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2008年11月27日 (木)

馬社会だった沖縄

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最近になってようやくモノレールができた沖縄ですが、まだ鉄道などの輸送機関はなく、移動するにはもっぱら車です。戦前には軽便鉄道や路面電車がありましたが戦争で壊されてしまい、戦後の沖縄は自動車に頼る車社会となっています。

もうひとつ、戦争以前の沖縄で重要な輸送・移動手段となっていたのが馬でした。今でこそほとんど残っていない沖縄の在来馬ですが、かつては想像もできないくらい多くの馬が存在していました。戦前の統計によると、県内にはピーク時4万7000頭もの馬がいたといいます。沖縄は「車社会」ならぬ「馬社会」だったのです。この大量にいた馬は沖縄戦で3万8000頭が死んでしまいます(実に5頭のうち4頭が死んだ計算)。戦争の被害は人だけではなく、馬にまで及んだのです。戦後はアメリカからの輸入で2万頭まで回復したものの、社会の近代化・機械化の波で結局は減少し現在にいたります。

王国時代も馬は琉球の特産で、中国への朝貢品として硫黄とともに毎年送られていました。最盛期は三山の時代で、1年に110頭も送られたことがあります。さらに中国から直接買いつけにくる場合もありました。1383年には何と983頭の馬をいっぺんに購入し、中国へ持ち帰っています。大量買い付けの理由は明朝が北方のモンゴルへの備えとして軍馬が必要だったと考えられていますが、いずれにせよ、琉球では一度に千頭を輸出できるぐらいの馬を飼育していたことがわかります。

これほど大量の馬をどこで飼っていたのでしょうか。実は読谷村と嘉手納町の境、比謝川と長田川に挟まれた場所に「牧原(まきばる)」という丘陵上の台地があるのですが、ここが王府直営の牧場でした。その広さは、何と25万8000平方メートル(東京ドーム5.5個分に相当)。牧原には現在でも牧場を囲うための4、5メートルの人工の土手が残されています。この牧場の起源は不明ですが、古琉球にさかのぼる可能性もあります。

馬は輸出用だけでなく、農耕用やサトウキビの圧搾機をまわす動力源、また役人や神女(ノロ)の移動手段としても使われました。各村には馬場が作られ、年中行事に競馬(馬勝負)がさかんに行われ、娯楽としても親しまれていました。やがて馬場は道路や公園に変わりますが、馬場跡は現在確認できるだけで何と198ヵ所もあるそうです。今でも地方に行くと、集落内に大きくまっすぐな道路が見られる場合がありますが、それらはだいたい馬場跡であることが多いようです。

広大な牧場を駆ける数千頭の馬たち…想像もつかない沖縄の風景です。それが今では馬が車に姿を変え牧場が駐車場となり、馬場は車道になって、ヒトとモノを乗せてせわしなく行き来しているわけですね。

※【画像】は今帰仁村に残されている仲原馬場。クリックで拡大。

参考文献:西村秀三「馬場と馬勝負―沖縄における農村娯楽の一側面」(『沖縄文化』99号)、「歴史の舞台・『琉球』ロマンを訪ねて(32)」(「沖縄タイムス」2000年12月16日)

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2008年11月20日 (木)

5円の使い道(9)

5円の使い道(9) 弥次郎
▽俺は公明正大だ

4合の芋酒で少々酔っ払ってフラフラする足をひきずって波之上を降ってくると、二人の酔っ払いが俺の先から大きな声でどなりながら行くので、同じ酔っ払いだ、粗相(そそう)でもあってはと憚(はば)かり、こっちは少しコンパスを小さくした。二人の酔漢はソレとは知らず哄笑(爆笑)して辻方面へと足を運んでいた。その一人はよくよく見ると、奇人の名を博している某雑誌の青年記者だ。近頃見ないが例のごとく牛飲をほしいままにしているなと思ってほくそ笑んだ。

▲興味も醒めた
俺が端道に入った時はもう二酔人は影も形も見えなかった。球陽座と中座はまだ芝居をやっている。ちょっと球陽座をのぞいてすぐ出る眼がちらちらして役者の顔も誰が誰やらわからぬくらいだった。たしか球陽座は波之上の一夜をやっていた。中座へ行くと門前に役者の伊良波が3名の田舎紳士と立ち話をしていた。どこかに発展しようとしてるらしい。方々歩きまわって足も棒になる。興味もすっかり醒めてしまい、だいぶぼんやりした。生来のぼんやり漢がぼんやりすると、ますます知恵も身体も働けなくなった。中座は歌劇「まるはだか」とかいうものをやっていた。これも役者がただ舞台をくるくるまわってるとしか見えない。見物が笑うからやっぱりおもしろいだろうと思われた。

