最新・琉球の歴史(10)
琉球王国の終焉、「日本」のなかへ
幕末の混乱を収束させ、明治維新を達成した日本の新政府は近代国家の領土を画定させることを急ぎ、琉球併合に向け着々と準備を進めます。
1872年(明治5)、琉球王国は「琉球藩」として明治天皇から“冊封”されます。さらに琉球人が台湾に漂着して現地民に殺害された事件をきっかけに日本は台湾へ出兵し、琉球漂着民を日本国の属民であることを清朝側に認めさせてしまうのです。
次いで明治政府は琉球に対して清朝との外交関係(朝貢関係)を停止することを強要します。琉球側はこの撤回をはかるべく請願をくり返しますが、小手先の外交戦術で事態を打開できるほど状況は甘くなく、琉球は「近代」という時代の激流に呑み込まれていきます。1879年(明治12)、明治政府から派遣された松田道之は軍隊と警察をともなって首里城に乗り込み、琉球藩の廃止と沖縄県の設置を通告します(琉球処分。廃琉置県ともいう)。国王尚泰は東京へ連行され、ここに500年あまり続いた琉球王国は滅亡します。
沖縄県設置に反対する琉球の士族たちはひそかに中国に渡り、王国復活をめざして清朝に救援を求めます(脱清人)。宗主国だった清朝は日本の琉球併合に抗議し、アメリカが調停するかたちで日本と清朝で琉球王国を分割する案が出されますが、琉球側の意向を無視した分割案に対して中国内で活動する琉球人らは猛反発し、結局、交渉は先送りされます。
王国復活の動きも、日清戦争で清朝が敗れると沈静化し、琉球は以後「日本のなかの沖縄」として歩みはじめるのです。
(おわり)
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コメント
はじめまして。
あまりりすと申します。
琉球の交易について、
検索していたら、
こちらのブログに来ちゃいました。
基礎知識のない私なので、すごく勉強になります
さて…質問なんですが、
交易品として、
琉球からは、主に硫黄
硫黄は、火薬
の材料になると思うんですが、
馬は中国では何に利用していたのでしょうか?
沖縄の馬は、小型なので、戦闘用に向いてない気がするし、農耕用かな?
農耕用なら、中国の馬ではダメなのか?
ちょっと気になってます。
とらひこさん、教えてください
投稿: あまりりす | 2008年9月11日 (木) 15:16
>あまりりすさん
訪問ありがとうございます。ご質問についてですが、琉球の馬が実際に中国でどう使われたか詳しいことはわかっていませんが、おそらく荷物を輸送するためにも使われたりしたのではないでしょうか。
また当時の馬は現在イメージするようなスマートで大きなアラブ種の馬ではなく、日本でも在来馬は比較的小型なものでした。これらは戦闘用に使われていたので、琉球産の馬を戦闘用に使ってもとくに問題なかったように思います。
投稿: とらひこ | 2008年9月13日 (土) 15:07
回答ありがとうございます
もう一つ、よろしいですか?
進貢船(ジャンク船)
は、明代初めにいただいたやつを使っていなかったんですか?
「船一隻もらった」というような記述って、何かの文献にありませんでしたっけ?
「船一隻」という記述だから、
ジャンク船かどうかは、
わからないのは、確かかも…。
和船だとしたら、どんな船に乗ってたんだろう
どうして、和船だったのでしょうか?
投稿: あまりりす | 2008年9月14日 (日) 19:41
沖縄の在来馬というと、宮古馬や与那国馬があるようですね。
それぞれ、農耕馬としての利点はあるようですね。
ところで、宮古馬や与那国馬は美味いのかな?w
沖縄では、山羊を食べる習慣はありますが、馬を食べる習慣については聞いたことがありません。
ちなみに、あまりりすサンは「基礎知識のない私」というのは大嘘で、とらひこセンセを釣ろうというワルイ学者仲間だと思いますw
ちなみに、自分は基礎知識のない素人です。
投稿: なーべらー | 2008年9月15日 (月) 22:44
>あまりりすさん
明代に中国式のジャンク船をもらったという記録は外交文書集の『歴代宝案』にありますので、これは確かな事実だと思います。
和船タイプだったのは進貢船ではなく、琉球の海を走っていた一般の船です。その名残りは「慶良間船」などに残っているみたいです。近世後期の那覇港絵図なんかに載ってますので、機会があったらチェックしてみてください。
何で和船タイプだったかは、明確な理由はちょっと記憶が曖昧なので答えることができませんが、性能的には和船よりジャンク船のほうが良かったようです。
>なーべーらーさん
拙著『誰も見たことのない琉球』にも書きましたが、戦前まで沖縄では本島にも数万頭の馬がいたみたいです。馬肉については王国時代に市場で売られていたと記録がありますから、いちおう食用としても出回ってたようですね。
えっと、あまりりすさんはそうすると僕の知ってる人なのでしょうか?ワルイ学者仲間にはどうも心あたりはないですが(笑)
投稿: とらひこ | 2008年9月16日 (火) 00:53
あまりりすです。
ワルイ学者仲間じゃないですよ
とらひこさんのことは、
新聞や学会、シンポジウムなどで、
勝手ながら、お名前と顔は存じ上げております
このブログのプロフィールを見て、「おっ
私は、たまに
自分では論文を書けないので、
ただの歴史ファンって感じかな?
