« 新聞にコラム連載します! | トップページ | 島津軍の琉球侵攻(2) »

2009年1月 7日 (水)

島津軍の琉球侵攻(1)

2009年は、1609年の薩摩・島津氏による琉球侵攻からかぞえてちょうど400年の節目の年に当たります。この島津軍の侵攻事件は琉球にとって初めての本格的な対外戦争でした。これから数回にわたり、拙稿「島津軍侵攻と琉球の対応」(『新沖縄県史・近世編』沖縄県教育委員会、2005)をもとに、島津軍侵攻の過程と琉球側の軍事的対応についてみていきたいと思います(注1)。

Photo_10

【図】島津軍の侵攻経路(クリックで拡大)

1609年(慶長14・万暦37)3月4日、薩摩の山川港に集結していた80隻余りの島津軍船が琉球攻略を目指して出航しました。

島津軍の編成は大将に樺山久高、副将に平田増宗・肝付兼篤。鹿児島方・国分方・加治木方のほか北郷氏や種子島氏、七島衆などが加わった約三千の軍勢でした。この軍は島津家久・義弘・義久のグループで成り立った寄せ集めの混成部隊であり、内紛の火種を常に抱えていました。当時の島津氏は当主家久のもとに完全に統一されておらず、いまだ中世的な性格を残した大名権力だったのです。

琉球遠征は当初より作戦期間3~4ヵ月の短期決戦が目標とされていましたが、それは軍団中に反家久勢力を抱えていたことが要因の一つとなったとみられています(注2)。実際に戦闘中、島津軍内で「歴々不行儀」といわれた家臣たちの独断行動が見られており、混成軍の統率が困難だったことがわかります。

山川港を出た島津軍は口永良部島へ、3月7日に奄美大島へ到着します。軍団は三手に分かれ樺山の部隊が笠利湾の津代湊、肝付の部隊が深江津、平田の部隊が瀬戸内西間切の西古見にそれぞれ上陸しました。3月8日、笠利間切の蔵本では大島の軍勢が守備していましたが、肝付兼篤の軍が難なく制圧しています。

琉球側は島津軍侵攻に対し、奄美地域で一応の守備体制を整えていました(注3)。例えば泊筆者の伊指川子元長が奄美に派遣され情報収集活動に当たっており(注4)、3月10日には王府に「島の軍、弱して敗軍す」(注5)との情報が伝えられています。奄美地域には島津軍に対抗する「島の軍」がいたわけです。また笠利間切首里大屋子の佐文為転、屋喜内間切首里大屋子の茂手樽など(注6)、在地勢力の行った抵抗が現地の系図にも記されています(※1)。容易に制圧されたものの、島津軍に対抗する計画的な武力対応があったことは確かです。

笠利を制圧した島津軍は3月12日に屋喜内間切の大和浜に逗留、16日には西古見に肝付兼篤の船団が到着します。同日には平田増宗の船団と推定される先発部隊が西古見から徳之島へ出航しました。17日には樺山久高の船団が到着、20日に徳之島秋徳に向かい、先遣隊と合流します。21日には「一ひら(平等)の役人之居所」のある東間切の亀津へ向かい、樺山本隊は沖永良部島へ出航。22日に山狩りが行われ、「琉球人番衆主取」(※2)で三司官謝名親方の婿である人物が捕縛されました。

ここでは首里より派遣されていた与那原親雲上朝智(向洪基)も降伏します。徳之島では激しい戦闘が行われ、琉球側に数百人もの戦死者が出ており、在地勢力の掟兄弟(佐武良兼・思呉良兼)もこの時戦死しています(注7)。徳之島では首里王府から守備隊長が派遣され、組織的かつ頑強な抵抗が試みられたのです。

徳之島を攻略した島津軍は24日に亀津を出航、沖永良部島で樺山の船団と合流します。沖永良部では抵抗はなく、「永良部之主」は島津軍に降伏します。また、島津軍の侵攻経路からは外れていましたが、喜界島も大島に在陣する島津軍に恭順の意を示しました。

