« 窪徳忠賞を受賞! | トップページ | 土で作られた緑の宝石 »

2009年1月21日 (水)

島津軍の琉球侵攻(3)

4月1日、七島衆を主力とした海路の島津軍が那覇港に突入しました。那覇は謝名親方利山(鄭迵)、豊見城親方盛続(毛継祖)ら3000の兵が陣取っていました。那覇港口には屋良座森・三重グスクの要塞【図】が築かれており、鉄鎖により港を封鎖、両要塞からは「大石火矢(大砲)」による砲撃(『歴代宝案』には「銃を発し」とあります)が行われ(注16)、軍船は侵入を阻止されます。

Photo_12

【図】屋良座森グスク(クリックで拡大)

那覇防衛軍は謝名・豊見城ら2名の「師官」に統率されていました(注17)。これは軍が二隊で構成されていたことを意味し、有事の際に「ヒキ」から成る二隊が那覇防衛に当たる軍事制度に一致します。この日、豊見城は臨時の三司官職に就いており(注18)、捕縛された名護に代わって軍を指揮したとみられます。「ヒキ」を統率する官衙の長は三司官でした。琉球の軍事制度は実際に発動された可能性が高いといえます。

一方、大湾から上陸した陸路の島津軍は浦添グスクと龍福寺を焼き払い、首里に向かってさらに南下しました。琉球側は那覇に兵力の大部分を集中し中部地方に兵を配置しておらず、守備の手薄な部分を突かれた格好となりました。島津軍は浦添間切の小湾で軍議を開き、首里・那覇の状況を見定めてから攻撃を開始します。

島津軍の首里接近に対し、越来親方率いる100人の兵が首里入口の大平(平良)橋で迎え撃ちました。大平橋付近は浦添グスクから首里へ入る道が整備され、また首里北方面から市街地へ進入できる通路となっており、鎌倉の切通のような軍事的要衝の地でした(こちら参照。絵図左上部分の平良橋がそれです)。琉球側はここで島津軍をくい止めようと図ったのです。しかし島津軍の鉄砲の前に琉球軍は壊滅し、首里城へ退却しました。この時、城間鎖子親雲上盛増は鉄砲に当り戦死しています。謝名らの那覇防衛軍も島津軍の首里城接近を聞き、首里へ退却します。

首里入口の防衛線を突破した島津軍は首里市街になだれ込み、首里城は包囲されます。首里城・西のアザナ(物見台)では法元弐右衛門の兵が城内への侵入を試みましたが、王府に仕えていた日本人・山崎二休守三の守備兵により撃退されました(注19)。

首里・那覇の各所では島津軍による放火・略奪が行われました。この日、那覇の親見世で和睦交渉が開始されましたが、その最中にも命令を無視した放火が行われ、島津側は市来家政らの兵を向かわせ制止しています(注20)。ほぼ勝敗が決した中で、戦利品を目当てに雑兵たちが思い思いに略奪行為を働いていたとみられるのです。統制の取れない島津軍の状態を示すものといえるでしょう。この結果、聞得大君御殿、仙福庵、豊見城親方の宿所、また那覇の広厳寺、その他多くの民家が灰燼に帰し、各家々の日記や文書、貴重な宝物なども火災で失われてしまいました。

(「島津軍の琉球侵攻(3)」につづく)

【注】
(注16)上里隆史「琉球の火器について」(『沖縄文化』91号、2000)。古琉球には中国伝来の旧式火器の「手銃」及び大型火器の「石火矢」などが存在していましたが、17世紀初頭の琉球の武装は銃より弓矢の比率が2:5と多く(袋中『琉球往来』)、島津軍のように大量の火縄銃(侵攻軍の鉄砲保有数は弓117張に対し734挺)で武装されていなかったとみられます。
(注17)注8と同じ。「ヒキ」と軍事制度については「島津軍の琉球侵入(2)」の図を参照。
(注18)『毛姓家譜』(『豊見城村史』第9巻 文献資料編、1998)
(注19)『葉姓家譜』(那覇市歴史博物館蔵)
(注20)注5と同じ。

人気ブログランキングに投票
クリックよろしくお願いします

|

« 窪徳忠賞を受賞! | トップページ | 土で作られた緑の宝石 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 窪徳忠賞を受賞! | トップページ | 土で作られた緑の宝石 »