▲潟まで引け
芝居はロハ(無料)でしょうがないと木戸を出ると、車(人力車)夫が梶棒を向ける。ヒラリと打ち乗って潟まで引け、とただ何がなしに命ずると、車は差し心得て韋駄天走りに石門から森ソバ屋の後ろ通りをたどった。伊波(普猷)文学士の邸(やしき)には電気が明るく石垣の上に映っていた。まっすぐに走って県庁裏通りを抜けた。この辺一帯はもう家を閉めて寂然とひそまりかえっていた。普請中の新名店の足場が目についた。夜回りの拍(子)木の音が遠く聞こえ、ますますさびしい。ホウ、車が道を間違えたではないか。潟と言ったのは埋地のつもりだったが、今俺は渡地(わたんじ)に引かれていきよる。いいわ、いいわ、どこでも行き当たりばったり

▲車賃を払えば
車賃を払えばよいんだと税務署門前を通り、渡地の前浜に出た。山原(やんばる)船が5、6杯舫(もや)ってある。船側をたたく潮の音がドタリドタリ、笘(とま。むしろ)を洩(も)るランプの火も細い風月楼(*)はまだ客があるらしく、さんざめていた。その一角が夜の空を明るくしている。「車はどこへ降ろしますか」と言うので、「垣花まで」と答えた。北明治橋を渡ると、風月楼・南座敷ではもう宴会も果てて、殿軍(しんがり)連が居残っているばかりだ。「車夫(くるまや)さんー」と女の声が尾を引いて波を渡ってきた。風月は今晩、裁判所の連中が長崎控訴院長を招待した宴会であったらしい。控訴院長はどこか二次会と出かけたそうな。橋を渡りきるとまた車を引き返して新埋地にやった。いろはの門前をすぎるとここも今晩、会があったらしい。車が4、5台、道をふさいでいた。コレからはもう車旅行だ。那覇市中を引きまわせと前の毛から後道に入り森下香々小(しゃんしゃんぐわぁー)の2階を怪しいと見たりして、御嶽坂(うがんびら)に出て西武門から久米大通りを軋(きし)らせ、大門前に出て、それから久茂地通りまでは覚えていたが、いつしか眠りに落ち、車夫の声に呼び覚まされてみると西武門交番所前に降ろされていた。車賃45銭(*2250円)を払ってあくびをして、コレで終わりだ、は心細くなる。あと勘定いくらになりますかな・・・・・・

△エヘン、残金1円91銭(*9550円)なり。5円はとうとう使いきれなかった。

(おわり)

(「琉球新報」大正3年《1914年》7月30日)

風月楼(ふうげつろう) …那覇港内の御物グスク跡(現米軍施設内)にあった料亭。

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2008年11月13日 (木)

5円の使い道(8)

5円の使い道(8) 弥次郎
▽俺は公明正大だ

波之上の社頭は例の魔の眼のような電灯が二つ、薄ぼんやりとともって丸い笠の上には金(かな)ブンブンが真っ黒くたかっている。門は10時頃になると閉め切ってしまうので、納涼客は廓外をうろうろするばかりだ。樹木奉納者の人名を勒した(ろくした。彫った)石碑を楯(たて)にあちら向こう遊客と遊女のささやきが聞こえた。脇に泡盛のガラス瓶なんか置いてあってしっぱりもどきだ。

▲波の上は泡盛の歌
波之上の社頭は何者の神々しさもない。厳粛の感もない。俗悪醜陋(しゅうろう)の光景ばかりだ。そこには沖縄の青年のふやけた泡盛の歌がある。遊女の安香水でごまかしたワキガの歌がある。赤くただれ青くすえた放蕩の魂の歌がある。男女の抱合を求むる醜肉の歌がある。これらのたわけ者どもに蹂躙せられた、芝生と石の屈辱の歌があるばかりだ。そのほかに何がある。潮の高き叫び声がある。しかもその湖も人間のむさき体を漬けたため汚了した潮である。その声は侮辱を感じた怒りの声かもしれぬ。しからば

▲その歌でも聞こう
その歌でも聞こう。泡盛の歌でも聞こうと甘藷(イモ)ガラの散らばった日中なら足も入れかねぬ芝生の上にブッ座った。アチコチ団座を組んで泡盛党が芳烈な酒気を漂わしている。すぐ手前の氷屋でこれらの泡盛はさかんに売っている。ビール瓶やらカラカラーやらに2合3合と取ってきて、芝生の上で飲(や)っているのだ。氷は名ばかりで酒ばかりだ。電灯もない薄ぼんやりしたランプの下で氷を削ったり泡盛の合を計ったりしている。向こうに竹囲いの小屋を設けて客席にしてあるが、誰も入り手はない。俺はズンズンこの小屋内に入りこんでいった。これはすこぶる