大島陥落の情報に接した王府は、ただちに和睦の使者として禅僧の天龍寺以文を、奄美方面に展開中の島津軍のもとへ派遣しました(実際に交渉があったかは不明)。琉球は防衛体制をとる一方で島津軍へ講和交渉を働きかけ、戦闘の回避を図っていたのです。

(「島津軍の琉球侵攻(2)」につづく)

【注】
(注1)紙屋敦之「島津氏の琉球侵略と権力編成」(同著『幕藩制国家の琉球支配』校倉書房、1990)、「薩摩の琉球侵入」(『新琉球史』近世編(上)琉球新報社、1989)、原口泉「島津氏の琉球侵攻について」(『鹿児島大学法文学部紀要 人文科学論集』38号、1993)、石上英一「古奄美諸島社会の一七世紀における近世的編成の前提―慶長十四~十六年の奄美諸島支配―」(笹山春生『日本律令制の展開』吉川弘文館、2003)などを主な参考として、侵攻の経過をまとめました。
(注2)注1、紙屋1990。
(注3)注1、石上2003。
(注4)『姚姓家譜』(東恩納寛惇『系譜抄』沖縄県立図書館蔵、東恩納寛惇文庫)
(注5)『喜安日記』(『那覇市史』資料篇1巻2、1970)
(注6)亀井勝信編『奄美大島諸家系譜集』(国書刊行会、1980)79、99頁。
(注7)注6、414頁。

※1:この記述は誤りです。お詫びして訂正します。正しくは系図ではなく、石上2003論文に拠ります。訂正した正確な記述は、すでに拙著『琉日戦争1609』に記載してありますのでご参照ください。

※2:『旧記雑録』には「琉球入番衆主取」とありますが、この史料のもとになった島津家玉里文庫の『渡海日々記』を翻刻した『那覇市史』、および仲原善忠氏の史料(『沖縄文化』14号)には「琉球人番衆主取」としており、さらに玉里文庫本を参照した石上2003、紙屋1990も同様に「人」とし、また和泊町歴史民俗資料館編『藩政時代の沖永良部島の記録』も、この記述の相違に触れたうえで同様に「人」としています。『旧記雑録』が原本からの写本であることも考え、この記述は「人」であると判断しています。ちなみに「主取」とは「リーダー」を表す際に多用される琉球の役職名で、島津侵攻軍に「主取」なる役はありません(部将は「物主」とあります)。文章の意味も「人」としたほうが通じます。

人気ブログランキングに投票
クリックよろしくお願いします

|

« 新聞にコラム連載します! | トップページ | 島津軍の琉球侵攻(2) »

コメント

細事ながら以前から気になっていたのですが、捕縛された「琉球人番衆主取」と与那原親雲上朝智は別人なんでしょうか?
久米系の方々は、「三司官謝名親方の婿」をそのまま朝智として受け取っているようですが、名護親方良豊の甥ではあっても、その頃、謝名親方と縁戚関係は無いはずなのですが。
黄鉢巻の位には、他に該当する人物が見受けられません。
薩摩側に「謝納」や「亀沢」といった不正確な記述が多い以上、三司官の名も取り違えているということでしょうか…?

投稿: 御茶道 | 2009年1月18日 (日) 04:46

>御茶道さん
これは重要な指摘ですね。史料から見るかぎり、島津軍の史料に登場する「琉球人番衆主取」が与那原親雲上朝智と同一人物であるとは読みとれないように思います。

ご指摘のように朝智の家譜には謝名親方の縁戚関係である記述が見当たりません。謝名親方と縁戚関係にあった人物は、僕が確認したかぎりでは伊江按司朝仲でしたが、彼が徳之島へ派遣された記録は見当たりません。

島津側が事実を誤認している可能性も当然考えられますが、僕は該当する第三者が存在していて、その人物は未確認の家譜に記載されているのではないかと思います。那覇市の所蔵家譜で、まだ『那覇市史』に所収されていないものの中に見つかるかもしれないですね。

