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2009年1月28日 (水)

島津軍の琉球侵攻(4)

4月2日、具志頭王子朝盛(尚宏)と三司官が人質として那覇へ下向します。3日にはさらに佐敷王子朝昌(尚豊)を人質に出し、尚寧王は島津軍に降伏しました。先島・久米島へは遠路のため兵は派遣されず、三司官から降伏が勧告されています。この動きの一方で、降伏に反対する勢力は首里城を出て島津軍と戦いました。この時、三司官・浦添親方朝師の子、真大和兄弟らが首里識名で戦死しています。しかし島津側も部将の梅北照存坊が討死、法元弐右衛門が負傷しました。

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【図】首里城(クリックで拡大)

4月4日、尚寧王は首里城を出て名護親方の宿所へ移りました。5日に首里城は占領、城内の荷物改めが行われ、日本では見られない数多くの唐物・珍品が島津側に没収されました。宝物の点検は雑兵たちの略奪を恐れて本田親政ら荷物御改組頭の厳重な管理下で行われ、その期間は10日近くにも及んだといいます。荷物改めが終了し、先島の帰順が確認された後の5月15日、尚寧は100余人の供を連れ、島津軍とともにヤマトへ向け那覇港を発ちました。港口では1000人の群衆が悲しみの中、王を見送ったということです。

ところで歌謡集『おもろさうし』には、尚寧王妃が詠んだとされるオモロ(神歌)が残されてます(注21)。

北風の吹く頃になれば、国王様のお帰りをお待ちせねば。追い風の吹く頃になれば」(現代語訳)

遠い異国の地にいる夫の身を思いながら、ひたすら帰りを待つ王妃の気持ちが伝わってくるようです。尚寧王は2年の後にようやく琉球へ帰国しましたが、待っていたのは琉球王国の自由を規制する薩摩藩のさまざまな圧力でした。こうして、琉球の敗北により古琉球の時代は終わりを告げたのです。

(おわり)

【注】
(注21)高良倉吉『新版琉球の時代』(ひるぎ社、1989)、『おもろさうし』巻13、「船ゑとのおもろ御さうし」。

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コメント

久しぶりに投稿します
とらひこさん!

「琉球民族は存在するか?」と質問された場合、とらひこさんはどう答えますか?あと、とらひこさんの個人的なアイデンティティーはどういう感じですか?(琉球民族を自認するかどうかという意味で)。

大和民族の中には、「琉球民族は存在しない。同化した。」と言ったり、「(ウチナーンチュも)大和民族である。」と、脳内ジェノサイド的な暴論を主張たり、生物学的に南九州人と近縁・同種であるという主張を掲げながら大手を振って琉球民族はいないと。
あの手この手を使って認めたがらない人がいたりします。

私の場合、私はウチナーンチュ(沖縄人)意識が強く、Ethnic Ryukyu Group(琉球民族)だと思っています。

私の親や親戚は「ヤマトーンチュ」の前では、さすがに「ヤマトーンチュ」という言葉は使いませんが、大和民族のいないところでは、区別して「ヤマトーンチュ」と言うんですねー。(シーミー・お盆の親族・親戚の集まりの時に)。

沖縄人が、ウチナーンチュ・ヤマトーンチュと日常生活で発したり、区別しているのは民族意識の現われだと思うんですが、とらひこさんは、そこら辺 どう考えますか?

投稿: コザの猫 | 2009年1月31日 (土) 15:22

>コザの猫さん
「民族」をどう規定するのかという問題はありますが、僕は「琉球民族はあるといえばあるし、ないといえばない」としか答えられません。

「民族」という概念自体、近代にできた新しいものであって、僕は近代以前にさかのぼって適用するのは適切ではないと思いますし、沖縄の人々が沖縄らしくあるために、「民族」というエクスキューズは必要ないと考えています。ましてや人種や生物学的な根拠も必要ないと思います。

たしかに沖縄の人々が本土の人々とは別の存在であると思う背景には、ヤマトとはちがう独自の歴史を歩んできたという由来がありますが、そもそも沖縄に住む人々が「ウチナーンチュ」というアイデンティティを明確に持つようになったのは近代に入ってからです。

