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2009年1月14日 (水)

島津軍の琉球侵攻(2)

3月25日、島津軍は沖縄島の属島、古宇利島へ上陸しました。対する琉球側は三司官・名護親方良豊(馬良弼)率いる1000名の兵を北部防衛に向かわせました(注8)。

古琉球には首里王府のもとに編成された数千人規模の軍事組織が存在していました。この軍勢は『おもろさうし』で「しよりおやいくさ(首里親軍)」と謡われ、首里・那覇の防衛のみならず、奄美・先島地域への征服活動を担った琉球王国の「軍隊」でした(注9)。有事の際には、「ヒキ」と呼ばれる軍事組織が三隊に分かれ、首里・那覇をそれぞれ防衛することが1522、1554年の軍事制度で規定されていました(注10)。

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【図】古琉球の軍事組織(クリックで拡大)

一方の島津軍は戦国時代、多くの戦闘を経験し勇猛で知られていました。例えば文禄・慶長の役(壬申・丁酉倭乱)時、泗川の戦い(1598年)では、島津軍8000の兵で明・朝鮮軍約4万を撃破し(5000以下の兵で20万の敵を撃破したとも)、実に3万の首級をあげています(注11)。琉球侵攻軍には樺山久高など泗川の戦い経験者が従軍しています。島津軍はわずか3000の兵でしたが、このような東アジア有数ともいえる精強な軍団に、実戦経験のない琉球軍は対抗する術をほとんど持たなかったのです。

しかし、この戦争での島津軍の戦死者は「雑兵一、二百人ほとも戦死仕侯由」(注12)と、100人から200人が戦死したようです。島津側は「殊更味方ハ多くも亡ひ申さす侯」と、自軍の損害が軽微だったと考えていたようですが、島津軍3000人のうち200人も戦死するほどの戦闘が琉球軍との間で行われていたわけで(負傷者はさらにこれを上回るでしょう)、琉球側は島津軍の侵攻に対して実際に応戦したのです。これが、琉球が戦わずして負けたのではないことを示す決定的な証拠です。

3月26日、島津軍と名護親方率いる琉球正規軍が北部で激突しました。琉球軍は兵の半数を失う敗北を喫し、名護も島津軍に捕えられます。『歴代宝案』以外の史料にこの戦闘は記されていませんが、28日には沖縄島北部を統括する山北監守・向克祉(今帰仁按司朝容)が死亡しており、戦死したとみられています(注13)。北部地方で何らかの戦闘が行われたことは間違いないでしょう。

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【図】島津軍が占領した今帰仁グスク(クリックで拡大)

3月27日、島津軍は運天港から今帰仁地方を巡回しましたが、北部の拠点・今帰仁グスクの琉球軍は撤退していて空城でした。またこの時、島津軍は方々で放火・略奪を行っています。戦国時代の日本では敵地での人狩り・物資の略奪が雑兵の戦利品として一般化しており、雑兵たちはこれを目的に戦闘に参加していました(注14)。この「戦国の論理」が琉球にも持ち込まれたのです。トカラには琉球侵攻の際に連行された琉球人の伝承も残っています(注15)。琉球侵攻前に定められた島津軍の軍規は琉球人への乱暴狼藉を禁止していましたが、実際には守られていなかったようです。

島津軍来襲の報を聞いて、那覇は避難する住民で大混乱に陥ります。王府は禅僧の菊隠宗意らを和睦の使者として今帰仁へ派遣しましたが、島津側に「交渉は那覇で行う」と拒否されました。

3月29日、島津軍は運天港を出て沖縄島中部の大湾渡口(読谷村)に到着、ここから軍は陸・海の二手に分かれ首里・那覇へ向けて進軍します。侵攻の経路が山北監守の拠点であった今帰仁をいったん通過し、さらに王国中枢の首里・那覇を目指したことから、島津軍の侵攻作戦が琉球の二大拠点の攻略を目的としていたことがわかります。

(「島津軍の琉球侵攻(3)」につづく)