投稿: とらひこ | 2009年1月18日 (日) 09:51

毎度、懇切丁寧なご回答、ありがとうございます。
随分と遅れて失礼しました。

黄帕の面々を捜してみたのですが、力足らずで見つかりませんでした(笑)
あの伊江按司が実は徳之島に!なんて話しがあったら面白いですね。
また、伊江按司継室の思乙金は相当長生きされているようで、謝名親方の強壮さは伝説ではなかったのだろうなぁ、と想像してしまいました。

そういえば、祖が倭君に会おうとした時には、まだヨレヨレになるハチマキだったんですね。哀川さんの冠は、ご愛嬌でしょうか(笑)

投稿: 御茶道 | 2009年2月18日 (水) 15:13

>御茶道さん
例の黄帕の人物、探されたんですね。お疲れ様です。見つからなくて残念でしたね。もし見つかれば新発見だったんでしょうけどね。

投稿: とらひこ | 2009年2月20日 (金) 23:11

興味深く読ませていただいております。
浅学の身ながらいくつか異見がございまして
披露させていただきます。

>作戦期間5ヵ月の短期決戦
家久が発行した「覚」によれば、上手くいってもいかなくても、6月か7月に撤退せよ、となっており、3ヶ月か4ヶ月、という表現が正しいと思います。これはどうでもいいですが、
>寄せ集めの混成部隊
と述べておられますが、その同じ寄せ集めの体制で、薩摩は九州三国時代や唐入りを戦い抜いております。統一されているとは言い難い内情だったのは事実ですが、本気で問題があると思うなら、家久本人か、少なくとも島津本家の人間が直率するのではないでしょうか。
また、同じ「覚」には、和睦を求められたらすぐやれ、という条項があり、本来、征服までする気がなかったフシがあります。そもそも3000という人数がかなり少ないですね。薩摩本国には数万の軍がおりますし、外征でも1万近くは動員できたはずです。短期決戦を望むなら、大兵力の一挙投入がセオリーではないでしょうか。短期決戦よりも、大規模な戦にして余計な金を使いたくない、というのが本音だったと思います。小国といえども、征服や占領まで行うとなると、かなりの出費を覚悟せねばなりません。これは現代でも実例には事欠きませんし、薩摩自身も唐入りで経験したとおりです。そもそも金が無いから始めた戦で、余計に金を使うようでは意味がありません。
「覚」には最終目標が明記されておりませんが、内容からして、3000で身軽に転戦して、琉球にプレッシャーを与え、有利な条件で和睦し、対中貿易の利権にあずかるのが目的だったと思います。しかし実際に戦ってみた結果、長期化も想定した「覚」の前提が崩れたため、現場の判断でより大きな目標に変更したのではないでしょうか。

投稿: パンダル50cc | 2010年12月 6日 (月) 15:52

>琉球にとって初めての本格的な対外戦争でした。

オヤケアカハチの乱や、三度にわたる奄美征伐などでは、いずれも3000人の遠征軍が派遣されております。琉球王国の軍事力からすると、遠征軍としてはおそらく限界に近い数ではないでしょうか。本格的な対外戦争が初めてという表現には疑問が残ります。戦闘そのものは実力差がありすぎて、大したものではなかったかもしれませんが、それは薩摩の琉球征伐でも、立場が逆なだけで同じですし。

