は琉球王国の正史『球陽』に、そのあたりの詳しい経緯が記されているので紹介しましょう。
もともとハチマキは約4メートルもの布を頭に八重巻にしたものでした。1619年、国王の尚寧が家臣とともに久高島へ向かう途中、突然の大雨にあってしまいます。ゲリラ豪雨ですね。皆が巻いていたハチマキの布は雨にぬれてヘロヘロ・ヨレヨレになってしまいました。ところが、ただ一人、頭のハチマキがビシッときまっている者がいます。仲地筑登之(ちくどぅん)名礼という人物です。皆の注目の的ですね。
ズブぬれになったヨレヨレハチマキの尚寧王はそれを見て驚きます。聞いてみると、何と彼の巻いたハチマキはフェイクで、実際は木の板を下地にし、そのうえに布を貼り付けてハチマキのように仕立てたものでした。王はいたく感動し、彼を褒賞して、以後は王府官人のハチマキを彼のものにならって改良したといいます。このフェイク・ハチマキは仲地の発明ではなく、脇名国親雲上(わきなぐに・ぺーちん)吉治という人物が1600年頃に考案し、それを仲地がかぶっていたということのようです。
ちなみにハチマキのヒモはこの時にはなく、さらに時代が下って1791年に中国の冠にならって取り付けられたものです。このように琉球官人のハチマキはいくつかの段階の改良をへて、現在見ることのできるかたちになったことがわかります。
それにしても仲地は自分が発明したわけでもないのに、それをかぶっていただけで王様からお褒めの言葉を頂戴するなんてラッキーでしたね。
参考文献:『球陽』
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コメント
楽しく拝見しております。
当初、ハチマチは上ぶた(底ぶたかな?)がなかったと聞いておりますがいかがですかね。
それから三線弾きの仲間で、ヒモも耳の前、後論争があるようですけど、とらひこさんの見解はいかがですか。
投稿: カミジュー | 2009年2月18日 (水) 10:13
>カミジューさん
ご指摘のように上をおおう部分は当初はなく、後に加えられたようです。
ヒモの結び方ですが、王国時代の絵図を見てみましたら、確認したかぎりでは耳の後ろにして結んでいます。三線を奏でる様子を描く19世紀頃の舞楽図でもそうです。確たることはいえませんが、耳の後ろで結ぶのが一般的だったように思います。
投稿: とらひこ | 2009年2月20日 (金) 23:07
こんにちは。
利便性やかっこよさから、こんな風に改良されていったんですねぇ。フェイクが本物になるとは、過程を知ると、面白いです。後にどんな歴史が残るか考えると、今の流行もあながちバカにできないかもしれませんね。興味深いです!
投稿: Rie | 2009年3月 2日 (月) 17:18
>Rieさん
歴史的な背景を知るとこれまで見ていたものが違って見えてくる場合がありますよね。
現代のさまざまなものも将来、思いもよらない方向に変わっていくことがあるかもしれません。そうした想像をかき立ててくれる話ですよね。
投稿: とらひこ | 2009年3月 2日 (月) 21:07
今度沖縄に遊びに行くついでにご先祖様の事調べてたら、このラッキーだった仲地さんが先祖だったらしい事がこのブログの内容と一致。
嘘かとおもっておりました。
参考になりました。ありがとう。
投稿: ゆまにて | 2010年1月27日 (水) 23:46
>ゆまにてさん
ご子孫のかたですか!仲地さんのおかげで琉球の伝統的な服装が確立されていったわけで、すばらしいことだと思います。
参考になったようで幸いです。
投稿: とらひこ | 2010年1月28日 (木) 14:49
趣味の三線が高じて、ご先祖様を辿っていたら、
仲地名禮さんに行き当たりました。
とても素敵なエピソードを知ることが出来ましたぁ。
ご先祖様がきっかけ作りとなった冠被れるくらい
早く三線上達したいものです。
どうもありがとうございましたぁ♪
投稿: なかっち | 2019年9月 3日 (火) 16:15