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2008年9月 6日 (土)

目からウロコ通史編!

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現在、連載中の「最新・琉球の歴史」をより多くの人に読んでいただくため、ここの部分だけを独立させて一つのブログにまとめてみることにしました!

目からウロコ!最新・琉球の歴史

記事は順次、追加していきます。

「沖縄の歴史を簡単に知りたい」「新しい沖縄の歴史はどうなってるのか知りたい」というお知り合いの方がいましたら、是非ここを教えてあげてくださいね。

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コメント

いつもブログを拝見しております。

今回の通史編の連載を読みながら、素人な意見なのですが、琉球史もまた日本や世界の歴史と密接な関わりのなかで動いてきたことを改めて実感しました。
どうしても、歴史を個々の地域ごとに孤立させて見てしまいがちなのですが、他の地域の歴史とのからみをしっかり見ていくことで歴史を立体的に見ることにつながると今回の連載を通して思いました。
また、逆にこうした多重性を把握することで、沖縄の独自性を探ることにつながっていけるのかもしれません。

やはり、いい仕事は同時に面白い仕事でもあります。
これからもよろしくお願いします。

投稿: まようべき人 | 2008年9月 7日 (日) 23:09

>まようべき人さん

いつもありがとうございます。

そうですね、沖縄の歴史というとどうしても地方史や郷土史といった沖縄をピンポイントに見ていくのが一般的なのですが、逆にそうした見方が沖縄の歴史が持つ特質を見えにくくさせてしまっているのかもしれません。

まあ今回の通史の記事は僕の仕事というよりも、沖縄の歴史研究者の仕事をわかりやすく噛み砕いたという感じですね。こういういい仕事がもっとたくさんの人たちに知られるようになればと思います。

投稿: とらひこ | 2008年9月 9日 (火) 23:05

とらひこ様

初めまして。
私は沖縄県の高校で非常勤講師をしているものです。
沖縄の歴史や民俗を調べており、とらひこさんの沖縄史のお話は大変参考になります。

ところで現在調べていていまだわからないことがあります。
それは聞得大君や祝女の呪具というか、神具であるガーラ玉、即ち勾玉の由来です。

いつごろから沖縄に勾玉が神具として取り入れられたか、
どのような理由、経緯で勾玉になったのかが、わかりません。何か参考文献などありましたら御教示頂ければ幸いです。宜しくお願い申し上げます。

投稿: トラネコ | 2008年9月17日 (水) 17:20

>トラネコさん
はじめまして。勾玉の由来についてですが、僕が知る限りでは、明確なことはわかってないと思います。発掘では貝塚時代の遺跡から出土していますので、かなり古い時代から使用されていることは確かでしょう。『沖縄県史 各論編2 考古』(沖縄県教育委員会、2003)の284ページにグスク時代の勾玉について解説しています。また、おもろ研究会『おもろさうし精華抄』(ひるぎ社、1987)の「巴の曲玉」では『おもろさうし』の中で謡われている勾玉について書かれているので何かの参考になるかと思います。

投稿: とらひこ | 2008年9月17日 (水) 19:52

とらひこさま

あけましておめでとうございます。
お蔭様で、とらひこさまのビジュアル版の本は読了(「これがリアル古琉球だ!」が最高でした!)、安里氏のおすすめリブレットも読了(後半が特に面白かったです(~_~;))。現在は、『目からウロコ』本を読んでいます。正月休みを有効利用でき、アマゾン様様です。

一点疑問があります。『目からウロコ』本の通史の”琉球文化圏”の成立の部分で、沖縄文化圏と奄美文化圏ができたことが記されていますが、「それまで両者の交流は全く(と言っていいほど)なく」とありました。(ブログのほうを確認したら、「と言っていいほど」と加えられていました。)
2005年ごろに、熊本大学の確か女性の教授が書かれた論文で、「貝の道」についての研究を読んだことがあります。(ネット上にありましたので読めました)
それには確か、貝の道ルートとでも言えるものが九州と南西諸島の間で縄文、弥生の時代からできていて、その頃の人は活発に交流していたと。内地からは土器(とそれに入れられたおそらくは穀物)を、南西諸島からは貝(ヤコウガイなど祭祀に使ったであろうもの)を商品として交流していたと記されていたと思います。
それが今回読んだ伊波普猷の『古琉球』とバシッとかみ合って得心したものでしたが、このあたりはどう考えればよろしいでしょうか。
即ち、有史以前からの、”北(去にし地)”からの人の流入と、それを証するがごとき、言葉や宗教の内地との共通性について伊波氏は論じておられますが、貝の道についての研究がその伊波氏の考えを裏付けていると思われるのです。
しかしご著書の通史では上に引用したように交流がなかったとあるので、この部分について、どう考えればよいのか、伺えればと思います。
※なお貝の道については、浦添ようどれの資料館で上映されていたビデオでも触れられていたように覚えています。