【注】
(注8)『歴代宝案』1-18-3(『歴代宝案 訳注本』第1冊、沖縄県教育委員会、1994)
(注9)上里隆史「古琉球の軍隊とその歴史的展開」(『琉球アジア社会文化研究』5・6号、2002‐2003)
(注10)高良倉吉『琉球王国の構造』(吉川弘文館、1987)
(注11)村井章介「島津史料からみた泗川の戦い―大名領国の近世化にふれて―」(『歴史学研究』736号、2000)
(注12)『旧記雑録後編』巻64「維新公御文抜書」(『鹿児島県史料 旧記雑録後編4』、1984)
(注13)高良倉吉「山北監守をめぐる問題点」(同著『琉球王国史の課題』ひるぎ社、1989)
(注14)藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995)
(注15)『宮本常一著作集17 宝島民俗誌・見島の漁村』(未来社、1974)

※本ブログ記事「侵攻400周年シンポに参加して」もご参照ください。

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コメント

今年は
島津侵攻400年ですね。

きちんと
通史はわからないのですが、
新聞にも取り上げられてることがあったり、
イベントなどもありそうな予感cat


この機会に
改めて勉強しなければと
思ってたところですup


とらひこさん。
詳しい解説
ありがとうございますshine

投稿: あまりりす | 2009年1月16日 (金) 18:41

とらひこさん、いつも分かりやすくて丁寧な情報ありがとうございます。

そしておめでとうございます。
今日の沖縄タイムス朝刊に「窪徳忠賞に上里さん」「アジア海域史に新視点」というタイトルと写真を見つけました。

琉球と中国、台湾の比較研究の分野で優れた業績を挙げた若手研究者に贈られる、窪徳忠琉中関係研究激励賞(主催・沖縄国際大学南島文化研究所)だそうです。

敬愛するとらひこさんが受賞されたこと、心からうれしく思います。これからのさらなるご活躍も期待しています。

投稿: 南ふう | 2009年1月17日 (土) 09:57

>あまりりすさん
いつもブログを読んでくださり感謝です。

島津侵攻400周年ということで、イベントや特集などいろいろ知る機会は増えてきますね。このブログ記事もコンパクトにまとめましたので、勉強する際に参考にしてくださいね。

>南ふうさん
どうもありがとうございます。「目からウロコ~」だけではないことも県民の皆さんに知ってもらえることができた点は良かったです。これからもがんばりますので、応援よろしくお願いします。

投稿: とらひこ | 2009年1月17日 (土) 12:08

興味深い記事ばかりで楽しく読ませていただいております。ところで島津軍の死者200人とのことで、これはとらひこ様も言われるとおり、かなり重大な損害です。負傷者が二倍とすると600人が戦闘不能。3000名中、少なくとも半分は後方支援部隊ですので、戦闘員の4割以上が失われる計算です。
本当にこんだけ死んでたらかなりの激戦で、侵攻作戦の継続も危ぶまれますし、もっと大きなニュースになります。命令伝達系統はダメージを受けるし、足軽の士気も下がるでしょう。近代軍でも、全軍の三割死傷で全滅判定を受け、再編成の対象になります。薩摩の損害は全滅一歩手前の状況です。しかも通信技術が未熟で、統制がより困難な中世の軍ではこの水準はもっと下がると思います。
結論を言えば100~200という数字は、かなり幅があり、大雑把な数字だと思います。目算した場合、常に過大な数字になりがちです(泗川の戦いもそうですね)。島津軍の百戦錬磨の将軍が軽微な損害というならば、実際の数字もそれに即したものを想定すべきです。

投稿: パンダル50cc | 2010年12月 6日 (月) 11:48

>パンダル50ccさん

いつもありがとうございます。島津軍戦死者についてですが、確かに大雑把な概算ではあったと思いますが、僕は100~200名の範囲で実数に近く、極端に外れるようなことはなかったと考えています。

根拠となる義弘の御文抜書では、ちょっと僕の書き方が足りず誤解させてしまったかもしれません、「雑兵100~200名ほどが戦死しているが、このように異国を従えようとするには、戦死はわずかなことと思う」と書いてあり、100~200名の損害そのものが軽微と考えているのではなく、「異国征服という大事な戦いのわりには」軽微であった、と義弘は考えたようです。また、首取りの戦功のように、数字を実数より過剰に見積もることがメリットになるのならわかりますが、戦死者をあえて多く見積もることが何らかのメリットを生むとは考えにくく、過剰報告をあえて義弘が行う必然性がありません。