とらひこ様の目からすると未熟さばかりが目立つ意見だと思いますが、せっかくのブログ形式ですので、勇をこして投稿してみました。

投稿: パンダル50cc | 2010年12月 6日 (月) 17:52

>パンダル50ccさん

「覚」中の撤退時期については僕が単純に間違えていました。3~4ヶ月が正しいですね。失礼しました。

部隊が寄せ集め状態は確かに以前と同じように見えますが、この時期の島津家は太閤検地後の領地替えなどで、九州征服や朝鮮出兵の時期とは比べ物にならないほど家中の分裂が危機的状況を迎えています(詳しくは山本博文『島津義弘の賭け』、また拙著『琉日戦争一六〇九』をご参照ください)。当時の島津軍はおそらく1万も集められない状態だったと思います。それは朝鮮出兵ですら、軍役の規定15000名にはははるかに足りず、石田三成にかけあい5000名に減らしてもらったにも関わらず、それでも集められず、自弁の志願兵をかき集めてようやく調達したような状態でしたし、17世紀初頭はもっと状況は悪化していますので、3000名は精一杯の妥当な数字だと思います。

ちなみに琉球戦役での軍役規定数は1500名です。2倍近くにも増えているのは、桐野作人氏が指摘しているように、戦功を求めて身分の低い武士たちが武器・食糧自弁で従軍したようです。

ただその一方で、島津軍は琉球を強敵とは考えておらず、出兵前の軍中には琉球を侮る雰囲気が満ちていたので、義久がこれを諌めたとの記録があり、それゆえ家久自ら出陣というほどでもなかったと認識していたように思います。兵数はこの程度で充分だという判断はあったでしょうが、当時の島津家にとっては決して軽くない負担だったように思います。

パンダルさんの「覚」に関する見解ですが、ご指摘のように、島津軍は琉球の完全征服に徹底的にこだわっていたわけではないようです。それは僕も同意見です。ただ「和睦を求められたらすぐやれ」というのは、まさに危機的な分裂状態にある島津軍の反映であると僕は思います。実際の戦闘をみてみると、大将樺山の統率はほとんどとれておらず、各個に行動する兵士が頻繁に見られ、統一的な行動がとれていたとはいいがたい状態でした。本文にも書きましたが、当時の島津軍について「歴々不行儀」とあり、後の記録では「将兵すこぶる律令を犯す」とあり、懸念は現実のものとなっていたのです。短期決戦を望んだ第一の理由は、もちろん無駄な出費をできるだけしないということが考慮されていたとは思いますが、僕は内部対立への懸念からだったと思います。

なお島津軍出兵の理由は対中貿易利権のためではなく、島津家中の分裂状況を打開するため、この出兵を梃子に家久に権力一元化するのが大きな理由であったようです(詳しくは紙屋敦之『幕藩制国家の琉球支配』をご参照ください)。また徳川政権の日明講和を琉球に仲介させるという目的も別にあったようです。要するに征服にどうしてもこだわっていたのではなく、ご指摘のように予想外の進撃から現場で方針変更をして首里城を陥落させたのであろう、と僕も考えています。

投稿: とらひこ | 2010年12月 6日 (月) 18:01

王国の動員可能兵数は3~4000名前後だったと僕も考えています。

八重山や奄美が対外戦争だったかどうかは解釈の違いによると思いますが、たしかに琉球王府の遠征軍による対外戦争的な要素はあったかと思います。

ただこの文章で僕が強調したかったのは、島津軍との戦いはそれまで行われた琉球文化圏内の戦闘と全く質が異なる戦いであったということです。その点を「本格的な」という言葉で表現したのです。例えばオヤケアカハチ軍との戦いは琉球の共通した文化的基盤のもとに行われた戦いであり、両軍とも神女が従軍し呪詛による「戦い」も行われていますが、島津軍はこうした戦いは通じない全く別の論理で琉球と戦っており、また沖縄本島全土がいっぺんに範囲となった戦いもそれまでありません。

やはり僕は島津軍の侵攻は、琉球の歴史上それまで経験したことのない「異質なもの」との大規模な戦いであったととらえています。

ご指摘は僕のほうも気づかされる点がいくつもありました。わざわざのコメント、どうもありがとうございました。

投稿: とらひこ | 2010年12月 6日 (月) 18:18

丁寧な回答ありがとうございます。琉日戦争一六〇九、早速購入してみます。このような立派な本を書かれている先生ならば、このブログの内容も納得がいくところです。

とりあえずご紹介いただいた本を読んでみますが、その前にいくつか気になる点がございます。

兵力が五千人も集められなかったとのことですが、それは四川の戦いにも及ばない数で、どういう内訳なのか疑問があります。純粋な戦闘員だけの数ではないでしょうか。関が原後に生き延びた状況を考えても、薩摩の兵力を低く見積もりすぎているという感がありますが、これについてはまず本をチェックしたいと思います。