投稿: kk | 2009年1月 2日 (金) 18:14

>kkさん

明けましておめでとうございます。また拙著を読んでくださりありがとうございます。

僕が書いたのは沖縄と奄美が分断されていたということではなく、《沖縄+奄美》と《先島》の交流がなかったということです。沖縄と奄美はグスク時代以前から非常につながりが強く、木下尚子氏の研究する「貝の道」の話とも連動する事実だと思います。

たしか以前の記事でのコメントでも書いたと思いますが、南九州から沖縄までは有視界航海が可能でしたが、沖縄から南の先島へ行くにはかなりの距離があり高度な航海技術が必要で、グスク時代頃になるまでほとんど交流はなかったようです。北との交流以前の先島は南の台湾やフィリピンなど東南アジア方面との交流がさかんだったといわれています。

拙著とブログ記事との記述の違いですが、100パーセント交流が全くなかったというより、「おそらく冒険的な航海が可能であっても、恒常的に安全な航海が可能ではなかった」ということをより正確に表現するためにあのような訂正にしました。

投稿: とらひこ | 2009年1月 2日 (金) 22:28

とらひこさま

ご回答ありがとうございました。
仰るとおりでした。確認いたしました。面目ありません。斜め読みしてしまっていたのですね。あるいは目にウロコがかかっていたか。大変失礼しました。
しかし、回答の中で、「南九州から沖縄までは有視界航海が可能」とあったのが、「へぇ」20連発という驚きでした。なるほど。見えていたら行ってみたくなりますよね。
読み違いでご迷惑をおかけしましたが、これで内地と沖縄との自由かつ活発な交流、しかも先史時代からの、に対する確信が深まった気がします。
・・・と書いたところで、ご回答を読み返したら、そうストレートに受け取っていいものか微妙ですね。
「内地(九州)と沖縄の直接的な交流」というよりは、「喜界島を中継しての間接的な交流」と捉える方が実態に近いのでしょうか。

投稿: kk | 2009年1月 3日 (土) 00:03

>kkさん
今でも沖縄の那覇から奄美方面へ向かう船に乗ると当時の航路を体感することができますよ。僕も乗ったことがありますが、たしかに島が肉眼で確認できる距離でした。

貝塚時代における九州と沖縄とのつながりは、土器などのモノからうかがうかぎりでは間接的なものにとどまっていたようです(ここらへんはたしか高梨修氏の研究などをご参照されるといいと思います)。

あと木下尚子氏からお話をうかがった際に「当時の沖縄の人はサンゴ礁内で活動するのみで、基本的に外に出たがらない」とお話されていたのが印象的でした。当時の交流は北からのヒト・モノの流れが主流であり、沖縄の人々はどちらかというと受け身であったということですね。

投稿: とらひこ | 2009年1月 4日 (日) 22:44

とらひこさま

なるほど。ややイメージを変えないといけない感じですね。内地からの流入をやや受身的に受け入れていた。沖縄からは出たがらない傾向だった、と。
たしかに沖縄は一度住み着いたら、動きたくなくなるかもしれませんね。私も初上陸以来、もう通算5年目になりますのでよく分かります。
※高梨氏の本は高くてちょっと手が出ません。図書館でも探せればと思います。

もうひとつ質問させて頂いてもよろしいでしょうか。
「目からウロコ」本のなかで、「日本版『小中華』」という過激な言葉が出てきます。
小中華、というとよく朝鮮系の国に使われる言葉と思いますが、それはさておき。
朝鮮、琉球については気持ちは分かる(というか知識で仰りたいことは解釈できる)、アイヌは全く知らず、オランダについては「本当ですか?」という驚きですが、何か参考にできるものはありますか。オランダとの貿易協定のようなものがあればいいのかもしれませんが。