僕は「沖縄の人間であるとともに、日本国民である」ということで何ら矛盾はないと思いますし、自身のアイデンティティもそうです。なぜなら僕は「純粋」な「琉球民族」ではないからです。

沖縄の人々の多くが「自分たちは他者とは一線を画す独自の集団だ」と思えば、それで成り立つ問題ではないでしょうか。

僕は琉球の歴史を見ていて感じるのですが、他者を排除せず受け入れ、しかもなお自らの主体性を強く持つ、「開かれたアイデンティティ」こそ、琉球の民なのだと考えています。

投稿: とらひこ | 2009年1月31日 (土) 21:54

とらひこさんの言う「他者とは一線を画す独自の集団」
この特異的なアイデンティティーこそ「一種の民族としてのアイデンティティー、民族」ではないですか?

「琉球民族」「沖縄民族」の「琉球or沖縄」の2つの枕詞のどっちが正しいか?どっちを選択して自称するのか?の部分は本質的な問題ではないと思います。

私から言うと「大和民族」と連呼されても、「大和撫子」「大和魂」「天皇陛下」と連呼されても、その言葉の中には自分の所属がどこにも見つからないんです。アイデンティティーを駆り立てられたり、共同意識を持つことができないのです。

とらひこさんは、大和民族という言葉を聞いて、自らの所属を見つけることができますか?

私は排他を意図して投稿しているのではありません。

私は大和(天皇制とか)の中に「自己」を発見できないから、私は・私たちウチナーンチュはある種の「民族」集団ではないかな?と思うようになったのです。

投稿: コザの猫 | 2009年1月31日 (土) 23:04

>コザの猫さん
ですから、僕の回答は「琉球民族はあるといえばあるし、ないといえばない」です。

コザの猫さんのように、沖縄にとって日本本土は同一ではないと考える意識はたしかに存在しますが(僕もそういった面はあると思いますが)、「民族」という規定をしないとウチナーンチュのアイデンティティを保てないということではないのではないですか、という考えです。

琉球、沖縄どちらにを自称するにせよ、沖縄に住む人間を「民族」という画一的な存在として規定する絶対的な必要は必ずしもないと思います。同じように沖縄の人間を「大和民族」である、とする必要性もない。

「私は沖縄の人間であって、日本本土の人間とは同じという意識ではない」、それでいいのではないでしょうか。

僕は先にも述べましたように、「沖縄の人間であるとともに、日本国民である」という意識です。日本国に強い拒絶感を持ってるわけでもないですし、沖縄の人間であるという意識も持っています。

投稿: とらひこ | 2009年1月31日 (土) 23:25

『「民族」という規定をしないとウチナーンチュのアイデンティティを保てない』

>はい、そうです。

民族規定は、悪いことだとは思えないです。
曖昧な立場で、ずっとこれからも自己のアイデンティティーに悩むんだろうなと思ったりします。

規定したほうが、日本の片隅・日本の歴史の片隅に追いやられずに済むし、お互いに認知しようとする意識が働くので、良い方向に動くと思います。

とりあえず、とらひこさんの考えはわかりました。
どうも、ありがとうございました。

投稿: コザの猫 | 2009年2月 1日 (日) 00:28

>コザの猫さん
そういった考えもあっていいとは思いますが、仮に沖縄の人々を「琉球民族」と規定した場合、宮古や八重山、奄美の人々に対して「大和と沖縄の関係」のような同じ問題が起こってくると思いますよ。

そういう人々に対して、「お前たちは琉球民族だ、宮古、八重山民族は存在しない」と答えるのでしょうか。沖縄の人たちに対して本土の人たちが「お前たちは大和民族だ」と規定する同じ問題が起こってはこないでしょうか。それとも、先島や奄美の人々に対しても「民族」概念を適用するのでしょうか。そうすると、たとえば宮古のなかでも各集落ごとにまで適用できるのではないですか。そうすると「琉球民族」というまとまりは存在するのでしょうか?実態はあるのでしょうか?

