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2008年7月24日 (木)

最新・琉球の歴史(3)

三山の時代と国際社会へのデビュー

戦乱の激化する沖縄島では、やがて3つの大勢力(山北・中山・山南)が形成されていきます。のちに「三山(さんざん)」と総称される政治勢力です。

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3勢力のリーダーは各按司をたばねる「世の主」として君臨しましたが、その権力は按司の連合政権というかたちで成り立っていました。「世の主」は必ずしも血筋で継がれず、按司たちの合意のもと、その時々の有力者によって担われていたようです。

三山のなかでも「中山」は突出した勢力で、その拠点である浦添グスクは琉球最大の規模を誇っていました。浦添の「世の主」には、舜天(しゅんてん)・英祖(えいそ)・察度(さっと)などがいました。

一方、外の世界ではまたもや大きな変化が起こります。中国の元朝が衰退して内乱が起こり、それまで日本と中国とのメインルートであった博多―明州(いまの寧波)ルートが断絶したのです。

その結果、サブルートにすぎなかった南九州から南西諸島を経由して中国福建へ向かうルートが一時的に日中間航路のメインとして利用され、琉球が注目されはじめます。日中間を往来する海商たちは天然の良港で島状になっていた那覇に居留地をつくり、那覇は「国際貿易特区」ともいうべき姿に変貌していきます。

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1368年に元朝を倒した明朝は、超大国の「中華」として周辺諸国に臣下の礼をとらせて公的貿易を許し(冊封・朝貢関係)、それ以外の私的な貿易活動・海外渡航は一切禁止します(海禁政策)。

琉球は1372年に中山の察度が明朝の求めに応じ、以後500年にわたって続く中国との公的な通交関係が開始されます。明朝はそれまで私的に貿易を行っていた海商たちが密貿易をして海賊化することを恐れていました。そこで琉球を有力な交易国家に育て、彼ら民間海商を琉球の公的貿易に参加させることで合法的に活動する機会を与えようとしたのです(対モンゴルの軍需物資としての琉球産の馬や硫黄は、優遇策の直接的な要因ではなかったようです)。

明朝は琉球を優遇して貿易の機会を増やし、朝貢に必要な大型海船や航海スタッフも惜しみなく与えます。派遣されたスタッフは那覇にあった中国系移民(華人)たちの居留地(久米村)に合流し、後に「閩人(びんじん)三十六姓」と呼ばれます。

琉球はこの優遇された条件のもと、大型海船と久米村の優秀なスタッフを活用することで、やがて海域アジア世界の中継貿易を行い「万国の架け橋」となるのです。その活動の範囲は日本や朝鮮、中国、東南アジアまで及びます。

(つづく)

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コメント

こんにちは、はじめて質問します。

明朝は、中央から離れている。中華帝国からするとすると海賊などたいして関係がないと思うのですがどうでしょう。

私の考えですが、それよりは戦争の重要な戦略物資の硫黄などが明朝にとって現実的に考えられます。

ということでよろしくお願いします。

投稿: オオシロ | 2008年7月24日 (木) 11:49

>オオシロさん
はじめまして。

ご質問についてですが、中国の明朝にとって沿岸部における海賊問題は非常に大きな問題でした。「北虜南倭」(北方の遊牧民族、南方の倭寇)という言葉が残っていることからもわかるように、明朝全時期を通じて国家の懸案事項だったのです。

沿岸部は中央から離れているからといって、決して辺境ではありませんでした。大都市北京の物資・食料はそのほとんどが南方からの海上・水上ルートに依存していたため、これらの流通が途絶えると華北地域はほぼ政治・経済機能がストップしてしまいます(現在の日本におけるシーレーンを想像してください)。実際にモンゴル元朝の滅亡の一因は、沿岸部の反乱によって北京への流通経路を反乱軍に握られたことがあったといわれています。

