« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

2009年2月25日 (水)

御物グスク潜入記

2月22日、琉球放送の番組「ウチナー紀聞」の「未来をおこす港町~王国時代の那覇~」に出演させていただきましたが、そのなかで王国時代の宝物庫「御物(おもの)グスク」の初潜入に成功しました!御物グスクは現在、米軍港の敷地内にあり自由に出入りすることができません。今回、特別に米軍の許可を得て敷地内の画像を公開し、その様子を紹介したいと思います。

御物グスクは那覇港湾に浮かぶ小島に築かれたグスクで、アジアとの活発な交易を展開していた琉球王国の時代、中国や東南アジアの宝物がストックされていた場所です。15世紀中頃の様相を描いたとされる『琉球国図』(沖縄県立博物館蔵)には「見物具足(みもの・ぐすく)」に「江南・南蛮の宝物、ここに在り」と記されています(見物グスクは御物グスクの旧名)。ただし、ここは単に倉庫としての機能を持っていただけではなく、那覇行政と貿易業務を兼ねる長官、「御物城御鎖之側(おものぐすく・おさすのそば)」とも深い関わりがあります。この職に就いていた金丸(尚円王)は有名です。ある時期までは、このグスクに那覇行政の役人たちが詰めていたようです。

近世期には一時期火薬庫としても使われていたようですが、やがて建物はなくなり、戦前には高級料亭(風月楼)、戦後は那覇軍港の施設が建てられました。今でも那覇港や明治橋に立つとその姿を見ることができます。

Cimg0450

御物グスクの遠景。クリックで拡大

さて僕ら取材班は垣花側の基地ゲートから入りました。バリケードとショットガンを持つセキュリティガードを通過し(汗)、待っていたのは日本人の女性報道官でした。彼女の案内で御物グスクへ。独立した島だったグスクは埋め立てによって陸地と連結され、また道路の敷設で石積みは半分ほど削り取られていましたが、さいわい北側部分はほぼ残っていました。

Cimg3367

御物グスクのアーチ門。クリックで拡大

入口のアーチ門をくぐろうとすると「落下物危険、立入禁止」の札が。門の上部を見るとヒビが入っています。

Cimg3357

門に掛けられた立入禁止の札。クリックで拡大

石積みは「あいかた積み」と呼ばれる比較的新しい技法で築かれています。グスク内で採取された陶磁器を分類した研究によると、陶磁器の年代は15世紀以降に限定されているといいます。つまり、御物グスクの創建が王国の交易活動が本格化した第一尚氏王朝以降のものであることがうかがえるのです。石積みの編年ともあわせて重要な情報です。ちなみに陶磁器の破片はグスク内でもいくつか見つけることができました。

Cimg3385

Cimg3379

御物グスクの石積み。クリックで拡大

また興味深かったのは、石積みの中でところどころ色のちがう石が見られること(上の画像でも確認できるかと思います)。注意深く観察すると、どうもサンゴ化石のようです。こうした状況は対岸の三重グスクの石積みにも共通します。

Cimg04361

三重グスクの石積み。クリックで拡大

これは海岸付近のグスクを築造する際に、遠くの石切場だけでなく、近くの海岸から使えそうな石を持ってきたことを示しているのではないでしょうか。グスクを築く際に石をどこから持ってくるのかという問題は、これまで解明されていません。そのような謎を解き明かす重要な証拠の一つになるような気がします。

そして非常に気になったのは、石積みのいたるところに樹木が根を張り、場所によってはその根で石積みが崩落していたことです。アーチ門も危険な状態にありますが、このままでは樹木がさらに生長し、残存した石積み全体も崩壊する可能性があります。

Cimg3387

崩落した石積み。クリックで拡大

王国時代の港町であった那覇は沖縄戦で徹底的に破壊され、戦後は街や地形が大きく改変を受け、往時をしのぶのは難しい状況です。そんななか、御物グスクは琉球王国の繁栄した頃の姿をうかがうことのできる貴重な文化遺産なのです。早急に保護・整備を行う必要を感じました。

またそれにあわせて御物グスクの全面発掘調査も行われれば、これまで見たことのないモノが発見され、研究が大きく前進するかもしれません。放送のナレーションでうまいことを言っていましたが(笑)、まさに那覇港の宝庫跡は琉球の歴史研究における可能性の宝庫でもある、ということなんですね。