ただ、
>この出兵を梃子に家久に権力一元化するのが大きな理由
とするならば、ますます家久が直率しないのは方針が不徹底であると感じます。家久の代理の樺山では統率しきれておらず、一元化とは逆の実態を暴露しただけではないでしょうか。

しかし、さしあたっては、早速「琉日戦争一六〇九」を拝読してみたいと思います。

投稿: パンダル50cc | 2010年12月 6日 (月) 19:07

>両軍とも神女が従軍し呪詛による「戦い」も行われていますが、島津軍はこうした戦いは通じない全く別の論理で琉球と戦っており、

宮古で起こった話ですが、宮古史上最も重要な目黒盛親方と与那覇原勢の決戦は、与那覇原勢が目黒盛側の隙をついた奇襲に始まり、目黒盛親方側の援軍による高地からの側背攻撃に終わります。他にもいろいろな戦いが記録されていますが、夜討ち朝駆け騙まし討ちの連続で、その原則は現代の戦いと何ら変わるところはありません。

クセノフォンの「アナバシス」には、古代ギリシャの軍事行動のあり方が生生しく記述されております。彼らは頻繁に神託によって作戦の最終決定を行います。神託を全く信じています。しかし読んでいて感じるのは、神託というのは、結局は指揮官の決断を補強し、皆を勇気付ける手段に過ぎないということです。戦いそのものは極めて論理的に行われます。彼らの水準は、現代の軍人と比べても全く劣りません。
呪術合戦を過大に評価しすぎてはいないでしょうか。悪口の言い合いは現代の戦争でも起こります。過酷な三山時代を終えたばかりの琉球王府軍が、そんな牧歌的な代物で戦いが決すると本気で信じていたとは思えません。

投稿: パンダル50cc | 2010年12月 6日 (月) 19:29

>パンデル50ccさん

泗川の戦いについては、拙著というよりも、僕も参考にした村井章介「島津史料からみた泗川の戦い―大名領国の近世化にふれて―」(『歴史学研究』736号、2000)、をご覧ください。戦いの詳細な様子が分析されています。なお山本博文『幕藩制の成立と近世の国制』も、朝鮮出兵時から琉球侵攻にかけて島津氏の苦境を丹念に描き出しています。

家久自ら出陣しなくてはこうした一元化はできない、とは必ずしもいえないとは思いますが、現在の定説では侵攻目的は先述のコメントの通りであり、僕も妥当だと思います。


またパンデル50ccさんの次のコメントですが、前近代の戦いは現代的な戦術や非科学的、非合理な要素が混在しており、ご指摘のようにそれは琉球だけに限定されませんでしたが、僕が先のコメントで言いたかったのはそうしたことではなく、【それまでの戦いの規模、「琉球」の文化的基盤によらない異質な戦いが、1609年になり初めて行われた】という点で、それを「初めての本格的な対外戦争であった」と表現した、という主旨です。

島津侵攻時の琉球軍は的確な迎撃体制もとっていますが、一方で呪術的な戦法で島津軍に対抗し一蹴されてもいます。こうした実戦でも琉球は呪術的な対抗を行っていますし、古琉球の戦いについては『おもろさうし』などのからもわかるように、「せぢ」と呼ばれる霊力が当時の人々に本気で信じられ、大きな力を持っていたと考えるべきです。

琉球の在来信仰がいかに強靭なものであったかは、後の時代ですが羽地朝秀の改革、17世紀中頃における琉球の近世体制への移行の際、その払拭に相当苦労している様子がうかがえます。

