最新・琉球の歴史(8)
明朝の崩壊と琉球の大改革
琉球王国が日本の幕藩体制に組みこまれた頃、中国の明朝は弱体化していました。1644年、反乱軍によって都の北京が陥落して明朝は滅びます。代わって政権をにぎったのは女真(満州)族の清朝です。
超大国の「中華」・明朝が倒れたことでアジア周辺諸国は大きな衝撃を受け、朝貢国だった琉球でも大騒動になりますが、結局は清朝に従います。この動乱で中国貿易も一時的に断絶してしまい、また琉球国内では薩摩の征服後にこれまでの矛盾が噴出し、王国の社会システムが機能不全を起こしていました。
内外の混乱のなか、事態を打開すべく登場したのが羽地朝秀(はねじ・ちょうしゅう)です。彼は強力なリーダーシップを発揮し、それまでの古琉球の政治・経済・社会を大転換する改革を断行します。現在私たちが認識する琉球の「伝統」は、ほとんどこの時期から生まれたものです。羽地はこれまでの「海」を中心とした交易国家の社会システムから、日本の幕藩制国家に整合させるようなかたちで「陸」を中心とした農業国家の社会システムへと転換させるのです。
【図】羽地朝秀(想像画)
近世の琉球王国は国内で生産した砂糖やウコンなどの高付加価値の商品をヤマト市場へ売却してばく大な利益を得、その資金をもとに中国との貿易を行うというサイクルをつくりあげます。その結果、琉球はヤマト経済への依存・一体化が進行しましたが、それまで衰退・地盤沈下しつつあった琉球は、近世の国際秩序に対応しながら新しい体制を築いて再びよみがえったのです。
羽地の改革路線を継ぎ、琉球王国の近世体制を完成させたのが蔡温(さいおん)です。この頃に進められた重要な動きは琉球の「中国化」です。新たな価値観として儒教イデオロギーが導入され、風水思想をはじめとした中国文化を以前にも増して積極的に取り入れていきます。琉球の「伝統」文化がどことなく中国に近い印象があるのは、この時期の「中国化」政策によるところが大きいといえるでしょう。また中国式の船「マーラン船」の導入と、あわせて行われた商品流通政策の結果、王国の海域内には網の目のような海上の物流ネットワークがはりめぐらされました。
「中国化」政策の背景には、清朝が朝貢貿易を縮小させようとする動きに対して、「中華」に従う忠実な優等生を演じてその回避をはかったことと、ヤマトに呑み込まれないよう自らを「中国化」して新たな「琉球」のアイデンティティを創ろうとしたことがあったのではないかといわれています。意外なことに、完全な独立国家であった古琉球よりも、むしろ近世になって「琉球人」意識は増幅・強化されていきます。
このように、日本と中国へ“二重朝貢”する近世の琉球は、両大国のはざ間で決して自己を見失わず、絶妙なバランスをとりながら限られたなかでの主体性を保持しようとつとめていたことがわかります。
(つづく)
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