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2008年7月31日 (木)

最新・琉球の歴史(4)

おきなわの「琉球化」

明朝との関係成立は、沖縄島の社会に決定的なインパクトを与えることになりました。それまで中国側では南西諸島と台湾あたりをぼんやりと「流求」などと呼んでいたのですが、この時期から「琉球国」が明確に沖縄を指す名称になっていきます(台湾は小琉球と呼ばれます)。沖縄島の3大勢力の「世の主」たちは明朝から「」として把握され、やがて自らも「王」を名乗るようになります。外から与えられた名称を自分のものにしていくのです。

また中国の先進文化が一気に琉球に流れこみ、陶磁器や絹織物など高価な中国製品がもたらされます。三山の王たちは貿易活動で利益を得て権力を強化し、さらに明朝皇帝から「王」として認められることで、その権威を利用して国内の求心力も得ようとします。やがて琉球では王権に中国皇帝の権威が不可欠なものになっていきます。

このように、外から沖縄を「琉球化」していく動きに対して、沖縄側はそれを受け入れて自らもすすんで内部から「琉球化」していくのです。

この頃の琉球社会は、突出した都市である浦添(のちに首里)・那覇と、その他の草深い村落社会という、二重の社会構造になっていました。つまりそれまでの「ウチナー」的村落社会のなかに、那覇(とそれに付属する首里)という「国際貿易特区」が新たに形成されたのです。

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那覇は華人や日本人が居留地をつくり、他の地域とは全く異質な社会をつくりあげていました。「ウチナー」的社会からおこった三山の現地権力は、那覇の独立した外来勢力を活用することが琉球での覇権をにぎるカギでした。

この試みに成功して沖縄島を統一したのが佐敷按司の尚巴志(しょうはし)です。彼は軍事的な才能があり、有力な按司を次々に倒して台頭するのですが、やがて那覇の華人たちと協力関係を結んで中山王となり、1429年には三山を統一して琉球王国を樹立します(第一尚氏王朝)。

那覇の華人たちは貿易活動だけではなく、現地政権の内部にも入りこみ政治にも参加します。第一尚氏王朝はとくに華人たちとの結びつきが強く、国政の最高顧問には華人の懐機(かいき)が就いて琉球王国のかじ取りをしていきます。

琉球の国政には日本人も参加していました。ヤマトから渡来した禅僧は対日外交を担当し、またヤマトの文化ももたらします。琉球の寺院は外務省と大学の役割も果たすのです。

交易国家の政権の中枢に外来勢力が参加するのは東南アジア(さらに世界史一般)でもよく見られる現象です。琉球王国は「ウチナー」だけで成り立っていたのではなく、外からの人々を積極的に取り込むことではじめて国際社会のなかで繁栄することができたのです。

(つづく)

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コメント

ランキング上位めざし、おばーも一押し、クィック!!
昔、30年前、王代記を学び、又、思い出しながら楽しんでいます、

投稿: カマドー | 2008年8月 1日 (金) 00:42

最新・琉球の歴史(3)の茶太郎さんのコメントについてですが、茶太郎さん、どうもありがとうございます。
今は少し考えを変え、遣隋使と遣唐使の航路上に沖縄があったことの必要性と日本朝廷の沖縄・琉球の捉え方、政治的役割を調べようかなぁと思っています。
夏休みのレポートもこのテーマで書こうと思っています。

「日本史って何がおもしろいん?役に立つん?」という友達はいますよ(笑)。歴史専攻でない人の歴史への質問は素朴かつ的確なものが多くて困ります(苦笑)。

投稿: フジワラ | 2008年8月 1日 (金) 10:41

この時期から「琉球国」が明確に沖縄を指す名称になっていきます(台湾は小琉球と呼ばれます)。
>間違い、元朝から琉球は大琉球を呼ばれます、台湾は琉球と呼ばれます。
元 周致中 《異域志》
大琉球國
在建安之東,去海五百里。其國多山洞,各部落酋長皆稱小王,至生分彼此不和,常入中國貢,王子及陪臣皆入太學讀書。

小琉球國
與大琉球國同。其人粗俗,少入中國。風俗與倭夷相似。

投稿: 瀛洲 | 2008年8月 2日 (土) 13:49

>カマドーさん
ランキングのクリック、ありがとうございます。実際に押してくださる人は閲覧者の1パーセントもいないので(汗)、カマドーさんのご厚意に感謝します。

>フジワラさん
僕は沖縄で「琉球史」専攻で勉強していたので、フジワラさんの例だと僕よりは本土のほうで沖縄の研究をしていた茶太郎さんのご意見は参考になると思います。

> 瀛洲さん
『異域志』は後になって編集が加えられたか、あるいはこの史料中の「大琉球国」が沖縄のことを指していない可能性を考えたほうがいいのでは?「大琉球国」について「常入中國貢,王子及陪臣皆入太學讀書」とありますが、元代に(!)常に朝貢し大学に入って読書していた王子及び陪臣とは、いったい琉球のどこの誰なのですか?これが事実なら元代の正史ほかにも記録があるでしょう。もし元代に朝貢したのが事実なら研究史上の大発見になりますよ。

ちなみにこの『異域志』は明代万暦年間の周履靖によって『夷門廣牘』として編集・刊行されている中で残存しているようですね(http://bbs.gxsd.com.cn/viewthread.php?tid=26619&page=1&authorid=115)。その史料の成立過程で『異域志』に何らかの編集が加えられたかどうかの検証はちゃんとしたのですか?

