« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

2009年2月25日 (水)

御物グスク潜入記

2月22日、琉球放送の番組「ウチナー紀聞」の「未来をおこす港町~王国時代の那覇~」に出演させていただきましたが、そのなかで王国時代の宝物庫「御物(おもの)グスク」の初潜入に成功しました!御物グスクは現在、米軍港の敷地内にあり自由に出入りすることができません。今回、特別に米軍の許可を得て敷地内の画像を公開し、その様子を紹介したいと思います。

御物グスクは那覇港湾に浮かぶ小島に築かれたグスクで、アジアとの活発な交易を展開していた琉球王国の時代、中国や東南アジアの宝物がストックされていた場所です。15世紀中頃の様相を描いたとされる『琉球国図』(沖縄県立博物館蔵)には「見物具足(みもの・ぐすく)」に「江南・南蛮の宝物、ここに在り」と記されています(見物グスクは御物グスクの旧名)。ただし、ここは単に倉庫としての機能を持っていただけではなく、那覇行政と貿易業務を兼ねる長官、「御物城御鎖之側(おものぐすく・おさすのそば)」とも深い関わりがあります。この職に就いていた金丸(尚円王)は有名です。ある時期までは、このグスクに那覇行政の役人たちが詰めていたようです。

近世期には一時期火薬庫としても使われていたようですが、やがて建物はなくなり、戦前には高級料亭(風月楼)、戦後は那覇軍港の施設が建てられました。今でも那覇港や明治橋に立つとその姿を見ることができます。

Cimg0450

御物グスクの遠景。クリックで拡大

さて僕ら取材班は垣花側の基地ゲートから入りました。バリケードとショットガンを持つセキュリティガードを通過し(汗)、待っていたのは日本人の女性報道官でした。彼女の案内で御物グスクへ。独立した島だったグスクは埋め立てによって陸地と連結され、また道路の敷設で石積みは半分ほど削り取られていましたが、さいわい北側部分はほぼ残っていました。

Cimg3367

御物グスクのアーチ門。クリックで拡大

入口のアーチ門をくぐろうとすると「落下物危険、立入禁止」の札が。門の上部を見るとヒビが入っています。

Cimg3357

門に掛けられた立入禁止の札。クリックで拡大

石積みは「あいかた積み」と呼ばれる比較的新しい技法で築かれています。グスク内で採取された陶磁器を分類した研究によると、陶磁器の年代は15世紀以降に限定されているといいます。つまり、御物グスクの創建が王国の交易活動が本格化した第一尚氏王朝以降のものであることがうかがえるのです。石積みの編年ともあわせて重要な情報です。ちなみに陶磁器の破片はグスク内でもいくつか見つけることができました。

Cimg3385

Cimg3379

御物グスクの石積み。クリックで拡大

また興味深かったのは、石積みの中でところどころ色のちがう石が見られること(上の画像でも確認できるかと思います)。注意深く観察すると、どうもサンゴ化石のようです。こうした状況は対岸の三重グスクの石積みにも共通します。

Cimg04361

三重グスクの石積み。クリックで拡大

これは海岸付近のグスクを築造する際に、遠くの石切場だけでなく、近くの海岸から使えそうな石を持ってきたことを示しているのではないでしょうか。グスクを築く際に石をどこから持ってくるのかという問題は、これまで解明されていません。そのような謎を解き明かす重要な証拠の一つになるような気がします。

そして非常に気になったのは、石積みのいたるところに樹木が根を張り、場所によってはその根で石積みが崩落していたことです。アーチ門も危険な状態にありますが、このままでは樹木がさらに生長し、残存した石積み全体も崩壊する可能性があります。

Cimg3387

崩落した石積み。クリックで拡大

王国時代の港町であった那覇は沖縄戦で徹底的に破壊され、戦後は街や地形が大きく改変を受け、往時をしのぶのは難しい状況です。そんななか、御物グスクは琉球王国の繁栄した頃の姿をうかがうことのできる貴重な文化遺産なのです。早急に保護・整備を行う必要を感じました。

またそれにあわせて御物グスクの全面発掘調査も行われれば、これまで見たことのないモノが発見され、研究が大きく前進するかもしれません。放送のナレーションでうまいことを言っていましたが(笑)、まさに那覇港の宝庫跡は琉球の歴史研究における可能性の宝庫でもある、ということなんですね。

参考文献:新島奈津子「古琉球における那覇港湾機能―国の港としての那覇港―」(『専修史学』39号)

人気ブログランキングに投票
クリックよろしくお願いします

| | コメント (15)

2009年2月18日 (水)

ターバンが冠に変わる時

琉球の官人が身につける冠といえば「ハチマキ(鉢巻、八巻)」。かつてはインド人のターバンのように長い1枚の布をぐるぐる頭に巻いたものでした(こちら参照)。このハチマキ、どうしてターバンから冠のように変わってしまったのでしょうか。