参考文献:新島奈津子「古琉球における那覇港湾機能―国の港としての那覇港―」(『専修史学』39号)

人気ブログランキングに投票
クリックよろしくお願いします

| | コメント (15)

2009年2月18日 (水)

小林氏反論へのコメント

3年前、僕は小林よしのり氏の『新ゴーマニズム宣言SPECIAL・沖縄論』に対して批判的な見解を述べたことがあります(こちら参照)。この批判に対して最近、小林よしのり氏は『激論ムック・アイヌと沖縄の真実』(オークラ出版)で僕を名指しで反論してきました。今回はその反論に対しての回答を述べたいと思います。

小林氏は僕の批判記事「沖縄が超歴史的・必然的に「日本」固有の領土であったとする小林氏の主張には承服できません。明治になるまで琉球王国は「日本国」に帰属した事実は一度もありません。」という部分を引用し、「日本は明治時代に近代国家を建設することになり、領土を画定するために「琉球処分」を行って琉球王国を廃絶し、明確に日本の一部とした」ことをちゃんと書いており、僕が『沖縄論』を読まずに批判している、と反論しています(『アイヌと沖縄の真実』18ページ)。

近代以降に普及した「民族」概念と同じように、国民国家とその成立要件のひとつである「領土」概念は近代以前には存在しません。その点は僕も同じ見解です。たしかに小林氏は日本領土の成立は明治以降と『沖縄論』224ページで述べています。よって「沖縄が超歴史的・必然的に「日本」固有の領土であったとする」と書いた僕の表現は正確・適切ではなかったかもしれません。その点についてはお詫びして訂正したいと思います。

僕がそう考えたのは『沖縄論』の次の記述によるものです。小林氏は琉球処分の歴史的性格をどう解釈するかについて「(とらひこ注:琉球処分は侵略だという意見に対し)同じ民族なのだから統合だ」、「大和朝廷が熊襲や隼人を征伐して統一していったのが少々遅れただけじゃないか・・・」(すべて『沖縄論』224ページ)とし、大城立裕氏の論をあげ「琉球処分は歴史的必然だっただろう」(『沖縄論』230ページ)と結論付けていたことを根拠にしたものです。上記の小林氏の主張から、正確には「琉球が「日本」の領土となるにあたり、超歴史的・必然的に「日本」の潜在的主権があった」、あるいは「明治の日本による琉球併合について、領有を正当化できる要因として歴史的な根拠があった」との表現が適当になるでしょうか。

このように僕の表現が適切ではなかったものの、『沖縄論』の琉球処分についての箇所をひとまず読んだうえでのもので、小林氏を批判するために無理やり作り出したものではないことをお断りしておきます。また、『沖縄論』が琉球・沖縄の独自性を軽視して歴史・文化のほぼ全てを「日本」に回収しようとし、琉球処分(近代日本による琉球王国併合)を当然視・必然視する主張であることには変わらないのではないでしょうか。

追記〕なお小林氏は薩摩の琉球侵略から続く琉球の歴史を「再日本化」と評価しています(『沖縄論』186ページ)。真相はこの時期琉球は「中国化」を強めていくので小林氏の情報・記述は誤っているのですが、それはさておき、明治以前に一瞬たりとも「日本」になったことのないはずの琉球が「再び日本化する」とは一体どういうことなのでしょうか?「沖縄は明治の琉球処分によってはじめて「日本」になった」、と僕に反論している小林氏の本音・真意が透けてみえるのではないでしょうか。

誤解がないように付言しますが、僕は現在の日本社会が非常に画一化・均質化されてきている傾向はあると思いますし、現在の沖縄は間違いなく「日本」です。そしてそれは1972年の時点で「日本国」への帰属を沖縄の人々が主体的に選択したからだと考えています。僕は「沖縄人であるとともに日本国民」という意識であり、それは否定しようもない事実です。沖縄は強い独自性を発揮しながらも、日本社会全体のためにどう貢献できるかをこれから考えるべきだと思います。しかし、だからといって近代以前の琉球の歴史までさかのぼり、これまでの歴史研究の成果の都合のいい部分だけを抜き出し組み合わせ、現在の沖縄と日本の体制がいかに必然性のあるものだったかを補強する根拠としてはいけないのではないか、その点を問題にしているわけです。小林氏がどのような政治的主張をされても別にかまいませんが、現在の政治的意図あるいは思想のために、過去にあった歴史的事実をゆがめて評価してしまうのは承服できません。