投稿: kk | 2009年1月 5日 (月) 00:53

>kkさん

日本版「小中華」についてですが、別に過激でも何でもなく、現在の歴史研究界で定着している、江戸時代の日本の国際的な位置付けを表した概念です(正確には「日本型華夷秩序」といいます)。

そもそも「中華」という概念自体、中国や朝鮮の専売特許ではなく、前近代の東アジアにおける国際関係の普遍的なあり方といったほうがいいでしょう。すなわち自らを文明としての「中華」と位置づけ、同心円状に周辺を「夷」ととらえる世界認識です。それは琉球(国内限定ですが)にも存在します。こうした複数の華夷秩序が重層的に存在していたのが前近代東アジアの国際体制でした。

アイヌについては松前藩において「ウイマム」と呼ばれる服属儀礼を定期的に行っており、またオランダも対等な貿易相手というより「歴代の御被官(忠実な家来)」として位置づけられ、長崎のオランダ商館長は1633年以降、定期的に徳川将軍へ「御礼」を述べに江戸へ参府しています。琉球の江戸上りや朝鮮の通信使とともに、これらは明確に日本側にとって朝貢(=服属)の使節としての性格を帯びていました。

このあたりのことは各社が出している「日本の歴史」シリーズにも書かれていますので、機会がありましたら図書館などで読んでみてください。

投稿: とらひこ | 2009年1月 5日 (月) 19:58

とらひこさま

やっと『目からウロコ』読了しました。正月休みも終わってしまいました。「おもろさうし」は手つかずです。(苦笑)

上にご回答有難うございました。
しかしやはり日本版「小中華」あるいは日本型華夷秩序という言葉には違和感があります。あくまで個人の感想というしかありませんが。
そう感じる理由は、歴史というよりも政治的な色が「中華」あるいは「華夷秩序」という言葉自体に付着しているからかもしれません。とらひこさまの文章から切り離しても、です。
歴史学の文脈では、多くの研究成果によってこれらの言葉の厳密な定義や背景が暗黙のうちに了解されるのかもしれませんが、「中華思想」などは例えば、「共産主義で国をまとめられなくなった中国共産党が新たな求心力をつくるために持ち出している思想」というように考える人たちもいる等、今現在政治的に使われており、そこでは使う人の思惑によって様々に解釈が動いているように思えるのです。
※岡田英弘氏の本によると、もともとは東夷、西戎、北てき(荻の草かんむりがない文字)、南蛮という言葉は、相手を卑下する意味ではなかったみたいですね。「夷」とは低地に住む人の意味、「蛮」も南方人の言葉で単に「人」の意味だとか。

またグーグルで「日本型華夷秩序」を検索しても240件しかヒットせず、その多くが学会論文関連。しかし一方で「新しい歴史教科書」をこの切り口で批判しているホームページもあり、逆に言えばおそらくこの考え方に依らない歴史学者もいるのだろうと思えるので、仮にそれでも学会の常識であるとしても、そのまま私のような一般人が「常識」として飲み込むことはできないと思うからです。
(正直に言うと私も、歴史学研究会にはやはりイデオロギーのにおいを、少なくとも私自身が歴史を学んでいた頃は感じていました。だから学会の常識と言われると逆に構えてしまいます。)
またハンチントンが言うように、日本文明は中国文明とは異なる文明と私は思っているので、仮に東アジアで普遍的な考え方であるとしても、中国文明的な考え方のくくりでは上手くくくれないのではないかと思うからです。

ただこの辺は、本職の歴史学者の方々のほうが材料(一次史料)をたくさん持っておられるでしょうし、私のほうは何も持っておりませんので、残念ですが、あくまで私個人の感想として違和感を表明するしかありません。

せっかく教えて頂いているのに失礼なことを申し上げましたが、ご回答に対し正直に考えを申し上げるのも礼儀と思い、あえて書かせて頂きました。(ムシして下さって結構です)

