御物グスク潜入記
2月22日、琉球放送の番組「ウチナー紀聞」の「未来をおこす港町~王国時代の那覇~」に出演させていただきましたが、そのなかで王国時代の宝物庫「御物(おもの)グスク」の初潜入に成功しました!御物グスクは現在、米軍港の敷地内にあり自由に出入りすることができません。今回、特別に米軍の許可を得て敷地内の画像を公開し、その様子を紹介したいと思います。
御物グスクは那覇港湾に浮かぶ小島に築かれたグスクで、アジアとの活発な交易を展開していた琉球王国の時代、中国や東南アジアの宝物がストックされていた場所です。15世紀中頃の様相を描いたとされる『琉球国図』(沖縄県立博物館蔵)には「見物具足(みもの・ぐすく)」に「江南・南蛮の宝物、ここに在り」と記されています(見物グスクは御物グスクの旧名)。ただし、ここは単に倉庫としての機能を持っていただけではなく、那覇行政と貿易業務を兼ねる長官、「御物城御鎖之側(おものぐすく・おさすのそば)」とも深い関わりがあります。この職に就いていた金丸(尚円王)は有名です。ある時期までは、このグスクに那覇行政の役人たちが詰めていたようです。
近世期には一時期火薬庫としても使われていたようですが、やがて建物はなくなり、戦前には高級料亭(風月楼)、戦後は那覇軍港の施設が建てられました。今でも那覇港や明治橋に立つとその姿を見ることができます。
(御物グスクの遠景。クリックで拡大)
さて僕ら取材班は垣花側の基地ゲートから入りました。バリケードとショットガンを持つセキュリティガードを通過し(汗)、待っていたのは日本人の女性報道官でした。彼女の案内で御物グスクへ。独立した島だったグスクは埋め立てによって陸地と連結され、また道路の敷設で石積みは半分ほど削り取られていましたが、さいわい北側部分はほぼ残っていました。
(御物グスクのアーチ門。クリックで拡大)
入口のアーチ門をくぐろうとすると「落下物危険、立入禁止」の札が。門の上部を見るとヒビが入っています。
(門に掛けられた立入禁止の札。クリックで拡大)
石積みは「あいかた積み」と呼ばれる比較的新しい技法で築かれています。グスク内で採取された陶磁器を分類した研究によると、陶磁器の年代は15世紀以降に限定されているといいます。つまり、御物グスクの創建が王国の交易活動が本格化した第一尚氏王朝以降のものであることがうかがえるのです。石積みの編年ともあわせて重要な情報です。ちなみに陶磁器の破片はグスク内でもいくつか見つけることができました。
(御物グスクの石積み。クリックで拡大)
また興味深かったのは、石積みの中でところどころ色のちがう石が見られること(上の画像でも確認できるかと思います)。注意深く観察すると、どうもサンゴ化石のようです。こうした状況は対岸の三重グスクの石積みにも共通します。
(三重グスクの石積み。クリックで拡大)
これは海岸付近のグスクを築造する際に、遠くの石切場だけでなく、近くの海岸から使えそうな石を持ってきたことを示しているのではないでしょうか。グスクを築く際に石をどこから持ってくるのかという問題は、これまで解明されていません。そのような謎を解き明かす重要な証拠の一つになるような気がします。
そして非常に気になったのは、石積みのいたるところに樹木が根を張り、場所によってはその根で石積みが崩落していたことです。アーチ門も危険な状態にありますが、このままでは樹木がさらに生長し、残存した石積み全体も崩壊する可能性があります。
(崩落した石積み。クリックで拡大)
王国時代の港町であった那覇は沖縄戦で徹底的に破壊され、戦後は街や地形が大きく改変を受け、往時をしのぶのは難しい状況です。そんななか、御物グスクは琉球王国の繁栄した頃の姿をうかがうことのできる貴重な文化遺産なのです。早急に保護・整備を行う必要を感じました。
またそれにあわせて御物グスクの全面発掘調査も行われれば、これまで見たことのないモノが発見され、研究が大きく前進するかもしれません。放送のナレーションでうまいことを言っていましたが(笑)、まさに那覇港の宝庫跡は琉球の歴史研究における可能性の宝庫でもある、ということなんですね。
参考文献:新島奈津子「古琉球における那覇港湾機能―国の港としての那覇港―」(『専修史学』39号)