琉球戦役では徳之島、今帰仁周辺、那覇港、首里入口などで戦闘が行われていますが、激戦も行われています。ここで注意すべき点は、混成部隊が個々に琉球軍に当たっている点です。たとえば島津軍がもっとも大きな被害を出したと推定される那覇港口の戦いでは、侵入した6隻の島津軍船(1隻につき40名ほどが乗船する計算)が全て沈没したと『琉球入ノ記』『歴代宝案』にありますが、この部隊はトカラ七島衆のみの部隊であり、こちらが全滅しても陸路を行く樺山本隊が首里へ南下して首里城を陥落させています。正確な戦死者は不明ですが、数字上で言えばこの海路軍だけ全滅しても240名がいなくなりますが、残り70隻あまりから別の地点に上陸した陸路軍にはほとんど影響ありません。

このように全滅判定に関しましても、近代軍においてはともかく、数字上の計算とは異なり、10パーセントの損害でも戦闘は可能だと思います。そして何より、史料という根拠を重視すべきであると僕は考えています。

投稿: とらひこ | 2010年12月 6日 (月) 17:52

もうこれで最後にしようと思いますが、桐野作人氏の琉球入ノ記の解釈では、4月1日の戦いでは舟が一隻沈んだが、沖の樺山殿の船に全員泳ぎ着いた、とのことですが、全隻沈没とどちらが正しいと考えるべきでしょうか。

それから、桐野氏の解釈なら、琉球入ノ記の主張どおり戦死者ゼロでもおかしくないと思います。当時の石火矢の弾丸はただの鉄球で、方向を変えるにも一苦労。しかも撃ってるのは一門だけではないでしょうか?海上でバラバラに逃げる船員を狙うことは不可能です。
ただ、全隻沈没なら、岸に逃げるしかなく、琉球側の主張のとおりになると思います。

ダメージの判定については自分の説明が行き届かなかったようです。これはその集団が軍隊として機能している状態を基準にしますので、海路軍と陸路軍は別のユニットとして考えるべきです。

投稿: パンダル50cc | 2010年12月 7日 (火) 02:17

>パンダル50cc さん

島津軍侵攻に関する史料は『琉球入ノ記』のほかにも、『琉球渡海日々記』、『歴代宝案』、『喜安日記』、「肝付家文書」その他もろもろがあります。どちらかの史料ではなく、これらを総合して事実がどうだったかをみていく必要があります。

那覇港口の戦いは、別の史料『歴代宝案』では「船は各自連携(つらな)り角(あらそ)いて礁に衝(あた)る。沈斃し及び殺さるるもの、勝(あ)げて紀(しる)す可からず。」とあります。

『琉球入ノ記』は後世の七島衆による編纂物であり、その真偽を細かく確かめる必要があります。諸史料ではこの時点で樺山は別ルートから上陸しており、また『琉球入ノ記』ではこの後、運天港から上陸とあるので、この箇所に関しては疑ってかかる必要があると思います。

なお『琉球入ノ記』では「船悉く打ち破られ候、去れども壱人も怪我無く沖へ泳ぎ」とあり、桐野氏の解釈はちょっと違うと思います。ここには船は全滅したが負傷者はいなかったと記してあります。しかしこの状況で負傷者ゼロはかなり考えにくく、史料の性格が後世の自らを顕彰する目的があることから、この箇所に関しては歴代宝案の記述が正しいと考えます。

つまり那覇港口の戦いではまったくの戦死者ゼロは考えにくく、戦死傷者がある程度出たと考えるべきです。大砲については『琉球入ノ記』に「高石垣に所々矢狭間を明け、大石火矢を構え置き」と複数箇所に設置した様子がうかがえ、また実際に那覇港口砲台は南砲台だけでも16ヶ所の銃眼が存在しますので、大砲が1門だけだったとは考えにくいです。最近では首里城の鋳造工房から大砲の一部が発見されており、大砲の生産体制は整っていました。さらに琉球側は大砲だけでなく「手火矢(火縄銃か)」と呼ばれる小火器も数百丁装備しています。琉球軍による攻撃以外にも、また船の沈没に際し溺死者も想定されます。

