馬社会だった沖縄
最近になってようやくモノレールができた沖縄ですが、まだ鉄道などの輸送機関はなく、移動するにはもっぱら車です。戦前には軽便鉄道や路面電車がありましたが戦争で壊されてしまい、戦後の沖縄は自動車に頼る車社会となっています。
もうひとつ、戦争以前の沖縄で重要な輸送・移動手段となっていたのが馬でした。今でこそほとんど残っていない沖縄の在来馬ですが、かつては想像もできないくらい多くの馬が存在していました。戦前の統計によると、県内にはピーク時4万7000頭もの馬がいたといいます。沖縄は「車社会」ならぬ「馬社会」だったのです。この大量にいた馬は沖縄戦で3万8000頭が死んでしまいます(実に5頭のうち4頭が死んだ計算)。戦争の被害は人だけではなく、馬にまで及んだのです。戦後はアメリカからの輸入で2万頭まで回復したものの、社会の近代化・機械化の波で結局は減少し現在にいたります。
王国時代も馬は琉球の特産で、中国への朝貢品として硫黄とともに毎年送られていました。最盛期は三山の時代で、1年に110頭も送られたことがあります。さらに中国から直接買いつけにくる場合もありました。1383年には何と983頭の馬をいっぺんに購入し、中国へ持ち帰っています。大量買い付けの理由は明朝が北方のモンゴルへの備えとして軍馬が必要だったと考えられていますが、いずれにせよ、琉球では一度に千頭を輸出できるぐらいの馬を飼育していたことがわかります。
これほど大量の馬をどこで飼っていたのでしょうか。実は読谷村と嘉手納町の境、比謝川と長田川に挟まれた場所に「牧原(まきばる)」という丘陵上の台地があるのですが、ここが王府直営の牧場でした。その広さは、何と25万8000平方メートル(東京ドーム5.5個分に相当)。牧原には現在でも牧場を囲うための4、5メートルの人工の土手が残されています。この牧場の起源は不明ですが、古琉球にさかのぼる可能性もあります。
馬は輸出用だけでなく、農耕用やサトウキビの圧搾機をまわす動力源、また役人や神女(ノロ)の移動手段としても使われました。各村には馬場が作られ、年中行事に競馬(馬勝負)がさかんに行われ、娯楽としても親しまれていました。やがて馬場は道路や公園に変わりますが、馬場跡は現在確認できるだけで何と198ヵ所もあるそうです。今でも地方に行くと、集落内に大きくまっすぐな道路が見られる場合がありますが、それらはだいたい馬場跡であることが多いようです。
広大な牧場を駆ける数千頭の馬たち…想像もつかない沖縄の風景です。それが今では馬が車に姿を変え牧場が駐車場となり、馬場は車道になって、ヒトとモノを乗せてせわしなく行き来しているわけですね。
※【画像】は今帰仁村に残されている仲原馬場。クリックで拡大。
参考文献:西村秀三「馬場と馬勝負―沖縄における農村娯楽の一側面」(『沖縄文化』99号)、「歴史の舞台・『琉球』ロマンを訪ねて(32)」(「沖縄タイムス」2000年12月16日)