僕は近代に誕生した「民族」という概念でアイデンティティや沖縄をとらえること自体が本当に沖縄や南西諸島に住む人々を規定するのに適切な概念なのか、今少し考えるべきだと思います。

コザの猫さんが「沖縄は独自の存在である」とおっしゃりたいことは十分わかりますが、「民族」という概念をもう一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。

投稿: とらひこ | 2009年2月 1日 (日) 00:42

私自身は,奄美諸島の出身なのですが,文化的には琉球弧の人間であるので,大和民族か琉球民族かと言われたら,琉球民族にくくられるのでしょうが。ただ,琉球という言葉には,「琉球王国=沖縄本島」主観を感じます。また,奄美には,「奄美は,大和でもない,琉球でもない,奄美は奄美だ」ととらえる考えも強くあります。奄美の文化を調べれば,沖縄文化と近似していることを実感するのですが,政治的に県が異なり,本土で就職するのがほとんどなので,現実に沖縄と同じであることを実感する場はほとんどありません。でも,沖縄に実際に行くと,「あ~同じだ。似ている。」と感じるのですが。私自身は,シマンチュというのが,一番しっくりきます。具体的にどこかを指しているわけでなく,「同じふるさとの人」という意味で,集落だったり,島だったり,奄美全体であったり。それで言うと,奄美からすると,沖縄は琉球民族というより,ナファンチュがしっくりきますね。でも,奄美から先島まで表す琉球方言,作りたいですね。リュウキュウンチュしかないですかね。やっぱり。

投稿: キャーッチュ | 2009年2月 6日 (金) 23:37

僕も奄美大島の出身ですが”琉球民族”という呼称には常々違和感を感じていました。
もともと本島の王国が辺境を侵略して成り立ったのが琉球王国であって、これにより奄美から与那国までの住人を”琉球民族”あるいは”ethnic ryukyuan”と一緒くたにするのは、現在の日本列島住民すべてを”大和民族”と呼ぶのとなんら変わらないですよ。
文化を引き合いに出し”琉球民族”の同一性を説く人もいますが、それを言ったら本州から南西諸島まで同語族なので、すべて同一民族だとすることも出来ます。
一島っちゅとしては歴史的に紆余曲折があったにせよ沖縄と本土両方に親近感を持っていますし、ときに中途半端といわれる両者の混在した奄美文化に愛着を感じてます。
帰属に関してはとらひこさんのように”奄美人”であり日本国籍を有する”日本人”というのがしっくりきますね。結局、琉球とは奄美、先島諸島民にとっては”民族”ではなく、今で言う”国籍”に相当するものではないでしょうか。

投稿: シャクハチ | 2009年2月 8日 (日) 05:37

たびたびすみません。また,長い文章になりますが,すみません。シャクハチさんの言説に対して,僕なりの感想です。
奄美大島の一般的感覚で,僕が知っている奄美大島の人の代表的捉え方だと感じました。ただ,奄美諸島と言っても,島により,生活体験により沖縄及び本土に対する捉え方は様々です。特に奄美大島は,鹿児島の影響が強く,奄美の文化をいち早く失った地域でもあります。例えば,奄美大島で島口を完全にしゃべれる人は,ごくわずかの年寄りに限られている感じです。沖縄の人と同じように針突,髪形,服装,手さじをし,同じような家の形態で暮らし,同じ宗教をもち,首里を都ととらえ憧れていた明治迄の人々の意識が,今の奄美大島の人々にどれだけ意識づけられているか。また,奄美で一番島が大きく唯一の市があることもあり,奄美の中心だととらえる傾向もあるので,奄美の独自性を強調する傾向もあります。奄美は大和と違うのは当然としても,琉球とは違うという意識も,特に鹿児島からの島差別を回避する精神性として,日本人にならなければ日本人の中で孤立するという強迫観念から,特に明治以降,顕著に作られてきました。私自身は,同居していた祖母が,両手の針突を誇らしげに語り,前帯をし,手さじをぶら下げ,首里に行きたいと語り,方言を喋り,分棟式の家に住み,そして,実際に私自身首里や今帰仁の方言が喜界島とほとんど同じであることを知り,沖縄の言葉がほとんど理解できますので,「もともと本島の王国が辺境を侵略して成り立ったのが琉球王国であって、これにより奄美から与那国までの住人を”琉球民族”あるいは”ethnic ryukyuan”と一緒くたにするのは、」というのとは,認識が異なります。私は,琉球王国以前から,奄美大島から与那国島まで同じ言葉や文化をもつ同一民族性をもつ人々が暮らし,やがてある時期,政治的に琉球王国として統一されたととらえています。奄美が琉球王国であった時期というのは,わずか百数十年です。わずか百数十年で琉球文化が成立したというの無理がある,それ以前からそうだったのだと思っています。その意味で,奄美も琉球民族の一つであるとは思っています。ただし,「琉球」という名称が,「沖縄本島」に発生した琉球王国が,文化的中心であるとする誤解を招くのではと思うからです。また,民族という言葉の堅苦しさも,島的でないと感じたからです。ですが,「琉球」以外にこの地域を指す固有名詞がないのが実情ですから,あえて造語するとすれば,リュウキュウンチュでしょうか,と言ったのです。