ですが、ご著書は二書ともとても面白く、まさしく「目からウロコ」で、今日、30~40人ぐらいのある集まりで紹介したら、特にビジュアル読本のイメージ古琉球とリアル古琉球の対比にはみんなが一見して引き込まれて、「M脇書店に行けばありますか?」と。『目からウロコ』本も「読みやすーい」と大好評でした。
(自分はネットで買ったけど出版社が沖縄なのでたぶんM脇にもあると思いますよ、と言いましたが大丈夫でしょうか(~_~;))

ご紹介頂いた安里氏の「グスク」リブレットと同時に購入した『沖縄人はどこから来たか』に、安里氏による「琉球王国以前の住民」という論考があります。
そこには、縄文時代前期から九州と沖縄(本島含む、というか本島で証拠となる遺跡が出ている)は交流があり、縄文中期に弱くなり、弥生期には貝交易で活発化し(本島と九州との仲介者は奄美・喜界島ではなく”種子島”の弥生人)、古墳時代には衰退し、とありました。
そこでは「奄美・沖縄の貝塚文化」というように、両者を一括して論じられています。
一方で、とらひこさまの『目からウロコ』本では、(私も勘違いしましたが)、図では、奄美文化圏、沖縄文化圏、先島文化圏と3つに分けておられますが、文章では、「奄美・沖縄文化圏」と「先島文化圏」と2つに分けておられます(安里氏の分け方と同じですね)。この辺は、仮に喜界島を地域の中心地であったとすると、円が二つ(奄美、沖縄)なのか一つ(奄美)なのかは、その後の南島人の大宰府との関係もかかわり大問題なのだろうと思いますが、いかがお考えでしょうか。
安里氏の論考では、奈良時代には遣唐使の安全確保のため南島経営が行なわれ、貝塚後期人が南島人として大和朝廷に朝貢するようになった、ともあり、その南島経営には当然、本島も入っていただろうと思われるのですが。
とらひこさまと安里氏との考え方が違う?それとも、論考が古いのかもしれませんね。

投稿: kk | 2009年1月 8日 (木) 02:12

すみません。「常識」ではなく「定着している」ですね。訂正させていただきます。

投稿: kk | 2009年1月 8日 (木) 02:14

>kkさん
拙著の宣伝まことにありがとうございます。沖縄県内でしたら、拙著はだいたいどこの書店でも置いてあります。

江戸時代の日本の国際的位置付けを「日本型華夷秩序」と評価するのは従来の「鎖国」概念より的確な表現であり、僕は有効な見方だと考えています。とくに1644年に「華」である漢民族の明朝が崩壊し、「夷」と考えられてきた清朝が政権をにぎった(つまり従来の東アジア国際秩序がいったん崩壊した)ことが、周辺諸国の「中華」意識に影響を与えた点も見過ごすことはできないでしょう。

貝塚時代について僕は専門ではないので確たることはいえませんが、中心性を有する地域が奄美のみかあるいは沖縄にもあったかという問題は、喜界島の中核とした当時の奄美地域のほかに浦添グスクを中心とした沖縄での強力な王権との関連性も考慮する必要があると思います。

安里氏の『沖縄人はどこから来たか』の論考は、喜界島の遺跡群が発見される以前のものであることから、少しばかり再検討の余地があるのではないかと思います。コラム記事にも書きましたが、ヤマトに「朝貢」した南島人は地域によって頻度のちがいがあり、南九州・奄美が圧倒的で沖縄以南からとみられる使節(これも確実に沖縄とは言えませんが)は100年の間に1回しかありません。沖縄地域までが奄美と同程度のレベルで南島経営の範疇であったとは僕は考えにくいように思います。

投稿: とらひこ | 2009年1月 9日 (金) 13:33

とらひこさま

ご回答ありがとうございます。

宣伝というか紹介はしましたが、今流行りの勝間和代さんいわく、「実際に行動に移すのは数%」でしょうから、実際に売上に貢献するのは片手?ぐらいかもしれません(~_~;)

>「とくに1644年に「華」である漢民族の明朝が崩壊し、「夷」と考えられてきた清朝が政権をにぎった(つまり従来の東アジア国際秩序がいったん崩壊した)ことが、周辺諸国の「中華」意識に影響を与えた」