▲水滸伝的に出来
水滸伝的にできている。花和尚・魯智深(*)よろしくの見栄であぐらを掻(か)きたまうべしじゃ。護国寺を五台山にして酒と肉とに渇すること数日、たまらなくなって抜け出した。魯智深先生じゃ。2坪にもたらぬ小屋いっぱいにドッカと座し、ポンポンと手をたたいて酒を命ずると、12才ばかりの女の子がきた。「お酒は芋(イモ)酒にいたしますか、お肴(さかな)はタコのさしみがございます」「ウムよろしい。芋酒2合と酢ダコなら持ってこい」。花和尚・魯智深殿、いばったものじゃ。あごをなでて待っていると、大きな鉢にタコ入道と瓜のなます、芋酒は4合入れの急須に運びこんできた。手酌でグビグビ、タコ入道をムシャムシャほおばりつつ、俺もよほどの生臭坊主だ。ところがさて、

▲懐中は今ごろ
懐中(ふところ)は今ごろどういう状態になっているかと財布をつかみ出してバラバラ蓆(ござ)の上にまいて一つ二つと銭勘定におよんだ。コレでまだ大丈夫どころかあり余って心配じゃ。タコ肴10銭(*500円)、芋酒2合8銭(*400円)。まだ前途遼遠だ。考えるとおかしくもなる。銭勘定などはまるで活動写真(映画)にでも出そうな泥棒だといえばこの光景がものすごくもなる。提灯のロウソクがほとんど燃え切れて四辺(あたり)は暗くなる。波が磯(いそ)に砕くる音も気が滅入りそうだ。フト天井を見ると桁(けた)の間に歯みがき楊枝がささっている。ハハァ、この家のオンチュー(おじさん)などが寝るんだなと思って、急にいたずら気が起こり、楊枝をソット蓆(ござ)の下に隠してやった。2合の芋酒はたちまちなくなり、さらに2合、都合4合引っかけて立つと足がふらふらする。(つづく)

(「琉球新報」大正3年《1914年》7月27日)

魯智深(ろちしん) …『水滸伝』の登場人物。花和尚は彼のあだ名。怪力の持ち主で、少々思慮は浅いが義侠心に厚く、困っている人間を見ると助けずにはいられない。純真で酒を愛し、なにより腕が立つという水滸伝の豪傑の典型。

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2008年11月 6日 (木)

5円の使い道(7)

5円の使い道(7) 弥次郎
▽俺は公明正大だ

氷屋を軒別に訪(と)いまわろうと思ったが、飲料水検査みたいでおもしろくないからそれはよして、ただ当てもなくトボトボとお歩行(ひろい)あそばした。お歩行のたんびにサラサラと袂(たもと)で鳴る物があるからハテナと思ってにぎってみると、さっきの球ころがしの戦利品だ。今まで忘れていたのが鳴り出したのだ。西行法師の銀猫ではないが、子供でもいたらくれたいと思ったが、あいにくそこいらにはいない。いるのは娼妓を連れた納涼客ばかりだ。

▲知る人に逢わじ逢わじ
(波の上)十八番のビーアホールは例によって青くなったり赤くなったり上等がっているが、こっちは少し閉口する。誰かに見つかる恐れがあるから入るまい。他人をスッパ抜こう(暴露する)とするやつが反対(あべこべ)にスッパ抜かれては物にならぬ。いわゆる「知る人に 逢わじ逢わじと 花見かな」という態度だ、とノソリ、ノソリ(ジャラリ、ジャラリ)とやってくると、右側の一番端の氷屋で「エー、オハイリヤス、オハイリヤス」「イミソーレー(お入りください)、イミソーレー」「アケサメヨー、上等ドウー」と内地語と沖縄語をチャンポンにしきりに客を招いている。こやつはおもしろい、気に入ったとオハイリヤスにした。

▲今晩は不景気
俺が入ってきたから「エー、いらっしゃい」に代わって「一番ッ」と合図をする。一番から通り抜けて二番に入ると「二番ッ」となった。「何をあげますか」「冷そうめんをッ」「ハイッ」と言ってオンチュー(おじさん)に酒があるかと問うと「酒はありませんが、お銭(あし)をください。取ってきますから」という。「酒はいいからそれには及ばない。ここの主人は何という人だ」と聞くと「内地人です。城崎というんで。昨年から氷屋をやっていますよ。今晩はめっきりダメです。今までに3円(*1万5000円)しか上がりませんからな。昨晩はよかったんです、11円(*5万5000円)ありました」「オイもう何時だい」

▲ここいらに時計
「ここいらに時計はありません。ベーラー所(ベーラーそば)まで行かねば時もわからないんです。おおかたもう12時頃にはなりましょう」、うんぬん。不景気の店の番頭はのんきだ。10銭(*500円)の冷そうめんをペロリとたいらげて「アキさミヨウ」。あんまり上等でもないのでここを出て大日亭に入りこんでみると、女学生か女教員らしい女が3名、手前に腰かけて静かに氷を呑んでいた。向こうの座敷にも2、3名の客が寝そべって酒を飲んでいた。ここはすぐ失敬して社(やしろ。波の上宮)の方へ足を運んだ。(つづく)

(「琉球新報」大正3年《1914年》7月25日)

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