Photo_2

琉球官人のハチマキ(クリックで拡大)

この変化は1600年頃に起こったとされていますが、実は琉球王国の正史『球陽』に、そのあたりの詳しい経緯が記されているので紹介しましょう。

もともとハチマキは約4メートルもの布を頭に八重巻にしたものでした。1619年、国王の尚寧が家臣とともに久高島へ向かう途中、突然の大雨にあってしまいます。ゲリラ豪雨ですね。皆が巻いていたハチマキの布は雨にぬれてヘロヘロ・ヨレヨレになってしまいました。ところが、ただ一人、頭のハチマキがビシッときまっている者がいます。仲地筑登之(ちくどぅん)名礼という人物です。皆の注目の的ですね。

ズブぬれになったヨレヨレハチマキの尚寧王はそれを見て驚きます。聞いてみると、何と彼の巻いたハチマキはフェイクで、実際は木の板を下地にし、そのうえに布を貼り付けてハチマキのように仕立てたものでした。王はいたく感動し、彼を褒賞して、以後は王府官人のハチマキを彼のものにならって改良したといいます。このフェイク・ハチマキは仲地の発明ではなく、脇名国親雲上(わきなぐに・ぺーちん)吉治という人物が1600年頃に考案し、それを仲地がかぶっていたということのようです。

ちなみにハチマキのヒモはこの時にはなく、さらに時代が下って1791年に中国の冠にならって取り付けられたものです。このように琉球官人のハチマキはいくつかの段階の改良をへて、現在見ることのできるかたちになったことがわかります。

それにしても仲地は自分が発明したわけでもないのに、それをかぶっていただけで王様からお褒めの言葉を頂戴するなんてラッキーでしたね。

参考文献:『球陽』

人気ブログランキングに投票
クリックよろしくお願いします

| | コメント (7)

2009年2月11日 (水)

倭寇は琉球船を襲わなかった?(2)

対馬海賊の船に便乗した琉球使節の事例からわかることは、当初、朝鮮への派遣船は琉球が独自に準備しており、対馬賊首の六郎次郎の船へ便乗することに急きょ予定が変更されたこと、また六郎次郎の船は「商船」として琉球(おそらく那覇港)に停泊していたことです。

「琉球使節はたまたま商倭の船とともに来た」(『朝鮮世宗実録』)とあるように、対馬船は交易を目的としてたまたま琉球に滞在していただけで、琉球使節の便乗は偶発的な出来事であり、あらかじめ「盟約」のような特別な協力関係は存在しなかったと考えたほうが妥当です。

このような「便乗」のかたちは本当に特別なものなのでしょうか。おそらく日本中世史に詳しい方は思い当たるかもしれません、これは海賊衆の「警固(けいご)」と呼ばれる中世の慣行に近いのではないでしょうか。警固とは海賊衆が自分の縄張りの範囲に航行する船の安全を保障するため、報酬をもらって「ガイド兼パイロット」の役を担当する行為。警固方式は雇い主の船に海賊が乗り込むか(上乗り)、あるいは海賊船が伴走するなど様々だったようですが、琉球使節の対馬船への便乗はこの警固の一種であったのはほぼ間違いないと思います。当時、日本の遣明船や日本へ向かう朝鮮使節など外交使節船にも海賊衆による警固が適用されていたことから、不自然なことではありません。

朝鮮へ向かう要所の対馬海域はまさに六郎次郎の縄張り。この「海のヤクザ」ともいうべき賊の頭目・六郎次郎に「みかじめ料」を払って味方につけ水先案内をさせれば、これほど安全なことはありません。六郎次郎も当時の社会慣行であった海上警固を琉球に要請されたために容易に応じたのでしょう。対馬側にとっても琉球とともに朝鮮へ向かえば、警固料だけでなく貴重な貿易の機会を手にすることができます。

六郎次郎は当時の慣行にのっとりきわめてビジネスライクに琉球と取引したのであって(契約すれば保護する、そうでなければ襲う)、琉球王との特別な結びつき(たとえば同じ「倭寇」出自であることの仲間意識や親族関係)があったとは思えません。このように琉球は中世日本で一般に行われていた社会慣行をうまく活用して海賊衆(倭寇)を味方につけ、最も安全な方法で朝鮮王朝との通交を再開したのです。

この便乗・委託方式は以後も踏襲され、那覇港で交易活動をしていた博多商人の道安(どうあん)や佐藤信重などが「琉球使節」として朝鮮と通交しています。彼らは琉球国王の代理として一時的に臣下となると同時に、自らの交易品も朝鮮に持ち込み商売をしたのです。やがて博多商人たちはこの外交ノウハウを活用(悪用?)し、偽の琉球使節を仕立てて朝鮮貿易を行ってしまいます。

