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2008年12月18日 (木)

しばらく休みます

冬休みということで、しばらくお休みさせていただきます。

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2008年12月10日 (水)

琉球の武器展覧会

以前、当ブログの記事「武器のない国琉球?(2)」で戦前の沖縄で武器の展覧会が開催されたことを書きましたが、詳細について知りたいとのご質問がありましたので、今回、その新聞記事を紹介します(すみません、回答が遅れました)。読み・漢字は現代の表現にしてありますが、内容の改変はありません。

名刀と名楽器/美術品展覧会に陳列(琉球新報・大正5年《1916年》4月17日)

わが社(琉球新報社)の美術品展覧会には刀剣類も陳列されているが、その中には鬼大城、国頭左馬頭の刀、大新城の薙刀のような歴史上名高い物が少なくない。

▲鬼大城の刀
骨格たくましく勢い狼虎のようであった夏居数は俗に鬼大城と呼ばれていた。この刀は鬼大城が王命を奉じて阿麻和利を斬った有名な刀である。

▲国頭左馬頭の刀
国頭按司正弥は慶長19年(1614)国質となって上国したが、翌年大阪兵乱(大坂夏の陣)が起こったので彼は左馬頭の名を賜わり兵卒を授けられて出陣したが、その時戴いたのがこの刀である。

▲大新城の薙刀
尚清王崩御の後、三司官たちが王の御遺言に背いて王子・鑑に位を継がせようと協議している席に、毛龍吟が薙刀(なぎなた)をひっ提げて「らくぶつの御帯よはら引き廻ち首里加那志めでりで我(わ)ねさだら」と叫びながら躍り込んで、王の遺命通り首尾よく王子・元を即位せしめたが、これがその時の薙刀である。

本展覧会が古琉球の忠臣義士などの偉業を誇る名武器のほかに、琉球音楽史上に幾多のローマンスを有っている名楽器を陳列してあることはすでに読者諸君のご承知の通りだが(略)

この展覧会の武器類は、王国時代を通じ士族の所有物として代々伝わったものであり、琉球では尚真王以降、さらには近世においてすら「刀狩り」は行われていなかったことを示しています。また最近行われた金工品の調査では、現在でも沖縄県内には王国時代からの伝世品である日本刀、槍などが存在することが確認されています(『沖縄の金工品関係資料調査報告書』)。

薩摩藩の支配下に入った近世の琉球では「禁武」政策がしかれていたと言われます。たしかに薩摩藩は琉球の軍事権を制限しようとしたことは事実です。しかし最近の研究では、薩摩藩は1609年の占領当初から徹底した武器管理策はとらず(とれず)、少なくとも1657年までは士族個人の鉄砲所持すら容認されていたことがわかっています(麻生伸一「琉球における薩摩藩の武具統制令について」)。

琉球の軍事をめぐる問題を考える際には、“まず「刀狩り」「禁武政策」ありき”という先入観を取り払って、今後は一つ一つの史料を丹念に分析したうえで全体像を描き出す必要があるのではないかと思います。

参考文献:麻生伸一「琉球における薩摩藩の武具統制令について」(『沖縄文化』102号)、沖縄県教育委員会編『沖縄の金工品関係資料調査報告書』

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2008年12月 4日 (木)

琉球王朝のチャングムたち

沖縄社会では女性が強いとよくいわれます。沖縄では古来より女性が親族の男性を霊的に守護するという「オナリ神信仰」があって、琉球王府のなかでも神女組織をはじめとした女性たちが大きな力を持っていました。この神女組織とならんで王府内の一大勢力であった女性たちの集団が、首里城の大奥、御内原(おうちばる)の女官たちです。

Photo_4

御内原の女官たちは大勢頭部(おおせどべ)と呼ばれる三人の女官長たちを中心に、国王や王妃・側室らの身のまわりの世話、王への取り次ぎなど「裏の世界」一切をとりしきっていました。大勢頭部は琉球の大臣、三司官と同ランクであったといいます。この女官たちは羽地朝秀の構造改革で力をそがれましたが、なお王府内で隠然たる勢力を持っていたようです。

この女官組織の末端にいたのが、「御城女性、城人(グシクンチュ)」と呼ばれる女性たちです。いわば朝鮮王朝の「チャングム」のような存在ですね。彼女らは「あねべ」「あがま」という下級の女官となり、御内原での雑用のほか大台所での調理を担当していました。意外なことに彼女らは身分の高い士族ではなく、首里周辺の農村から選ばれた普通の女性でした。彼女らは一定の期間首里城へ勤めて、やがて故郷の農村に帰っていきました。その後はまた元通り、普通の女性として一生を送ったのです。彼女たちは華やかな首里城での思い出話を家族や友人、村の人々に語ったことでしょう。絶対的な権力者の住む首里城は、実は一般庶民にとって身近な存在だったのです。

しかし彼女らのなかには、貧しい家庭ゆえに女官となった者もいました。女官になると王府より故郷の家族へ「身代米(みのしろまい)」が支給されたのです。例えば王国末期の女官、「我謝あねべ」と「玉那覇あねべ」もそのような経緯で女官になった女性たちでした。我謝あねべは西原間切・我謝村の農民「かめ宮平」の妹でした。一家や親類は年貢も払えない貧困の状態で、「身代米」と引き換えに首里城へ奉公することになったのです。玉那覇あねべは南風原間切・津嘉山村の出身で、父親が寝たきりの貧しい家庭でした。この頃の琉球は天災などで農村が荒廃し、彼女らのような貧しい家庭は決して珍しくありませんでした。

彼女たちは首里城の大台所で働いていましたが、ある日、会計帳簿をチェックしていた役人が手続き上のミスを見つけます。女官たちへの給与が実際の勤務よりも多く支払われていたのです。これは会計責任者の過失だったわけですが、ここから我謝あねべ・玉那覇あねべがミスによる超過分の給与を黙って着服していた事実が発覚したのです。少し前に世間を騒がせた公務員のカラ勤務による給与の不正受給といったところでしょうか。

王府はただちに彼女らをクビにしたのですが、故郷の家族らに支払った「身代米」の返還も要求します。しかし、もともと貧しい家族に返すあてはありません。彼女らの家族・兄弟は身売りをし、家財道具を売り払い、借金までして「身代米」を王府に返還したのです。我謝・玉那覇あねべの不正は一家離散状態、さらなる借金地獄という悲惨な結果を招いてしまったようです。

もしかしたら彼女たちは故郷の貧しい家庭を少しでも助けるために、悪いこととは知りながら着服していたのかもしれません。首里城での勤めを終えてたくさんの報酬を故郷へ持ち帰り、両親や家族の喜ぶ顔が見たかっただけなのではないでしょうか。それがこんな悲しい結末になってしまうとは…何ともやりきれません。

彼女たちは悪くないんです。そうです、みんな貧乏が悪いんです。琉球でもっとも華麗だった大奥(御内原)の世界…その影には庶民女性たちの悲しい物語も存在していたわけですね。

※【図】は首里城で働く女官

参考文献:真栄平房敬「琉球の王権と女性―大勢頭部・阿母志良礼を中心にして―」(『球陽論叢』)、真栄平房昭「首里城の女たち~大台所で働く「あねべ」たち~」(『首里城研究』8号)

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