お伺いですが、これは日本についても言えるのですか?
やはり私の知識が足りないか、そもそも当時の日本が「『華』である漢民族の明朝」と思っていたかどうか。それを言うなら隋も唐も元も元々「夷てき」の国ですが、明朝崩壊のときに日本が受けた衝撃というのがどのようなものだったのか。ある意味、見慣れているのではないか。素朴な疑問です。

また時代は遡りますが、南島人が大宰府や都と繋がっていた(『日本書紀』などに出てきた)時代と、浦添グスクの強権の時代とは数百年の差がありそうですが、いかがでしょうか。
やや古いのでしょうが安里氏の本で、琉球・沖縄史を少し概観することができました。
たぶん、「南島人」云々の時代は沖縄本島も貝塚時代であり、強い中心は見当たらないのではないかと思うのですが。それともやはりこれも、知らぬだけなのでしょうか。
当時の地域の中心地を喜界島あたりと取るならば(即ち文化圏を奄美・沖縄で一つの円と取るならば)、その周辺の人々が地域代表としてよく内地に行き、本島などの人々が一回しか行っていないというのは、説明不可能ではないと思うのです。例えば仲井真知事が代表していくようなものと考えれば、です。(もちろん今と昔の地方官のあり方は違うと思いますが。朝貢時の察度を明にとっての(仲井真)知事になぞらえたら、こんな感じかなと。奄美あるいは察度の権力が及ぶ範囲の辺境の地の民には、いずれにせよたいした問題ではなかったのでしょうから)
まあ日本書紀の原典にも当たらずに書いておりますので、随分無責任な想像でしかありません。知的好奇心のみで暴走していますので、ご容赦頂ければ幸いです。

投稿: kk | 2009年1月10日 (土) 00:22

>kkさん

明清の政権交代について幕府は相当な衝撃を受け、一時は明朝回復のための出兵まで検討しています。また当時の幕閣が明朝崩壊を「華夷変態」という語で評したことからもわかるように、明を「華」と認識しています。前述しましたが、このあたりは各社の日本史シリーズなどをご参照いただければ幸いです。最近だと講談社の出したロナルド・トビ『日本の歴史10 「鎖国」という外交』などがいいと思います。

書き方が悪かったかもしれませんが、先の回答で書いた英祖の話と南島人の朝貢うんぬんの話は段落を分けて別個の論点として書いたものです。

言いたかったのは、文化の「円」が一つか二つだったかを考える際には、グスク時代までに喜界島・浦添と明確な二つの中核が形成されていく過程で、背景として異なる文化圏が前提としてあったのではないか、そのような可能性を考える必要があるのではないかということです。

先に挙げた高梨氏の研究によると、6、7世紀頃までは、土器形式から見るかぎり奄美と沖縄が異なった文化圏だったことがわかっています。南島人の朝貢が奄美と沖縄で頻度が違う問題も、以上のような異なった文化圏が背景にあった可能性もあります。とはいえ奄美・沖縄地域が強いつながりのもとにあったことは疑いがないとは思いますが。

いずれにせよ貝塚時代は僕の専門ではありませんので、申し訳ありませんがご質問の問題について的確な回答をしかねます。さらにお調べになりたい場合は、池田榮史「琉球王国成立以前-奄美諸島の位置付けをめぐって-」(『前近代の東アジア海域における唐物と南蛮物の交易とその意義』)をご参照ください。科研報告書なので一般書ではありませんが、浦添市立図書館にあります。

投稿: とらひこ | 2009年1月10日 (土) 01:05

とらひこさま

ご回答ありがとうございました。
一連のご回答によって研究の様子が大まかに理解できました。
あとはさらに自分で調べてみます。
「華夷変態」についても、ネットで(今は便利ですね。でも全部並列で出てくるので玉石混淆にもなりますが)色々分かる部分もありますが・・・。鄭成功とか山鹿素行など懐かしい名前も出てきますね。

またブログ等で勉強させて頂きます。
何回も質問に答えて下さり、ありがとうございました。

投稿: kk | 2009年1月10日 (土) 19:07

>kkさん
どういたしまして。

追記:先に挙げた参考文献名は誤りでした。正しくはロナルド・トビ『日本の歴史9 「鎖国」という外交』(小学館、2008)です。すみません。

投稿: とらひこ | 2009年1月12日 (月) 19:46

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