投稿: とらひこ | 2010年12月 6日 (月) 19:55

>こうした実戦でも琉球は呪術的な対抗を行っていますし、

徳之島で粥を流した話は、膝を火傷させるため、というのを字義どおり解釈すべきではないでしょうか。呪術的要素を見るのは拡大解釈しすぎでは。関が原の戦いに付随して起こった、信州上田城攻防戦では、真田勢が熱した粥を城壁の上からかけて効果をあげております。
確かに膝にかかったら火傷しますしね。粘りもあるのでなかなかはがれません。ただ、坂の上から流すだけではよけて通られるだけだと思いますが。戦う知識のない農民にとっては精一杯の嫌がらせだったと思います。
目前に迫ってる物理的な相手に、呪術的効果を期待するというのは、いくら昔の人といえども有り得ないと思います。そもそも熱した粥が呪具に選ばれたのは、まず生身の人間に対して嫌な効果があるからではないですか。臭いニンニクが吸血鬼よけになるようにです。
余りに呪術的要素を過大評価しすぎると、近年まで日本史学会にはびこっていた「一騎打ち神話」と同じ罠にはまることになるのではないでしょうか。
現代の半グレや、かつての鎌倉武士が、タイマンと、集団での闇討ちやリンチを状況によって使い分けるように、琉球人も、神頼みと、実際の戦闘との区別はちゃんとつけてたと思います。
そもそも呪術合戦の記録ってアカハチの乱以外にはないと思いますが。これも戦いの前の景気付けの儀式が、タイミングが合ってしまい、メンツの張り合いで挑発合戦にエスカレートしただけではないでしょうか。他愛ない挑発合戦は、近現代でも、一時小康化した戦線で普通に見られます。複数の実例をあげることもできます。呪術合戦抜きで普通に襲撃した例のほうが多いのでは。ノロ連れてくこと自体は、現代でも従軍牧師連れてくのと同じですし。

投稿: パンダル50cc | 2010年12月 6日 (月) 22:03

>家久自ら出陣しなくてはこうした一元化はできない、とは必ずしもいえないとは思いますが、現在の定説では侵攻目的は先述のコメントの通りであり、僕も妥当だと思います。

家臣団の対立の原因は、そもそもは島津本家の権力の並立にあります。親分が対等なんだから、俺らも対等と勘違いしているのです。これを一元化するためには、当主家久に対し、義弘、義久が、一部将として振舞う様を見せ付けるべきです。少なくとも、大親分の家久が出陣して、他の家臣団にも命令し、彼らも家久の家来に過ぎないことを教えるべきです。しかし実際には家老クラスの取り合わせで行ったのですから、元々、同格と思っている樺山に従わないのも道理ではないでしょうか。
そもそも最初の法度からして、三名の連名で出されているのですから、一元化するにしては腰がくだけています。

このように、一元化説には納得できない部分があります。しかし現在の定説とのことですし、また、自分の反論も言い終えたと思います。

投稿: パンダル50cc | 2010年12月 6日 (月) 23:14

>パンダル50ccさん
古琉球と信仰の世界についてはこの戦闘だけでなく、ぜひ他の琉球に関する宗教の研究も参考にされたほうがいいと思います。琉球以外の他の地域の事例との比較ではなく、では実際に琉球でノロや神の力がどのように位置づけられてきたかとの比較でなければ、すべて単なる推定や憶測にすぎなくなるからです。先にも述べたように、古琉球においては在来信仰が政治・社会・文化の隅々にまで強靭に定着していたことが明らかになっています。

また前近代の戦闘に合理的側面があるとの事例をいくら挙げられても、先にコメントしたように、当時の戦闘は【両側面が峻別されず分かち難く結びついていた】のであり、呪術的側面そのものを軽視・否定できる根拠にはなりません。両者は混在していたのです。