小林氏は『アイヌと沖縄の真実』で拙著『誰も見たことのない琉球』からの記述を引用し、古琉球の文化がヤマト風だったことをあげ、さらに自身の日本と琉球を同一視する持論の補強としています。これを読んで愕然としました。小林氏は僕の著書のいったい何を読んでいるのでしょうか。僕は古琉球文化が従来の想像以上に「ヤマト風(ヤマトそのものでない点に注意)」文化だったことは紹介しましたが、拙著の結論である「《まとめ》「古琉球」という時代」(『誰も見たことのない琉球』78~80ページ)で、古琉球の「ヤマト風」文化についてこう総括しています。

(とらひこ注:古琉球にヤマト的雰囲気があったことを紹介して)ここで出てくるのが「やはり琉球は日本の一部であったか。沖縄は古い日本そのものだ!」という反応か、「ウチナー(沖縄)とヤマトゥー(日本)が同じなんてとんでもない!琉球は中国の文化圏だ!」という反応だと思います。両方の言いたいことはわからなくはないですが、僕はそのどちらも全面的に賛成することはできません。

ヤマト文化があるから琉球は日本の一部だとか、中国文化があるから琉球は中国だとか、そういう単純な議論では古琉球の深層には迫れないように感じます。

海域アジア世界の十字路に位置し、交易国家であった琉球に外来の人々や文化が入ってくるのは至極当然のことで、例えどのような文化の影響があったとしても、南西諸島に住む人々は自らを他の地域とは違う「琉球の人々」であると自認し、また琉球以外の地域の人々も「琉球」を自分たちと同一視することはありませんでした。

(略)

琉球と文化的に最も近いはずのヤマトでさえも、自らの領域を南九州付近の島々(鬼界が島)までと認識しており、琉球は「異界」と考えられていました。文化の基層にヤマト的要素があったとしても、それは太古からずっと「純粋培養」されていたわけではなく、数百年の交流を続けていくなかで様々な要素と「化学反応」を起こし、似て非なる別物になったと考えたほうが自然です。

(略)

古琉球という時代は、日本や中国、東南アジアの各要素を持ちながら、そのどれとも言えない、「琉球」と呼ぶしかない主体を南西諸島に住む人々が自ら作りあげた、そんな時代だったといえるでしょう。

小林氏はこの結論をばっさりカットし、僕が著書のなかで行った論の過程における「ヤマト風」文化という点だけを抜き出して、自らの主張を補強するために使っているのです。一番肝要な部分をそぎ落として、自分が欲しい事実を、さもそれが全てであるかのように印象づける。これを「おいしいとこ取り」と言わずして何なのでしょうか。小林氏は僕があの本で述べたかったことを全然くみとっていません。拙著を評価していただいたのはありがたいのですが、著者の論証のすえに導き出した結論も理解しないまま、ただ「これは使える」というだけで本を評価されても僕は嬉しくありません。

また小林氏は古琉球辞令書をあげ、「薩摩が入る以前に、琉球国内の公文書が和文で書かれるほど、和風化が進んでいたのだ」(『アイヌと沖縄の真実』17ページ)と主張しています。文脈からして小林氏の持論を根拠づける例示です。おそらく古琉球辞令書の情報は拙著から仕入れたものでしょうが、この点についてもまた問題があります。以下にあげた僕の文章を読んでください。この記事は拙著にも収録されています。

古琉球はどんな文字を使ってた?