ちなみに1501年に朝鮮へ向かった琉球使節の乗った船は、4隻で470人の大使節団でしたが、何と琉球人はたったの22人だけ!あとはすべて「倭人」だったようです(『朝鮮燕山君日記』)。このように第二尚氏の時代になっても琉球は船を直接派遣せず、便乗・委託方式は対朝鮮通交の基本スタイルだったことがわかります。

14世紀後半以降の那覇の港町には琉球の現地権力とは無関係に活動する多くの民間交易勢力が滞在しており、日本人の居留地までありました。王府はこうした海域アジアの民間勢力を上手に活用することで、アジア各地域との通交を可能にしたわけですね。

※尚徳王=倭寇説については【こちら

参考文献:橋本雄「朝鮮国王使と室町幕府」(日韓歴史共同研究委員会編『日韓歴史共同研究報 告書 第二分科(中近世)』)、『中世日本の国際関係』、佐伯弘次「15世紀後半以降の博多貿易商人の動向」(『東アジアと日本』2号)、上里隆史「琉球那覇の港町と「倭人」居留地」(小野正敏ほか編『考古学と中世史研究3 中世の対外交流』)

人気ブログランキングに投票
クリックよろしくお願いします

| | コメント (2)

2009年2月 4日 (水)

倭寇は琉球船を襲わなかった?(1)

大交易時代、琉球王国はアジア各地域に交易船を派遣してばく大な富を手に入れ、繁栄を極めたことはよく知られています。琉球船が活躍していた同じ時期、アジアの海には「倭寇(わこう)」と呼ばれる海賊が荒らしまわっていたのですが、琉球船はこの倭寇に襲われた事例がない、という意見があります。これは本当なのでしょうか。

結論を先に述べてしまいますと、これは事実ではありません。琉球船は常に倭寇襲撃の危険にさらされており、そのなかで海外貿易に乗り出していたのです。

例えば1421年(第一尚氏の時代)には、琉球船が倭寇の船20隻に襲われ、皆殺しに遭っています。以降、琉球船は海賊に備えて貿易船に防衛のための武器を積んだ、と琉球の外交文書集(『歴代宝案』)にあります(※)。同じく1421年、前九州探題・渋川道鎮から朝鮮王朝への報告によると、朝鮮へ向かう琉球船が対馬(つしま)の海賊にまちぶせされ、死者数百人、貿易品は略奪され、生存者は奴隷として連行、船も焼失するという惨事が起きています(『朝鮮世宗実録』)。これ以降、琉球は朝鮮へ直接、船を派遣することはなくなってしまいました。

また1420年に京都へ向かった朝鮮使節は、瀬戸内海の海賊衆から「琉球船は宝物を満載しているので、船が来たらただちに略奪する」との証言を聞いています(『老松堂日本行録』)。これらの事例からでもわかるとおり、15世紀初頭の琉球にとって倭寇は大きな脅威だったのです。朝鮮半島方面の海寇・倭寇と琉球(とくに第一尚氏王朝)が特別な友好関係であったとする説は、これらの事実から成り立ちません。

では琉球は倭寇に対してただ手をこまねいていただけなのでしょうか。いえ、そうではありません。1431年、琉球は朝鮮に再び使節を派遣します。その時、琉球使節とともにいたのは、何と対馬海賊の頭目、早田六郎次郎でした。彼は対馬の豪族、早田左衛門太郎の子で、この頃の早田氏は対馬島主の宗氏をしのぐほどの実力者となっています。おそらく早田氏は対馬での琉球船襲撃事件にも関与していたと考えられます。

この時の琉球使節は朝鮮国王に対し、こう述べています(『朝鮮世宗実録』13年11月)。

「我が琉球は武寧・思紹王の頃より朝鮮と友好の礼を互いに行ってきました。しかしその後、倭人(倭寇)が(通交を)妨害し、ひさしく修好を行なえませんでした。昨年、以前のようによしみを通じようと船を準備して風を待ちましたが、数か月もよい風が吹きません。そのとき、対馬の賊首・六郎次郎の商船(1隻)が琉球に滞在していたので、それに便乗してやって来ました」

1421年の対馬の海賊襲撃事件以来、琉球は倭寇を警戒し朝鮮へ派遣船を出せずにいたことがうかがえます。さらに驚くべきことは、琉球使節は自分たちを襲った側であるはずの対馬海賊の船に乗って朝鮮へやってきたのです。

これはいったいどういうことなのでしょう。やはり琉球は倭寇と何らかの同盟関係にあったのでは?と思うかもしれませんが、ちょっと待ってください。そう考えるのは早計です。その理由は次回に。

(【こちら】につづく)

※以前に『歴代宝案』の倭寇襲撃の記事を中国派遣船と考えましたが、この対馬での事件を指している可能性があります。

※万国津梁の鐘「三韓」=琉球王・朝鮮出自説については【こちら

参考文献:『歴代宝案』、『朝鮮王朝実録』、宋希璟『老松堂日本行録』

人気ブログランキングに投票
クリックよろしくお願いします

| | コメント (2)

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »