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2008年12月 4日 (木)

琉球王朝のチャングムたち

沖縄社会では女性が強いとよくいわれます。沖縄では古来より女性が親族の男性を霊的に守護するという「オナリ神信仰」があって、琉球王府のなかでも神女組織をはじめとした女性たちが大きな力を持っていました。この神女組織とならんで王府内の一大勢力であった女性たちの集団が、首里城の大奥、御内原(おうちばる)の女官たちです。

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御内原の女官たちは大勢頭部(おおせどべ)と呼ばれる三人の女官長たちを中心に、国王や王妃・側室らの身のまわりの世話、王への取り次ぎなど「裏の世界」一切をとりしきっていました。大勢頭部は琉球の大臣、三司官と同ランクであったといいます。この女官たちは羽地朝秀の構造改革で力をそがれましたが、なお王府内で隠然たる勢力を持っていたようです。

この女官組織の末端にいたのが、「御城女性、城人(グシクンチュ)」と呼ばれる女性たちです。いわば朝鮮王朝の「チャングム」のような存在ですね。彼女らは「あねべ」「あがま」という下級の女官となり、御内原での雑用のほか大台所での調理を担当していました。意外なことに彼女らは身分の高い士族ではなく、首里周辺の農村から選ばれた普通の女性でした。彼女らは一定の期間首里城へ勤めて、やがて故郷の農村に帰っていきました。その後はまた元通り、普通の女性として一生を送ったのです。彼女たちは華やかな首里城での思い出話を家族や友人、村の人々に語ったことでしょう。絶対的な権力者の住む首里城は、実は一般庶民にとって身近な存在だったのです。

しかし彼女らのなかには、貧しい家庭ゆえに女官となった者もいました。女官になると王府より故郷の家族へ「身代米(みのしろまい)」が支給されたのです。例えば王国末期の女官、「我謝あねべ」と「玉那覇あねべ」もそのような経緯で女官になった女性たちでした。我謝あねべは西原間切・我謝村の農民「かめ宮平」の妹でした。一家や親類は年貢も払えない貧困の状態で、「身代米」と引き換えに首里城へ奉公することになったのです。玉那覇あねべは南風原間切・津嘉山村の出身で、父親が寝たきりの貧しい家庭でした。この頃の琉球は天災などで農村が荒廃し、彼女らのような貧しい家庭は決して珍しくありませんでした。

彼女たちは首里城の大台所で働いていましたが、ある日、会計帳簿をチェックしていた役人が手続き上のミスを見つけます。女官たちへの給与が実際の勤務よりも多く支払われていたのです。これは会計責任者の過失だったわけですが、ここから我謝あねべ・玉那覇あねべがミスによる超過分の給与を黙って着服していた事実が発覚したのです。少し前に世間を騒がせた公務員のカラ勤務による給与の不正受給といったところでしょうか。

王府はただちに彼女らをクビにしたのですが、故郷の家族らに支払った「身代米」の返還も要求します。しかし、もともと貧しい家族に返すあてはありません。彼女らの家族・兄弟は身売りをし、家財道具を売り払い、借金までして「身代米」を王府に返還したのです。我謝・玉那覇あねべの不正は一家離散状態、さらなる借金地獄という悲惨な結果を招いてしまったようです。

もしかしたら彼女たちは故郷の貧しい家庭を少しでも助けるために、悪いこととは知りながら着服していたのかもしれません。首里城での勤めを終えてたくさんの報酬を故郷へ持ち帰り、両親や家族の喜ぶ顔が見たかっただけなのではないでしょうか。それがこんな悲しい結末になってしまうとは…何ともやりきれません。

彼女たちは悪くないんです。そうです、みんな貧乏が悪いんです。琉球でもっとも華麗だった大奥(御内原)の世界…その影には庶民女性たちの悲しい物語も存在していたわけですね。

※【図】は首里城で働く女官

参考文献:真栄平房敬「琉球の王権と女性―大勢頭部・阿母志良礼を中心にして―」(『球陽論叢』)、真栄平房昭「首里城の女たち~大台所で働く「あねべ」たち~」(『首里城研究』8号)

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