それに、この時期の「倭寇」は単なる海賊ではなく、実際には中国沿岸で交易活動や漁業活動に関わっていた人たちが多数を占めていました。「海禁政策」によって民間の活動が一切非合法化されてしまったため、何千万人(あるいはそれ以上)いる沿岸民たちが突然、明日から生活できなくなってしまったわけです。禁令は「板1枚も海におろすことを許さない」と言われる厳しいものでしたが、彼らは生きるために法を犯して海に乗り出していきました。

明朝権力は法を破った彼らを一緒くたに「倭寇(日本の海賊)」と呼び、その根拠地と考えられていた日本に対し、さかんに倭寇禁圧を呼びかけています。しかし日本はこれに応じなかったため、代わりに隣国の琉球が注目されたというわけです。

硫黄は軍事物資としてたしかに重要でしたが、それらは明朝初期の一時的にしか需要があったにすぎませんでした。琉球の特産品である硫黄・馬は、明朝による琉球優遇策の二次的な副産物にすぎなかったのです。

この問題については、岡本弘道「明朝における朝貢国琉球の位置附けとその変化―14・15世紀を中心に―」(『東洋史研究』57―4、1999)に詳しく書かれていて、この説は学界での共通認識となっています。よろしければ参考にしてください。

投稿: とらひこ | 2008年7月24日 (木) 12:11

はじめまして。大学1回生で日本史を専攻している者です。
僕は、グスク時代に入る前の琉球と日本・アジアの通交を研究していきたいと思っているのですが、10世紀前までの琉球と日本の間には交易は全くなかったのでしょうか。
国家レベルではなくても、個人間ではありそうな気がするのですが・・・。
あと、これはとても個人的な質問になりますが、グスク時代前の10~12世紀の琉球と日本の関係を研究しようと思ったら、やはり中世を専門になさっている先生のゼミを希望した方がいいのでしょうか。

かなり藪から棒ですが、宜しくお願い致します。

投稿: フジワラ | 2008年7月28日 (月) 22:13

>フジワラさん

はじめまして。グスク時代以前の琉球と日本との交流ですが、先島をのぞく南西諸島ではそれこそ縄文時代から恒常的に交流が継続しています。とくに有名なのは弥生時代の貝の交易で、ゴホウラ・イモガイをはじめとした南島産の貝が本土へかなり輸出されています。

10世紀前には南西諸島の諸勢力が「朝貢」のかたちで日本国家と関係を持ち、赤木やヤコウガイ、硫黄などの産物を日本へ送る交易を行っていました。この時代には奄美大島の北部と喜界島が文化・経済の中心地だったようです。

詳しくは僕のブログ記事(http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2006/09/post_6c6e.html)か、最近刊行された池田榮史編『古代中世の境界領域 キカイガシマの世界』(高志書院、2008)などを参照してください。

日本史専攻で10~12世紀の日琉関係を研究ですか…どちらの先生につくか難しい問題ですね。古代・中世どちらでも問題ないとは思いますが、肝心なのは対外関係をよく知る先生についたほうがいいような気がします。どこの大学に所属しているかわかりませんから何ともいえませんが。あとこの時代の琉球に関する文献史料はほとんどなく、研究は現在、考古学が主導している感じですので、気合いを入れて飛び込んだほうがいいかもです。

まだ1回生のようですから、テーマをいきなり限定せず、もちろん関心を持ちながら、10~12世紀の時代を広く理解することにつとめるほうがいいのではないでしょうか。そうすれば新しい研究の視角などが見えてくるかもしれません。

投稿: とらひこ | 2008年7月29日 (火) 19:30

お返事ありがとうございます。同志社の文化史学科に所属していますが、東洋史専攻がなく、先生にお聞きしたら琉球をやりたいなら何か日本史に絡めないと卒論が厳しいということでした。
文献史料が無いと言うことは、琉球側は考古学的視点で見て、日本側は史料も交えてみなければならないということでしょうか?
今はとにかく琉球の通史をしっかりと身に付けていこうとおもっています。

投稿: フジワラ | 2008年7月30日 (水) 13:10

>フジワラさん
対外関係史の研究は一国史や従来の専攻分野で括れない側面がありますから、もちろん大学の専攻を押さえながら、対日関係にこだわらずに自由に研究されてもいいと思います。