今後ともよろしくお願いします
投稿: あまりりす | 2008年9月16日 (火) 11:11
エントリに無関係な話しに続いてしまいますが、戦闘用か否かは分け難いですよね。日本(特に西国)でも騎乗戦闘は稀だったようですし、農耕に重宝される騾馬は明代から仏郎機等の挽馬に使われてますし。
何れにせよ、清代には品目から外されていることや、頭数も数十程度であることを考えると、やはり軍事物資面での貢献は副次的なものだったんでしょうね。
琉球・沖縄史は、どうも影射史学の徒が付き易いように見受けられ、とらひこさんも苦労が絶えませんね(笑)
お節介ながら、然るべき対応をされても良いと思いますよ。
投稿: 御茶道 | 2008年9月17日 (水) 02:20
>あまりりすさん
そうだったんですか。これからもシンポジウムなんかは開催されると思いますので、参加されたら気軽に声でもかけてくださいね。
>御茶道さん
貴重なご意見ありがとうございます。ご指摘のように軍事物資面での貢献は副次的なものであったと思います。琉球の馬が実質的に利用されたのは明初のみで、以降は多分に名目的な朝貢品となっていたようですね。
沖縄の歴史はどうしても現代社会の諸々の問題が絡んできますが、そういった状況に無自覚でないよう注意し、堅実な歴史を示していくことが僕のつとめなのかなと考えています。
投稿: とらひこ | 2008年9月17日 (水) 19:18
とらひこ様 こんにちは o(_ _)oペコッ
以前、どこのTV局でしたか? 松前藩が、アイヌの人々から年貢として納めさせた昆布を 北前船を通じ富山藩が、買取り
その上前をはねる形で島津藩が、買い取って、琉球を通じて中国へ密貿易して 儲けた財が、倒幕の資金源となった
話(昆布ロード)
その関係から今でも昆布の消費量は、沖縄で採れないにも
かかわらず日本一であるといった 説は、
どのくらい 信憑性が、あるもんなのでしょうか?
最近のTVは、誇張が、多いので・・ちょっと疑問です。
投稿: SUU | 2008年10月15日 (水) 15:28
>SUUさん
そのテレビがどのような表現をしていたかはわかりませんが、全くのウソではないようですよ。
以下をご参照ください。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2006/07/post_366f.html
僕のブログでは沖縄の歴史に関するたくさんの記事を書いていますので、様々な疑問はこちらからお調べいただけるかと思います。
http://torahuko.ti-da.net/
投稿: とらひこ | 2008年10月16日 (木) 18:51
ありがとうございます
勉強になりました
調べると 本当に奥深いですね
投稿: SUU | 2008年10月17日 (金) 14:01
>SUUさん
どういたしまして。さらに詳しく家譜を調べたい場合は、パレット久茂地内の那覇市歴史博物館へ行けば、あちらが所蔵しているたくさんの家譜を閲覧することができますよ。
投稿: とらひこ | 2008年10月23日 (木) 12:59
はじめまして。
ミッキーと言います。
私は学校の宿題で、琉球王国の馬についてレポートを書くのですが、画像も載せてくれませんか?
あと、私みたいなバカでも分かるような説明、ありがとうございますm(ーー)m
投稿: ミッキー | 2010年6月 5日 (土) 09:03
>ミッキーさん
馬の画像は残念ながら持っていないので掲載できません。大学?のレポートを書くのでしたら、僕のブログではなく、以下の記事に掲載されている参考文献などをもとにしたほうがいいと思います。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2008/11/post-0cc9.html
もしくは高良倉吉『新版琉球の時代』(ひるぎ社、1989)に馬の話が書いてありますので、それを参考にされてください。
投稿: とらひこ | 2010年6月 6日 (日) 16:20