僕はこう書いています。

(古琉球辞令書などを紹介して)
「このような事実から、「琉球は日本と同じなんだ」という考えが出てくるかもしれません。しかし、実はそうではありません。結論は、「琉球と日本は同じではない」のです。」

「琉球で日本の「ひらがな」を使っているから「琉球と日本は同じだ」、という結論にはならないことがわかります。それは日本で中国伝来の漢字を使っているから「日本と中国は同じだ」ということにならないのと同じことです。琉球は外から入ってきた文化を採り入れて、自らのものにしてしまった、ということなのです」

僕は辞令書をあげて古琉球は和風化が進んでいたと言っているのではなく、ヤマトをはじめとしたさまざまな各国の要素を琉球風にアレンジして、似て非なる別物の文化を作り上げたと述べたのですが、小林氏はこうした結論には目もくれません。これも「おいしいとこ取り」の一例です。まさか自分がやられるとは思ってもみませんでした。〔追記〕辞令書でもわかるように、小林氏が挙げた事例は全て、ヤマト的要素と他の要素を混合させながらヤマトとは全く違う「琉球化」を遂げたとしか言えないのであり、「和風化が進んでいた」という事実認識は誤りとなります。

そして僕が一番残念に思ったのは次の部分です(『アイヌと沖縄の真実』18、19ページ)。

ようするに上里氏は『沖縄論』を読まずに、沖縄マスコミの流したわしに関するデマを信じて批判したのだろう

(とらひこ注:僕が『沖縄論』を批判した要因のひとつには)沖縄の新聞が、「小林よしのりは思想信条のために、結論ありきで論理をねじまげている」と書き、沖縄の多くの人がそれを鵜呑みにしているからだ

(とらひこ注:踏み絵のイラストを描いて)沖縄では「小林よしのり=悪」という「俗情」ができ上がっていて、これと「結託」しないと知識人も評価されない」

「根拠を捏造してでも、小林よしのりと自分は違うと主張しなければならない。まさに「全体主義の島」である

文脈からすると、僕が「沖縄全体主義」の圧力に屈して小林氏の批判をしている(やらなくては沖縄で生きていけない)ということでしょうか。

とんでもない言いがかりです。小林氏は僕が「(小林氏が存在すると想定する)沖縄全体主義」に敵対するような活動を行ってきたかご存じない(まあ僕は無名の存在なので当然かもしれませんが)。僕はかつて琉球の軍事史をはじめて体系的にまとめ、2000年頃に沖縄の新聞紙上で「古琉球の火器兵器」「琉球史における「武」の諸相」を連載し、戦後を通じて流布し沖縄平和思想の根幹とされていた「琉球非武装神話」の正当性に疑問を投げかけた張本人ですよ。その結果、沖縄の知識人から新聞紙上で批判も浴びせられています。僕は歴史の事実に基づいて平和を考えることが沖縄にとって必要だと思い、あえてこうした行動をとったのですが、このような行為は「沖縄全体主義(なるものが存在するならば)」にとっては裏切りなのではないでしょうか?

僕は自分の頭でものを考えることができます。小林氏の歴史論を批判したのは、僕自身が小林氏の歴史論がおかしいと感じたからです(それは先にあげた、僕の論の都合のいい部分だけを抜き出した手法で明らかでしょう)。ウヨク・サヨク、沖縄・大和は関係ない。沖縄でバッシングに遭っている小林氏が疑心暗鬼になるのもわからなくはないですが、今回の小林氏の見解は全くの妄想です。

小林氏は「沖縄は全体主義の島ではないと言い張る佐藤優が「大嘘つき」だという証拠である」と結論づけていますが、ひょっとして僕は結局、「沖縄全体主義」とそれにおもねる(と小林氏が考える)佐藤優氏を批判するためのダシに使われただけなのでしょうか・・・?そうであれば非常に悲しいです。小林氏は「言論封殺、論破!」(『アイヌと沖縄の真実』26ページ欄外)と書いてありますが、何の論破にもなっていないことを強調しておきたいと思います。

小林氏への応答は以上で終了とさせていただきます。「ゴー宣」での小林氏の主張や論の展開については同意できない部分が多々ありますが、それでも僕は、沖縄においてさまざまな意見・主張を自由闊達に言える雰囲気になるよう願っていて、その点から小林氏がバッシングを恐れず沖縄に対する発言をした行為自体は評価しています。これからまた別の話題に斬り込んでいくのでしょうが、その場所でも頑張っていただきたいものです。僕は「琉球・沖縄」とは何か、その歴史の探ることにこだわってコツコツと地道にやっていくつもりです。

人気ブログランキングに投票
クリックよろしくお願いします

| | コメント (16)