海路・陸路軍が別ユニットということですが、僕もそういう捉え方でいいと思います。ただ、義弘が言及した戦死者はどちらかの軍に限定しておらず、陸海両軍をあわせての島津侵攻軍を指しており、僕が先に主張したとおり、100~200名程度でも近代軍のように統率不能という事態になることはなかったように思います。というか、そもそも琉球侵攻時の島津軍は無傷でも完全な統率はほぼ不能であり、軍の構成も事実上もっと細かい部隊に分かれて各個行動していたと考えるべきでしょうね。

ちなみに首里攻撃も軍上層部の慎重に攻撃するとの方針を無視して足軽衆が独断で攻撃を開始し、はからずも琉球軍を撃破してしまったのが真相のようです。

いずれにせよ、コメント欄では詳細かつ多数にわたるご質問には、全てが伝えられずなかなかお答えしにくいです。完璧に答えようとすれば、それはもう論文になってしまいます。挙げられたご質問や疑問点はだいたい拙著『琉日戦争一六〇九』に書かれていますので、ぜひそちらを参照されてください。

投稿: とらひこ | 2010年12月 7日 (火) 09:37

打ち破られというのは沈没したことを示すのでしょうか。歴代宝案をみても、舟がさんご礁に当たったとは書いてありますが、「沈斃し及び殺さるるもの」の主語は船員だと思います。斃は船には使わないのでは?また、これは船員が潜水して狙撃を避けるのを誤認したのが多いのではないでしょうか。そもそも沖に泳ぐには、泳いだ先で回収してもらう必要がありますが、大湾で分離したのは確かに5、6隻だけで、この海域にはとらひこ様が悉く打ち破られたとする船隊しかいません。従ってそのうちどれかが無事である必要があります。
七島衆が被害を過小に申告することは確かにあり得ますが、一方で被害が出たならそう言ったほうが、そんな戦いで頑張ったオレ、をアピールすることができます。被害についての嘘のベクトルは一つではありません。これは義久が受け取った報告にも言えます。
>100~200名程度でも近代軍のように統率不能という事態になることはなかった
指揮者が死亡しても、指揮権委譲が命令なしでも速やかに行われ、一兵卒に至るまで士気が高い近代軍より、旗色が悪くなったらすぐ逃げ出す足軽を、代えの効かない指揮官が見張ってなきゃいけない中世軍が、ダメージに強いというのはあり得ません。
また、3000名中の100名と200名とでは全く違うと思います。
>琉球侵攻時の島津軍は無傷でも完全な統率はほぼ不能であり、軍の構成も事実上もっと細かい部隊に分かれて各個行動していたと考えるべきでしょうね。
鹿児島から船団を組んで延々渡海して、また大湾から那覇まで隊列を維持して行軍できる3000名の集団に、「完全な統率がほぼ不能」とは不適切な表現ではないでしょうか。また、各個行動する部隊が、即戦闘能力を失うわけではありませんが、作戦能力は大幅に低下します。3000名が三つに分離したら、すぐ1000名未満になってしまいますよ。王府軍の兵力を集中させれば弓矢でも充分圧倒できます。連携が取れてない1000名ずつの集団なら、二つは無視していいのです。カタマリになっててもちょっとフェイントかければ、追いかけてくるときに分離します。人間の集団は、統率しなければすぐバラバラになります。三山時代以後も奄美征伐とかやってた琉球軍が、薩摩軍の状態を見極められないバカだとは思えません。

投稿: パンダル50cc | 2010年12月 7日 (火) 15:51

>パンダル50cc さん

コメントは前回で最後にするのではなかったんでしょうか・・・

『琉球入ノ記』の記述「船悉く打ち破られ候」は素直に読めば沈没を意味しているとしかいえません。なぜ船はあるのに飛び込んでわざわざ「沖へ泳ぐ」のでしょうか。ちょっと無理な解釈ではないかと思います。

「沈斃し及び殺さるるもの」とは、まさに島津軍兵でしょう。たしかに船そのものの記述ではありませんが、ではなぜそのような状況に陥ったのか、『琉球入ノ記』と総合して考えれば沈没したからこその結果だと明らかなはずです。

確かにパンダルさんの解釈の可能性は「ゼロ」ではありませんが。先にも書いたように、双方の史料を素直に、総合的にみれば沈没したという解釈がもっとも適当であると思います。ただ船数に関して史料の記述が正しいか、実数は定かではなく、本当に全て撃破されたどうかは、今後検討の余地はあります。