僕も合理的側面が存在したことは否定していませんし、拙著のなかではきちんとそうした面から両軍の軍事的分析も行っています。僕はパンダル50ccさんが前近代の戦闘において合理的側面を強調しすぎ、琉球の当時の宗教的な位置付けを充分把握せずに軽視しているようにみえます。

特に古琉球の戦闘は、現代的視点から裁断できない側面が強く見られます。古琉球と宗教的観念に関しては高良倉吉「向象賢の論理」(『新琉球史・近世編(上)』(琉球新報社、1989)などが参考になりますのでお薦めします。

いろいろ推測や仮説は提示できると思います。問題はそれが史料や先学の研究で明らかになったことを拠るもので、より説得性を持つかどうかだと思います。

ご自身の独自の説がありましたらそれは結構だと思います。定説は絶対のものではないので、ぜひ何らかの公に発表を行って、多くの人に説得力を持つ説を主張されたらよろしいかと思います。

また僕の主張のほかにも、島津軍侵攻に関する研究は先に挙げました紙屋敦之氏や山本博文氏、上原兼善氏の『島津氏の琉球侵略』その他ありますので、それらを読んでみてから再度判断されると、この事件に関しての見解が深まると思いますので、ぜひご一読されてください。

投稿: とらひこ | 2010年12月 7日 (火) 00:33

>古琉球の戦いについては『おもろさうし』などのからもわかるように、「せぢ」と呼ばれる霊力が当時の人々に本気で信じられ、大きな力を持っていたと考えるべきです。

そもそもオヤケアカハチなどは別の神様を信じていたのではないでしょうか。今でも少し残ってますが、宮古や石垣では、部落ごとに非常にバリエーションのある信仰がありました。これらをおもろさうしの言葉を用いて、同じ文化的基盤に据えるのは慎重さに欠けると思います。各地で違うからこそ、近世化の過程で均質化する必要があったのではないでしょうか。
アカハチの乱で見られた、呪術合戦に双方が付き合う例にしても、他に例があるのでしょうか。ないならば、現代の戦場でもよくある、アホな口げんかの一つに過ぎないと思います。琉球史でも闇討ちや奇襲の例は多いです。

投稿: パンダル50cc | 2010年12月 7日 (火) 00:41

>とらひこ様

分かりました。ご紹介いただいた本で改めて勉強いたします。本日はお忙しい中を拙い質問や意見にもいちいち答えてくださりありがとうございました!とらひこ様のような専門家に指導していただく機会はないので、大変光栄に思いました。

投稿: パンダル50cc | 2010年12月 7日 (火) 00:56

>パンダル50ccさん
いえ、僕は専門家と称するような人間ではなく、修行中の学生風情の若造です。

もちろん僕の考える説も絶対ではないと思っています。とりあえず、史料や先行研究からこうは言えるのではないか、という程度のものですので、今後これが覆る可能性は大いにあります。拙著ではひとまず明らかになっている水準を示したもので、ここを踏み台にして新たな見解を導くステップにしていただければと思います。

こちらこそ、本件に関して改めて考えさせる機会を与えていただき、ありがとうございました。

投稿: とらひこ | 2010年12月 7日 (火) 01:05

口だけの建前や正義感を無駄に振り回さない純粋な議論は読んでいて気持ちがいいもんだな。

投稿: 読者 | 2010年12月 7日 (火) 01:36

>読者さん
こういう議論でしたら僕も歓迎です。

投稿: とらひこ | 2010年12月 7日 (火) 09:38

色々、書いて頂いて、ありがとうございます。

最後らへんに、(つづく)とありますが、続きはどこにあるのでしょうか。

投稿: ( ..)φメモメモ | 2011年8月21日 (日) 22:02

>( ..)φメモメモさん
訪問ありがとうございます。

つづきは、この記事のタイトルの上の方に「島津軍の琉球侵攻(2) » 」とあるので、そちらをクリックして進んでください。

投稿: とらひこ | 2011年8月22日 (月) 12:16

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 新聞にコラム連載します! | トップページ | 島津軍の琉球侵攻(2) »