ターバンが冠に変わる時

琉球の官人が身につける冠といえば「ハチマキ(鉢巻、八巻)」。かつてはインド人のターバンのように長い1枚の布をぐるぐる頭に巻いたものでした(こちら参照)。このハチマキ、どうしてターバンから冠のように変わってしまったのでしょうか。

Photo_2

琉球官人のハチマキ(クリックで拡大)

この変化は1600年頃に起こったとされていますが、実は琉球王国の正史『球陽』に、そのあたりの詳しい経緯が記されているので紹介しましょう。

もともとハチマキは約4メートルもの布を頭に八重巻にしたものでした。1619年、国王の尚寧が家臣とともに久高島へ向かう途中、突然の大雨にあってしまいます。ゲリラ豪雨ですね。皆が巻いていたハチマキの布は雨にぬれてヘロヘロ・ヨレヨレになってしまいました。ところが、ただ一人、頭のハチマキがビシッときまっている者がいます。仲地筑登之(ちくどぅん)名礼という人物です。皆の注目の的ですね。

ズブぬれになったヨレヨレハチマキの尚寧王はそれを見て驚きます。聞いてみると、何と彼の巻いたハチマキはフェイクで、実際は木の板を下地にし、そのうえに布を貼り付けてハチマキのように仕立てたものでした。王はいたく感動し、彼を褒賞して、以後は王府官人のハチマキを彼のものにならって改良したといいます。このフェイク・ハチマキは仲地の発明ではなく、脇名国親雲上(わきなぐに・ぺーちん)吉治という人物が1600年頃に考案し、それを仲地がかぶっていたということのようです。

ちなみにハチマキのヒモはこの時にはなく、さらに時代が下って1791年に中国の冠にならって取り付けられたものです。このように琉球官人のハチマキはいくつかの段階の改良をへて、現在見ることのできるかたちになったことがわかります。

それにしても仲地は自分が発明したわけでもないのに、それをかぶっていただけで王様からお褒めの言葉を頂戴するなんてラッキーでしたね。

参考文献:『球陽』

人気ブログランキングに投票
クリックよろしくお願いします

| | コメント (6)

2009年2月11日 (水)

倭寇は琉球船を襲わなかった?(2)

対馬海賊の船に便乗した琉球使節の事例からわかることは、当初、朝鮮への派遣船は琉球が独自に準備しており、対馬賊首の六郎次郎の船へ便乗することに急きょ予定が変更されたこと、また六郎次郎の船は「商船」として琉球(おそらく那覇港)に停泊していたことです。

「琉球使節はたまたま商倭の船とともに来た」(『朝鮮世宗実録』)とあるように、対馬船は交易を目的としてたまたま琉球に滞在していただけで、琉球使節の便乗は偶発的な出来事であり、あらかじめ「盟約」のような特別な協力関係は存在しなかったと考えたほうが妥当です。

このような「便乗」のかたちは本当に特別なものなのでしょうか。おそらく日本中世史に詳しい方は思い当たるかもしれません、これは海賊衆の「警固(けいご)」と呼ばれる中世の慣行に近いのではないでしょうか。警固とは海賊衆が自分の縄張りの範囲に航行する船の安全を保障するため、報酬をもらって「ガイド兼パイロット」の役を担当する行為。警固方式は雇い主の船に海賊が乗り込むか(上乗り)、あるいは海賊船が伴走するなど様々だったようですが、琉球使節の対馬船への便乗はこの警固の一種であったのはほぼ間違いないと思います。当時、日本の遣明船や日本へ向かう朝鮮使節など外交使節船にも海賊衆による警固が適用されていたことから、不自然なことではありません。

朝鮮へ向かう要所の対馬海域はまさに六郎次郎の縄張り。この「海のヤクザ」ともいうべき賊の頭目・六郎次郎に「みかじめ料」を払って味方につけ水先案内をさせれば、これほど安全なことはありません。六郎次郎も当時の社会慣行であった海上警固を琉球に要請されたために容易に応じたのでしょう。対馬側にとっても琉球とともに朝鮮へ向かえば、警固料だけでなく貴重な貿易の機会を手にすることができます。