いずれにせよ那覇港口の戦いで島津軍は相当なダメージを受け、多くの沈没船を出した。まったくの戦死者ゼロは考えにくく、戦死傷者がある程度出たというのが僕の見解です。

統率能力についても、ご自身の憶測で言われても、僕は「そうですか、そういう可能性もありますね」としか言えません。先にも書きましたが、複数の史料や先行研究、総合的に勘案してどの説が妥当かを判断すべきです。

今のところ、パンダルさんの異論が、僕の考える説・従来説を覆すほどの説得力を持っていて、変更するような必要はないと考えます。別のご意見としてはそういう考えがあってもいいとは思いますが。

確かに史料は全てが正確に記しているわけではありませんが、パンダルさんのように細かい可能性を考えればそれこそキリがありません。さまざまな事態を想定して考えるのは大事ですが、可能性はゼロではなくても「蓋然性が高いかどうか」、また諸史料から導かれた状況を勘案して判断しなくては、いけないと思います。そうでなければ単なる思いつき、「重箱の隅つつき」になってしまい、有意義な議論ではなくなってしまいます。

結構長々とお答えしてきましたので、僕のほうからパンダルさんへの回答はこれで終了としますね。

投稿: とらひこ | 2010年12月 7日 (火) 16:40

軍規の乱れについてですが、
足軽が勝手に首里に進軍した例をあげておりますが、この理由はまさにとらひこ様が言われる、自分の利益を優先する足軽の性質にあると思います。しかしそれがどうやったら、前段で述べておられる上層部の対立に結びつくのでしょうか。足軽はそんなものは感知しないと思います。実際、足軽が先走った直後には、全軍が速やかに追尾しており、その前後で三者の対立も何も見られてはおりません。

また、歴々不行儀というのも、結局処罰された例は挙げておられませんね。結局のところ、軍規違反があったにせよ、許容範囲内にすぎなかったのではないでしょうか。
大体、三者の対立を強調するなら、樺山選んだ理由が分かりません。樺山が家久の家老なら、平田も義久の家老。座布団は同じですよ。対立がそんなに深刻なら、逆効果じゃないですか。

首里城内の略奪を味方の兵を以って制止したのも軍規の乱れに数えておられますが、現代の軍隊もMPという味方の兵によって掣肘しております。現代の軍隊は軍規が乱れておりますか。戦争の終末段階ではごく普通に見られる光景です。兵隊というのは、鶴の一声で単純に言うことを聞くものではないのです。
ましてや当時の足軽はそうです。近現代の国民軍と違い、徴兵すれば次々湧いてくるわけではありません。数には限りがあり、しかもすぐ逃げます。略奪を保証してご機嫌を取り持たないといけない存在なのです。

投稿: パンダル50cc | 2010年12月 7日 (火) 18:13

>『琉球入ノ記』の記述「船悉く打ち破られ候」は素直に読めば沈没を意味しているとしかいえません。なぜ船はあるのに飛び込んでわざわざ「沖へ泳ぐ」のでしょうか。ちょっと無理な解釈ではないかと思います。

難破して行動不能になっても飛び込む必要がありますよ。
そもそも回収してくれる船がいないのに「沖へ泳ぐ」ことは絶対に有り得ません。
ベテラン船員でも永遠に泳ぎ続けることはできません。沖に出たら確実に死にます。投降して捕虜にしてくれる確率にかけたほうがまだマシです。そこが敵地であっても陸地に向かって泳ぐのがセオリーです。レイテ湾口では、実際にそうやって、フィリピンゲリラに殺された帝国海軍兵は大勢います。

投稿: パンダル50cc | 2010年12月 7日 (火) 18:47

琉球軍はUFOの大群に攻め滅ぼされた「可能性」だって考えられるじゃないかなんて話してんのか?
読んでいてイライラしてきたわ。
何を伝えたいんだ?