こうした検証をちゃんとふまえたうえで、諸問題をクリアして主張されているのだったらいいですが、短絡的に「ここに書いてあるからそれが真実」ではダメです。表面上の文字だけにこだわって史料の裏にある背景や周辺状況について考えないのはお粗末です。何度も何度も言いますが「史料批判」をしなさい。

仮に『異域志』の記述が正確であったとしても、明代に朝貢主体として初めて登場した沖縄が「琉球国」と明確に指すようになっていく事実自体には何の誤りでもないですが。重箱の隅をつつくこと甚だしい。そういう「新説」は自分のブログで存分に主張なさい。

投稿: とらひこ | 2008年8月 2日 (土) 18:39

 とらひこ先生はじめまして。東京在住の一読者です。数年前から沖縄好きになり今では年2回ペースで訪れています。 「目からウロコの琉球・沖縄史」は沖縄県立博物館を見学したときにミュージアムショップに置いたあったのを購入しました。ちゃんと博物館にも置いてあるんですね(笑)。
  長年にわたる地道な研究の成果を私のような素人にもわかるようにイラスト入りのコラムにまとめ上げるには大変なご苦労があったと思います。本当に頭が下がります。
 これからも読ませていただきますのでお体に気をつけてがんばってください。
 励ましの意味も込めて「ブログランキング」押します。
 「そーれポチッとな(笑)」

投稿: 震電 | 2008年8月 2日 (土) 20:58

私の見た《異域志》は夷門廣牘本です。万暦の刻本ですが、しかし元朝の周致中の記録によって型通りで、だから私は明の地名を使うことはできないと思っています。たとえば、宋朝型通りな《史記》の中の地名は宋の呼び方に変えることはできません。
“常入中國貢”
元 陶宗儀《書史會要》
琉球國職貢中華,所上表用木爲簡,高八寸許,厚三分,闊五分,飾以髹,扣以錫,貫以革,而橫行刻字于其上,其字體蝌蚪書。
政府の付き合いの記録があるて、琉球文の記録がもあります。
また、浦添市博物館に“元押”があって、元に使節が琉球に着いたことがあるとも証明して、あるいは元人の移住者は琉球まで生活します。
国子監は元の初期に創立して、付き合いがあって、国子監へ本を読むのもたいへん有り得ます。

投稿: 瀛洲 | 2008年8月 2日 (土) 21:24

>震電さん
拙著の購入、どうもありがとうございます。博物館にも置いているんですね。コラムは当ブログにて週1のペースでコツコツと書き続けたので、それほどの苦労はありませんでしたが、このペースを維持するのは少し大変でした。

ランキングクリックもありがとうございます!そうしていただけると元気が出ます。今後ともよろしくお願いしますね。

>瀛洲さん
史料の性格について検証されているなら、信頼性は高いといえるでしょう。元代頃には琉球諸島の様子が中国側でもおぼろげながら浮かび上がってきていたようですね。

元代の『書史會要』についての記述も、文中の「琉球国」が本当に沖縄を指すのかどうかはさらに検証の必要はあると思いますが、興味深い内容です。

ただ、何度も言ってるように、そういう自分の研究はここでアピールせずに、学界で発表するか自分のブログでお書きください。先のコメントでも書きましたが、「仮に『異域志』の記述が正確であったとしても、明代に朝貢主体として初めて登場した沖縄が「琉球国」と明確に指すようになっていく事実自体には何の誤りもない」ということです。繰り返します。

ここはあなたの掲示板ではありません。僕はあなたの研究や考えについて、ここで議論する気はありません。いいですか、何度もお願いしていますよ。ここでは今後書き込みはしないでください。

投稿: とらひこ | 2008年8月 2日 (土) 22:29

初めまして。
沖縄の人がもともと自分たちの国を何と呼んでいたのか気になり色々と本を読んでいます。
琉球王国は正式には琉球國であること、その前に尚巴志が三山統一したあとの正式な国名は中山王国であったことまでわかりました。
しかし、中山王国がいつから琉球國と称するようになったのか、さらに疑問なのが三山時代の国名も中山王国であったのか、さらにそれ以前の時代に沖縄地方に国名があったのか疑問がつきません。
戦争などのせいで古代の文献が残っていないようですが、どこかの洞窟や地中に埋められたカメなどから資料が見つかって琉球の歴史がわかってくると面白いと思います。

投稿: あつし | 2015年3月25日 (水) 22:15

>あつしさん

豊見山和行氏が指摘していますが、中山王国という呼称はあるようですが用例は少ないようですね。「琉球国中山王察度」と出てくるように、中山は「琉球国」のなかの中央部というニュアンスで当初は使われたようです。

琉球や中山という呼称は中国側からの一方的な命名で、それらを受けて沖縄側が実体化していくという流れがあります。

古琉球の碑文や『おもろさうし』では自らの統治領域を「おきなわ」と呼んでいるので、それらが地元本来の呼称だったようです。こうした碑文やオモロなどから琉球の自意識などを探ると何かわかるかもしれません。

投稿: とらひこ | 2015年3月29日 (日) 10:01

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