六郎次郎は当時の慣行にのっとりきわめてビジネスライクに琉球と取引したのであって(契約すれば保護する、そうでなければ襲う)、琉球王との特別な結びつき(たとえば同じ「倭寇」出自であることの仲間意識や親族関係)があったとは思えません。このように琉球は中世日本で一般に行われていた社会慣行をうまく活用して海賊衆(倭寇)を味方につけ、最も安全な方法で朝鮮王朝との通交を再開したのです。

この便乗・委託方式は以後も踏襲され、那覇港で交易活動をしていた博多商人の道安(どうあん)や佐藤信重などが「琉球使節」として朝鮮と通交しています。彼らは琉球国王の代理として一時的に臣下となると同時に、自らの交易品も朝鮮に持ち込み商売をしたのです。やがて博多商人たちはこの外交ノウハウを活用(悪用?)し、偽の琉球使節を仕立てて朝鮮貿易を行ってしまいます。

ちなみに1501年に朝鮮へ向かった琉球使節の乗った船は、4隻で470人の大使節団でしたが、何と琉球人はたったの22人だけ!あとはすべて「倭人」だったようです(『朝鮮燕山君日記』)。このように第二尚氏の時代になっても琉球は船を直接派遣せず、便乗・委託方式は対朝鮮通交の基本スタイルだったことがわかります。

14世紀後半以降の那覇の港町には琉球の現地権力とは無関係に活動する多くの民間交易勢力が滞在しており、日本人の居留地までありました。王府はこうした海域アジアの民間勢力を上手に活用することで、アジア各地域との通交を可能にしたわけですね。

※尚徳王=倭寇説については【こちら

参考文献:橋本雄「朝鮮国王使と室町幕府」(日韓歴史共同研究委員会編『日韓歴史共同研究報 告書 第二分科(中近世)』)、『中世日本の国際関係』、佐伯弘次「15世紀後半以降の博多貿易商人の動向」(『東アジアと日本』2号)、上里隆史「琉球那覇の港町と「倭人」居留地」(小野正敏ほか編『考古学と中世史研究3 中世の対外交流』)

人気ブログランキングに投票
クリックよろしくお願いします

| | コメント (2)

2009年2月 8日 (日)

小林よしのり氏の反論について

僕は以前、小林氏の『新ゴーマニズム宣言SPECIAL・沖縄論』及びSAPIO紙上の「ゴー宣」中に書かれた『沖縄論』批判についての小林氏の反応に対して批判的な記事を書いたことがあります(こちら参照)。

それに対して最近、『激論ムック アイヌと沖縄の真実』(オークラ出版)という本が刊行され、どうもそのなかで小林よしのり氏が僕の批判に対して名指しで反論を行ったらしい、という情報を僕のブログ記事でのコメントから知りました。

僕は小学生の頃は小林氏の「おぼっちゃまくん」の愛読者で、「SPA!」時代の頃から『ゴー宣』はちょくちょく読んでいました(とくに『脱正義論』は大変面白かったです)。小さい頃からなじみのある小林よしのり氏が、ネット上に数多ある批判記事の中からわざわざ僕のブログの批判記事を取り上げ、『ゴー宣』紙上で反論されたことは正直、光栄に思います(皮肉の意味ではないです。念のため)。

小林氏の反論について、入ってきた少ない情報によれば、「お前は『沖縄論』をちゃんと読んでいない。書いていないことを作り上げて批判するな!」という内容らしいです。ただ、現在僕が滞在している沖縄では店頭を探しても見つからず、まだ読んでいませんので、詳細がわかりません。

僕は小林氏に対して、沖縄に敵対する「ウヨク」や「全体主義者」などとレッテル貼りをして非難する気は毛頭ありません。以前の批判記事でも僕は『沖縄論』を全面否定したことはなく、その問題提起をした意義についてはいちおうの評価もしています。これだけは言いたいのですが、小林氏に悪意・敵意をもち論のあら探しをして批判したのではなく、『沖縄論』をひとまず全部読んだうえでその内容を理解しようとつとめたつもりです。よってもし僕の誤読や誤解が明らかであれば、ただちに訂正・撤回する用意があります(もちろん納得できない内容であれば反論します)。言うまでもないですが、僕は批判の対象となった記事を削除することは決してありません。

いずれにせよ、今回の小林氏の『ゴー宣』と『沖縄論』を再度丁寧に読んで、僕の見解を出したいと思います。ただし現在さまざまな仕事が山積しており、また反論と『沖縄論』を読む時間も必要ですから、ただちにこれを実行することはできません。今しばらくお待ち願えればと思います。