投稿: 読者 | 2010年12月 7日 (火) 18:51

そもそも全隻撃沈される状況とは何でしょうか?一隻が撃沈された後にまた一隻、そのまた一隻と、バカ正直に突っ込んできてくれたんでしょうか。それとも全隻が那覇港まで入るのを待って、砲門を開いたのでしょうか。待ってる間に一隻目が揚陸成功するような気がしますが。

打ち破られっていうのは単に負けた、って解釈したほうがよかないですか。

防備が固いのが分かりきってる港に、40隻中の5、6隻って明らかに陽動だし、全滅するようなやる気満々の戦闘ってやらないと思いますよ。

投稿: パンダル50cc | 2010年12月 7日 (火) 18:58

>パンダル50ccさん
ご意見はいろいろあるようですが、コメントでのご意見の披露はそろそろ終わりにしていただけないでしょうか。最初はともかく、どんどん冷静さを失い不毛な議論になりつつあるように感じます。最初にお話ししたように、ここではなく、ぜひブログなり何なり別の場でご自身の説を披露してください。

それでは失礼します。

>読者さん
お気持ちはわからなくはありませんが、どうかコメント欄においてはお言葉を慎重にお願いします。荒れる原因になりますので・・・

投稿: とらひこ | 2010年12月 7日 (火) 19:02

すまん!!
そのうちランチェスターに則った琉球入りを聞かされそうな気がして(それはそれで面白そうだが)
大人しくするわ。
とらひこも頑張りや

投稿: 読者 | 2010年12月 7日 (火) 19:14

コメント欄投稿者・パンダル50ccさんは【長文・連続投稿のため本ブログでの自説の披露を控え、別ブログ等の他の表現に移ってほしい】【パンダル50ccさんに対する回答は終了する】との旨を書いたにもかかわらずこれを無視し、この2日間で深夜・早朝・日中と時間を問わず20回近くのコメントを繰り返し、自説を一方的に延々と展開されています。こうしたコメントはすでに上記のようにお伝えしたため、すべて非掲載としています。またそれでは飽き足らず、メッセージまで送り付けてきました。

内容のごく一部には傾聴に値するものもありましたが、大半は自説の繰り返しと他のミリタリー知識などを活かした独自の「憶測」、僕のコメントの粗探しに終始しており、逐一反論する必要はないと判断します。また僕は1日中このような不毛な反論を相手にする時間的余裕もありません。

パンダル50ccさんはコメントのなかで何度も「これで最後」と述べながら、その後の連続投稿を繰り返す行動は、自制心を失ってきわめて感情的になっており、互いの有意義な議論にはならないものと考えます。

こうした行動は常軌を逸しており、ネット上のマナーに著しく反するものと考え、やむをえずパンダル50ccさんに対し【コメント禁止措置】をとりました。先に書いた僕のコメントをよく読んでおられなかったようなのでもう一度だけ述べますが、僕の批判なら存分にされてください。ただしご高説の披露は自らのブログ、掲示板、雑誌等の投稿論文などでなさってください。今後もし別手段を用いてコメントをされても、スパムコメントとして全て読まずに削除いたします。


昨今のコメント投稿の状況もふまえ、本ブログに関してもコメント投稿のガイドラインを作成することも検討したいと思います。議論されるのは結構です。異論・反論も基本的に排除することはしないようにと心がけています。ただし、ここはあくまでも僕個人の運営するブログであり、投稿された内容に対し回答・議論するかどうかはブログ主の判断で決めます。また最低限の常識・マナーをわきまえない方、独善的な姿勢での一方的主張、勝手な本ブログの「私物化」は、その説がどんなものであっても、議論するに値しないと考えます。以上ご了承ください。

投稿: とらひこ | 2010年12月10日 (金) 08:42

パンダルさんのコメントのなかでひとつだけ重要な指摘がありました。今日もさらにコメントを投稿され、何でも『歴代宝案』の原文まで探してチェックされ、その文中の琉球の使用した武器「鋭」という字が、実は「銃」だったという指摘です。僕も含め、今まで誰も気づいていませんでした。これは大変重要な指摘・発見です。那覇港口の戦いにおいて琉球側が火器兵器を使用したのは、両軍史料から裏付けられた格好になります。これはパンダルさんの学術上の功績になります。正直、非常に興奮しています。

たしかに原文を当たるのは基本中の基本ですが、『島津家文書』など和文関係は当たっていましたが、『歴代宝案』は難解な漢文ということもあり、「たぶん忠実に書いてあるだろう」と校定本のみを参考にしていました。やはり原文に当たる大事さを改めて気づかせてくれました。どうもありがとうございました。