とくに琉球史はアジア各地域と交流した背景から、どちらか一方の二国間関係(対日、対中、対朝など)だけを見ていては全体像を十分に描けませんので、全てを研究範囲とする必要はありませんが、ある程度視野に入れて関心の日琉関係のテーマにとりくんだほうがいいでしょう。

対外関係史研究者は大学の設定する研究分野では日本史でも東洋史でもハグレモノになるので(笑)、大学外でのネットワークが重要になってきます。関西方面でしたら、大阪大学の山内晋次先生が古代日本の対外関係史を研究されているので、機会があればお話など伺うといいと思います。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/toyosi/members/yamauchi/yamauchi-index.html

文献資料は要するにどちら側にもほとんどないということです。なので考古学が主導してこの時期の歴史像が描かれつつあります。

通史に関しては、
●豊見山和行編『日本の時代史18 琉球・沖縄史の世界』(吉川弘文館、2004)
●安里進ほか編『県史47 沖縄県の歴史』(山川出版社、2004)
などがあります。

また、拙稿「琉球王国の形成と展開」(桃木志朗編『海域アジア史研究入門』岩波書店、2008)も少しばかりは参考になるかもしれません。

もしまた疑問などがありましたら、メッセージいただければと思います。

投稿: とらひこ | 2008年7月30日 (水) 20:50

本当にありがとうございます。とても参考になりました。
今からしっかり基礎知識をつけていきます。はぐれ者の境遇に耐えるだけの精神力も付けていきます。
また質問させていただくと思いますが、その際は「またか!」とお思いになっても宜しくお願い致します・・・。

投稿: フジワラ | 2008年7月31日 (木) 00:05

僭越ながら、史学科で沖縄史を学んだ者として、私にもおせっかいさせてください(笑)

フジワラさんはまだ1回生なのに研究テーマを定めておられて、感心します。
私が1回生の頃は、ただ漠然と沖縄史を勉強したかっただけで、琉球-東南アジア交易史が面白そうかな、とぼんやり考えている程度でした。とらひこさんがおっしゃるように、このテーマだと日本史と東洋史のどっち専攻になるのやら、と困っていた記憶があります。
結局、専攻したのは日本史で、研究テーマも沖縄の近現代史になりましたが。

意識が高ければ高いほど、大学という場所に失望することもあるかも知れません。しかし、自分から動けばちゃんと応えてくれる場所でもあると思います。
好きなテーマを好きなだけ勉強できる時間を楽しんでください。
それから、友達もたくさんつくってくださいね。自分の経験上、「歴史って何がおもしろいの?」と言ってくれる友人は貴重です(笑)

何だか役に立つことをほとんど書いていませんが、応援しています。

投稿: 茶太郎 | 2008年8月 1日 (金) 00:49

>茶太郎さん
ご自身の体験による貴重なご意見、ありがとうございます。

投稿: とらひこ | 2008年8月 2日 (土) 18:38

はじめまして。韓国の人で琉球のことを勉強してます。やはり資料に制限を痛感してます。今度は那覇の<牛町>のことについて悩んでます。もしかご存知ますか。

投稿: ルド | 2008年8月29日 (金) 10:24

>ルドさん
はじめまして。韓国で琉球の歴史を勉強するのはいろいろ大変でしょうね。海外では「琉球」の認知度は低いからか英文などの論文も少ないですしね。

さて那覇の「牛町」についてですが、名前の由来について悩んでいるということでしょうか。いちおう『遺老説伝』という近世の琉球の史料には、牛町についての由来が書かれています。

「昔から那覇の西村に一つの石のかたまりがあった。山野(地方?)の人で牛を売ろうとする者は必ずここに来て牛をこの石につなぎ、売買をした。なのでこの地を名づけて「牛町」といった。牛をつなぐ石は今(遺老説伝が書かれた1745年頃)でも残っている」

投稿: とらひこ | 2008年9月 1日 (月) 22:40

お返事ありがとうございます。
おっしゃったとおり、那覇の牛町のことです。
あそこは今も残ってますか。
あの時の牛町は牛についての琉球の人の価値観と関係がありますか。