この件に関しての僕からのコメントは、今のところこれだけにとどめておきます。あしからずご了承ください。

※小林氏反論への僕のコメントは【こちら】を参照してください。

人気ブログランキングに投票
クリックよろしくお願いします

| | コメント (9)

2009年2月 4日 (水)

倭寇は琉球船を襲わなかった?(1)

大交易時代、琉球王国はアジア各地域に交易船を派遣してばく大な富を手に入れ、繁栄を極めたことはよく知られています。琉球船が活躍していた同じ時期、アジアの海には「倭寇(わこう)」と呼ばれる海賊が荒らしまわっていたのですが、琉球船はこの倭寇に襲われた事例がない、という意見があります。これは本当なのでしょうか。

結論を先に述べてしまいますと、これは事実ではありません。琉球船は常に倭寇襲撃の危険にさらされており、そのなかで海外貿易に乗り出していたのです。

例えば1421年(第一尚氏の時代)には、琉球船が倭寇の船20隻に襲われ、皆殺しに遭っています。以降、琉球船は海賊に備えて貿易船に防衛のための武器を積んだ、と琉球の外交文書集(『歴代宝案』)にあります(※)。同じく1421年、前九州探題・渋川道鎮から朝鮮王朝への報告によると、朝鮮へ向かう琉球船が対馬(つしま)の海賊にまちぶせされ、死者数百人、貿易品は略奪され、生存者は奴隷として連行、船も焼失するという惨事が起きています(『朝鮮世宗実録』)。これ以降、琉球は朝鮮へ直接、船を派遣することはなくなってしまいました。

また1420年に京都へ向かった朝鮮使節は、瀬戸内海の海賊衆から「琉球船は宝物を満載しているので、船が来たらただちに略奪する」との証言を聞いています(『老松堂日本行録』)。これらの事例からでもわかるとおり、15世紀初頭の琉球にとって倭寇は大きな脅威だったのです。朝鮮半島方面の海寇・倭寇と琉球(とくに第一尚氏王朝)が特別な友好関係であったとする説は、これらの事実から成り立ちません。

では琉球は倭寇に対してただ手をこまねいていただけなのでしょうか。いえ、そうではありません。1431年、琉球は朝鮮に再び使節を派遣します。その時、琉球使節とともにいたのは、何と対馬海賊の頭目、早田六郎次郎でした。彼は対馬の豪族、早田左衛門太郎の子で、この頃の早田氏は対馬島主の宗氏をしのぐほどの実力者となっています。おそらく早田氏は対馬での琉球船襲撃事件にも関与していたと考えられます。

この時の琉球使節は朝鮮国王に対し、こう述べています(『朝鮮世宗実録』13年11月)。

「我が琉球は武寧・思紹王の頃より朝鮮と友好の礼を互いに行ってきました。しかしその後、倭人(倭寇)が(通交を)妨害し、ひさしく修好を行なえませんでした。昨年、以前のようによしみを通じようと船を準備して風を待ちましたが、数か月もよい風が吹きません。そのとき、対馬の賊首・六郎次郎の商船(1隻)が琉球に滞在していたので、それに便乗してやって来ました」

1421年の対馬の海賊襲撃事件以来、琉球は倭寇を警戒し朝鮮へ派遣船を出せずにいたことがうかがえます。さらに驚くべきことは、琉球使節は自分たちを襲った側であるはずの対馬海賊の船に乗って朝鮮へやってきたのです。

これはいったいどういうことなのでしょう。やはり琉球は倭寇と何らかの同盟関係にあったのでは?と思うかもしれませんが、ちょっと待ってください。そう考えるのは早計です。その理由は次回に。

(【こちら】につづく)

※以前に『歴代宝案』の倭寇襲撃の記事を中国派遣船と考えましたが、この対馬での事件を指している可能性があります。

※万国津梁の鐘「三韓」=琉球王・朝鮮出自説については【こちら

参考文献:『歴代宝案』、『朝鮮王朝実録』、宋希璟『老松堂日本行録』

人気ブログランキングに投票
クリックよろしくお願いします

| | コメント (2)

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »