5円の使い道(9)
5円の使い道(9) 弥次郎
▽俺は公明正大だ
4合の芋酒で少々酔っ払ってフラフラする足をひきずって波之上を降ってくると、二人の酔っ払いが俺の先から大きな声でどなりながら行くので、同じ酔っ払いだ、粗相(そそう)でもあってはと憚(はば)かり、こっちは少しコンパスを小さくした。二人の酔漢はソレとは知らず哄笑(爆笑)して辻方面へと足を運んでいた。その一人はよくよく見ると、奇人の名を博している某雑誌の青年記者だ。近頃見ないが例のごとく牛飲をほしいままにしているなと思ってほくそ笑んだ。
▲興味も醒めた
俺が端道に入った時はもう二酔人は影も形も見えなかった。球陽座と中座はまだ芝居をやっている。ちょっと球陽座をのぞいてすぐ出る眼がちらちらして役者の顔も誰が誰やらわからぬくらいだった。たしか球陽座は波之上の一夜をやっていた。中座へ行くと門前に役者の伊良波が3名の田舎紳士と立ち話をしていた。どこかに発展しようとしてるらしい。方々歩きまわって足も棒になる。興味もすっかり醒めてしまい、だいぶぼんやりした。生来のぼんやり漢がぼんやりすると、ますます知恵も身体も働けなくなった。中座は歌劇「まるはだか」とかいうものをやっていた。これも役者がただ舞台をくるくるまわってるとしか見えない。見物が笑うからやっぱりおもしろいだろうと思われた。
▲潟まで引け
芝居はロハ(無料)でしょうがないと木戸を出ると、車(人力車)夫が梶棒を向ける。ヒラリと打ち乗って潟まで引け、とただ何がなしに命ずると、車は差し心得て韋駄天走りに石門から森ソバ屋の後ろ通りをたどった。伊波(普猷)文学士の邸(やしき)には電気が明るく石垣の上に映っていた。まっすぐに走って県庁裏通りを抜けた。この辺一帯はもう家を閉めて寂然とひそまりかえっていた。普請中の新名店の足場が目についた。夜回りの拍(子)木の音が遠く聞こえ、ますますさびしい。ホウ、車が道を間違えたではないか。潟と言ったのは埋地のつもりだったが、今俺は渡地(わたんじ)に引かれていきよる。いいわ、いいわ、どこでも行き当たりばったり
▲車賃を払えば
車賃を払えばよいんだと税務署門前を通り、渡地の前浜に出た。山原(やんばる)船が5、6杯舫(もや)ってある。船側をたたく潮の音がドタリドタリ、笘(とま。むしろ)を洩(も)るランプの火も細い風月楼(*)はまだ客があるらしく、さんざめていた。その一角が夜の空を明るくしている。「車はどこへ降ろしますか」と言うので、「垣花まで」と答えた。北明治橋を渡ると、風月楼・南座敷ではもう宴会も果てて、殿軍(しんがり)連が居残っているばかりだ。「車夫(くるまや)さんー」と女の声が尾を引いて波を渡ってきた。風月は今晩、裁判所の連中が長崎控訴院長を招待した宴会であったらしい。控訴院長はどこか二次会と出かけたそうな。橋を渡りきるとまた車を引き返して新埋地にやった。いろはの門前をすぎるとここも今晩、会があったらしい。車が4、5台、道をふさいでいた。コレからはもう車旅行だ。那覇市中を引きまわせと前の毛から後道に入り森下香々小(しゃんしゃんぐわぁー)の2階を怪しいと見たりして、御嶽坂(うがんびら)に出て西武門から久米大通りを軋(きし)らせ、大門前に出て、それから久茂地通りまでは覚えていたが、いつしか眠りに落ち、車夫の声に呼び覚まされてみると西武門交番所前に降ろされていた。車賃45銭(*2250円)を払ってあくびをして、コレで終わりだ、は心細くなる。あと勘定いくらになりますかな・・・・・・
△エヘン、残金1円91銭(*9550円)なり。5円はとうとう使いきれなかった。
(おわり)
(「琉球新報」大正3年《1914年》7月30日)
*風月楼(ふうげつろう) …那覇港内の御物グスク跡(現米軍施設内)にあった料亭。
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