最新・琉球の歴史(7)
日本版「小中華」に組み込まれた琉球
薩摩軍に征服された琉球は王国体制の維持が許されたものの、徳川幕府の体制下に組み込まれてしまいました。薩摩藩は絶対的な権力をもって琉球の上に君臨したのではなく、あくまでも日本の幕藩制国家のなかで琉球支配を担当する存在でした。
薩摩は琉球から奄美地域を割譲させ、また年貢の納入を義務付けます。さらに琉球の朝貢貿易にも介入していきます。琉球は様々な政治的規制をうけましたが、基本的な自治権は確保されており、最終的な政策の実行は王府にゆだねられていました。
江戸時代の日本は天皇・将軍を頂点に、朝鮮・琉球・アイヌ・オランダを従属した存在とみなして、中国とは別個の日本版「小中華」の国際秩序を(なかば観念的に)つくりあげていました。
幕府は日本の対外窓口を4つ(対馬・薩摩・松前・長崎)に限定して海外渡航を制限します(この政策はのちに「鎖国」と呼ばれます)。琉球は薩摩藩を通じて、日本の対外窓口の中心であった長崎のサブルートとしての役割も果たすのです。また「鎖国」政策は琉球にも適用され、自由な海外渡航ができなくなった外来の人々は、固定化された近世の琉球社会に同化していきます。
琉球は日本版「小中華」秩序のなかで実際に従う国として、幕府の権威を高めるための重要な存在となります(朝鮮やオランダは日本側から勝手に従属国とみなされていましたが、実際にはちがいました)。琉球は国王や将軍の代替わりの際に徳川幕府へ使節団を派遣し(江戸上り)、また薩摩藩にも次期国王の王子が派遣されて薩摩との従属関係を確認します(中城王子上国)。
近世の琉球王国を薩摩藩の「奴隷」状態であったとする説は近年では否定され、実際には中国と日本に二重に“朝貢”する国家だったとする見方が有力になっています。薩摩に征服されてから明治に王国が滅びるまでの時代を「近世琉球」といいます。
(つづく)
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