いろんな資料を捜している途中、<目からうろこ>を読む機会があって嬉しかったです。
琉球のことについて深い愛情をもって生きている方にお目にかかって。

投稿: ルド | 2008年9月 2日 (火) 15:30

>ルドさん
現在の那覇に「牛町」の痕跡は残っていないと思います。実は、那覇は戦争や開発で昔の姿と全く変わってしまった場所なんです。『那覇市史』民俗篇の付録「戦前の那覇地図」を見ると、那覇の西町に「ウシマチザカイ(牛町境)」という小路名が確認できますが、牛をつないでいた石そのものが残っていたかどうかはちょっとわかりませんでした。

琉球で牛が特別に神聖視されていたということは聞きませんが、農耕や食用など生活において身近な存在だったのは間違いありません。おそらく牛に対して特別の価値観を持っていたから牛町ができた、というよりは、地方から農民が育てた牛を那覇において売買しに来るという当時の生活状況をの一部を現わすものだと僕は考えます。

><目からうろこ>を読む機会があって嬉しかったです。

ありがとうございます。僕もそのように言っていただけると嬉しいです。よろしければ今後も訪問よろしくお願いします。

投稿: とらひこ | 2008年9月 5日 (金) 22:43

どうもありがとうございます。ご意見と資料は役になりました。琉球の歴史と文化は韓国の済州道のことと似てると思います。自然環境や周辺国との関係などいろんな面でですね。
今度は<誰も見たことのない琉球>の注文を申し込みました。お待ちしています。

投稿: ルド | 2008年9月 6日 (土) 00:38

>ルドさん
チェジュドは韓国本土とはまた違った独自の文化を持っているようですね。海に囲まれた環境など、沖縄との類似点は興味深いです。

拙著のご注文、ありがとうございますm(_ _)mイラストをたくさん使っているので、楽しみながら読めると思います。何かしらの参考になれば幸いです。

投稿: とらひこ | 2008年9月 7日 (日) 12:53

マタ質問があって。
那覇の天士官は中国の冊封使の泊まった所だと知ってます。その辺にある<夷堂>はどんな所ですか。<えびすどう>と関係がありますか。

投稿: ルド | 2008年9月16日 (火) 23:49

>ルドさん
夷堂とは「えびすどう」のことです。七福神の神様である恵比寿さまを祀るお堂で、日本の信仰です。16世紀はじめに日本から渡来した日秀という僧が建立しました。恵比寿は商業の神様で、琉球でも那覇の市場の前に建てられたと伝えられています。

投稿: とらひこ | 2008年9月17日 (水) 19:18

どうもありがとうございます。
琉球にも僕がいましたか。琉球の身分制度には百姓まで記されたんですが、琉球国王が倭寇に捕られた奴隷をわざと買ったという記録を読みました。

厄介をかけてすみませんが、とらひこさんのお返事は私の勉強に大変役になってます。

投稿: ルド | 2008年9月18日 (木) 01:11

>ルドさん
琉球には「僕」というような奴隷的身分に位置づけられた階層はありませんでした。とくに倭寇によって朝鮮から琉球に拉致されてきた人々がいた時代は、琉球には「士族」や「農民」という身分制度は確立されておらず(成立は近世に入ってから)、王と主従関係を結んだ官人(下司)か、そうでないそれ以外の非官人(真人)とおおざっぱに区分されていました。

ご指摘のように倭寇による被虜人を琉球王府が買い取って朝鮮に送り返していましたが、一方で買い取った被虜人を琉球国内で何らかの労働に従事させていたことも『朝鮮王朝実録』に記されています。奴婢のような人々もいたでしょうね。

投稿: とらひこ | 2008年9月20日 (土) 16:30

どうもありがとうございます。
今度も勉強になりました。

投稿: ルド | 2008年9月20日 (土) 21:10

>ルドさん
お役に立てて幸いです。また何かありましたらどうぞ。

投稿: とらひこ | 2008年9月21日 (日) 08:58

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