投稿: キャーッチュ | 2009年2月 8日 (日) 13:36

確かに奄美は言葉や信仰など、沖縄系と非常に近縁なのは僕にも明白です。
方言が著しく失われたのも、キャーッチュさんの仰るとおり、明治維新以降の近代化において鹿児島県(薩摩とは別だと断っておきます)に編入された影響が大きいです。
僕の場合、地元の高齢者が話す島の言葉は大方理解できますが、首里方言となると、文字に起したり、一部訳を使わないと理解しきるのは難しいです。喜界島の言葉には疎いのでなんとも言えませんが、大島の言葉が沖縄の言葉とほとんど同じだとは到底思えません。
それに、言語学的に奄美と沖縄の方言は同じ北琉球方言に分類されているように共通点が多いですが、先島の南琉球方言となると、琉球語の方言群として分類するのに異議が出ているほど音韻や語彙の変化が激しいです。
そもそも奄美から八重山に至る文化は琉球王国時代に統一化されていったと思われる面も多く、信仰なども例外ではありません。
このように奄美に限らず視野を広げ、多角的に見れば、文化を根拠に琉球・大和の二元論を持ち出すのは困難だと思います。
この二元論は琉球王国圏の同一性に傾倒するあまり、本土から南西諸島に及ぶ文化の多様性と連続性の両方を無視しているようでなりません。実際、この手の論争において忘れられがちなトカラ列島では、まだ研究があまり進められていないにせよ、奄美と本土の混在した要素が言語や風習に確認されているようですし、そもそも琉球語自体が大和古語から派生した言語です。こと奄美においては先史時代から沖縄と本土の中間的な土地で、何が琉球的で、何が大和的かも完全にはっきりとしていません。
しかし、奄美の先史時代が”アマンユ”と呼ばれているのは、奄美が必ずしも周辺と同一ではないことの現われだと感じています。
国籍という概念が帰属に関して絶対的な役割を持っている現在、”琉球”という、政治や利権関係に利用されやすい危険性を孕んでいて、なおかつ意味も曖昧な定義を、奄美を北限とする島々に宛がう必要は本当にあるのでしょうか?
それぞれの島や地域の人々が独自の文化を持っている以上、人の集団を分ける定義は、国籍よりも小さな枠組みである場合、その独自性を根拠にすべきだと考えています。
長くなってすみませんでした。

投稿: シャクハチ | 2009年2月 9日 (月) 07:16

>キャーッチュさん、シャクハチさん
たしかに奄美から先島までの範囲はひとまずひとくくりにできるような文化圏だったのは確かで、それは琉球王国という存在があったことが非常に影響していると思います。

ただ一方で、そうした範囲においてもそれを均一・画一的に「琉球民族」と定義できないことはたしかです。日本と琉球の狭間に置かれた奄美の方々のご意見は貴重ですし、大変勉強になります。

投稿: とらひこ | 2009年2月11日 (水) 00:09

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