この発見は「ネットからの指摘による」と注記し、今後の論文などに反映させますね。ご希望でしたら本名も記載しますので、その際はおっしゃってください。

なお「銃」は小火器に限らず、中国では大砲形式のものもこう表現したりするので、『琉球入ノ記』との記述も合わせると、「大石火矢」と考えても特におかしくはありません。ただ当時の火器保有状況から考えると、大小さまざまな火砲を用いて迎撃したと考えたほうが妥当ではないかと思います。

先のコメントでも書きましたが、僕の主張は完璧・絶対のものとは思っていません。専門家を気取っているつもりもなく、先にも書きましたようにまだまだ未熟者の学生風情です。的確な反論、指摘がありましたらただちに訂正する準備はいつでもあります。

パンダルさんは軍事に非常に精通しておられるようですから、こんな場末のブログのコメントなどではなく、ぜひご自身の主張を投稿論文など広く目にできるようなかたちで公表されたらよろしいかと思います。

なおコメントに関しましては先に書いたとおり、これ以上はひかえさせていただきますね。ご了承ください。

どうもありがとうございました。

投稿: とらひこ | 2010年12月11日 (土) 09:07

一つ目は「鋭」。他の「鋭」と全く一緒。指揮官は指示が役目だから別に銃を持つ必要ないし、全く問題ない。
文章の構造上も、対称性はなく、二つが必ず同じである必要はゼロ。

二つ目は「銃」。「ム」がちゃんと書かれてないが、第一集では三つの「銃」が使われてるが、(執鋭は省く)最後の「銃」と形がよく似てる。少なくとも「鋭」では絶対にない。

投稿: 執鋭、発銃ぢゃな | 2010年12月11日 (土) 17:29

>執鋭、発銃ぢゃなさん

ご教示ありがとうございます。

まだ原文をきちんと検討したわけではないので、参考になります。「鋭」「銃」ともに似ている文字なので、ご指摘の箇所をふくめ、僕なりにもう一度じっくりと見てみようと思います。

投稿: とらひこ | 2010年12月11日 (土) 20:14

初めてまして

初めてブログ拝見させて頂きました。

とても分かりやすくて
勉強になりました。

常連にならさせてもらいますねっ


そういえば、薩摩は陸上と海に分かれたってありますが、

もしかして海のほうは
王府側がたたいたんでしょうか。

陸上からの攻撃としか知らないもので…。

投稿: 久米の末裔 | 2011年2月 8日 (火) 22:41

>久米の末裔さん
訪問ありがとうございます。

海路の島津軍は一部が那覇港へ向かい、そこで港口に陣取っていた謝名親方率いる王府軍にいったんは阻止されたようですよ。

ただ島津軍の主力は陸路ですから、海路に対してほぼ全力防御だった琉球側は背後を突かれた格好になり、敗北してしまったというのが真相だと思います。

今後とも訪問よろしくお願いします。

投稿: とらひこ | 2011年2月 8日 (火) 23:27

我が家に伝わっている家譜の中に、①大美御殿代官筆者、②中城御殿代官筆者、③首里大屋子という役職が出てきますが、代官は年貢の取り立てだと思いますが、御殿ごとに代官があったのでしょうか。また間切りのトップが首里大屋子であったとしたら、俸禄知行地は与えられたのでしょうか。地頭との関係は?

投稿: デイゴ | 2011年2月20日 (日) 11:41

>デイゴさん
大美御殿代官筆者という役職は『琉球国由来記』にも大美御殿の職として記載されていまして、ご指摘の年貢徴収者としての代官とは関係ないようです。中城御殿代官筆者も同様でしょう。

首里大屋子は間切掟とともに「サバクリ」と呼ばれた地方行政職で、近世期には通常、士族ではなく各地域の百姓が就く職だったと思いますが、家譜にどのように記載されているのかわかりませんが、古琉球期の記事でしょうかね。

首里大屋子は古琉球期には間切行政のトップですが、近世期には地位が低下します。地頭代が事実上のトップです。土地は地頭地ではなく「おえか地」からの収入があります。地頭は首里にいて基本的に間切に居住することはありません。その代理人として地頭代が行政を担当するのです(この役職も百姓です)。

家譜や役職については詳しくは那覇市歴史博物館に問い合わせてみてください。

投稿: とらひこ | 2011年2月21日 (月) 11:24

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