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2008年7月10日 (木)

最新・琉球の歴史(1)

拙著『目からウロコの琉球・沖縄史』中の通史「目からウロコ特製!最新版すぐわかる琉球の歴史」を、今回から数回にわたって取り上げたいと思います。おそらくネット上で見れる琉球の通史では、これが最も新しく、学術的な研究成果にもとづいたものになるはずです。なお、拙著掲載のものに若干、追加・訂正する場合もありますので、あしからずご了承ください。

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はじめに

かつて、南西諸島には「琉球王国」という独立国家が存在していました。

沖縄が日本本土(ヤマト)とちがった文化や伝統を持ち、また自分たちを「ウチナーンチュ(沖縄人)」だと強く意識する背景には、歴史的に独自の道を歩んできたことがあります。日本とは別個の国家をつくりあげたことが「琉球・沖縄」のアイデンティティの形成に決定的な意味を持っているのです。

言ってみれば近代以前の沖縄の歴史は「琉球王国」の歴史だったのですが、まずその歴史を見ていくうえで、いくつかのふまえてほしい〈前提〉があります。

まずは「琉球・沖縄」という地域が地理的に見てどのようなところか、ということです。沖縄県は大小160の島々からなりたっています。それぞれの島は海で隔てられていて、不便な「絶海の孤島」という印象を持つかもしれません。島の大きさも日本本土の島々と比べてとてもちっぽけな島しかないと思うでしょう。たしかに「陸」だけの視点から見ればそうかもしれません。

しかし、沖縄という地域を見る際には、それは適切な見方ではないと思います。「海」は生活のできない死の世界で、島に生きる人々にとって外との世界を隔てる“壁”のような存在だったのではありません。近代以前においても島の人々、あるいは外から来た人々は船を自在にあやつり、活発に島々の間を移動していました。

もちろん現代より移動が便利だったわけではありませんが、「海」は“壁”ではなく、外の世界へとつながる“道”そして“生活圏”だったのです。陸だけの面積で見れば沖縄県は大阪府より若干大きいぐらいです。しかし島とその周りの海をひとつの世界としてとらえる「海域世界」という考えでとらえれば、南西諸島の範囲は実に東京から福岡あたりまでの広さに匹敵します。琉球王国はこの海域を統治した巨大な海洋国家だったのです。

Photo

そしてもうひとつ。意外に思うかもしれませんが、近代以前、人々は活発に地域間を往来するなかで、「民族」や「国境」という観念をあまり意識していませんでした。この傾向はとくに近世(江戸時代)以前に顕著です。グローバル化が進む現代の状況は、かつて「中世(古琉球)」という時代、すでに出現していた状況なのです(現代社会を「新しい中世」と呼ぶ学者もいます)。

つまり沖縄でも太古の昔から「ウチナーンチュ」あるいは「琉球民族」という枠があらかじめ決まっていて、琉球の歴史が展開したのではないということです。それは沖縄や北海道をふくめた現代の「日本国」「日本人」の枠組みが、神話の時代からあらかじめ決まっていたわけではないのと同じことです。琉球王国は南西諸島に昔から住む人だけでなく、外の世界から来た様々な人も参加して、歴史を重ねていくなかで「琉球」という主体を自らつくりあげていったのです。

以上をふまえてこれから紹介する沖縄の歴史を読んでいただけると、これまでの教科書や入門書で紹介されている沖縄の歴史とは全く違った面が見えてくると思います。

ここでの解説は、王様の順番をもとに歴史を説明する「王統史観」は採用しません。「琉球・沖縄」という地域が、外の世界とどのように関わりながら自らを形成していったかを、最新の研究成果をもとに述べていこうと思います。

(つづく)

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コメント

琉球王国はウリナラが起源なのではないんですか?catface

投稿: 御座候 | 2008年7月10日 (木) 13:16

>御座候さん
どこぞで主張されている説の論拠では、まずありえません。

あの程度の論拠でウリナラ起源説が唱えられるなら、僕はすぐさま「琉球王中国人説」や「琉球王インド人説」を主張することができます(もちろんそんなことはしませんが)。

そういえば、たしか「華僑結社の黒幕による琉球王傀儡説」なんてのが前にありましたね。すぐに消えましたけど。

どこの出自だったとしても、そもそも琉球の歴史で「起源・出自」を追求したところで、研究上、あまり有意義にはならないような気がします。南西諸島という「場」における歴史の過程での「融合」こそが、琉球を琉球たらしめたわけですから。

投稿: とらひこ | 2008年7月10日 (木) 13:42

まあ「起源」「出自」という話をしだすと、「日本人」も大陸からやってきたわけで、江上波夫先生の「騎馬民族征服王朝説」みたいなことになっちゃいますからね。確かにあまり生産的とは言えませんな。


チャンプルーこそが琉球の本質ですか。

投稿: 御座候 | 2008年7月10日 (木) 16:47

沖縄県は大小160の島々からなりたっています。

沖縄県は大小151の島々からなりたっています。

琉球王国は南西諸島に昔から住む人だけでなく、外の世界から来た様々な人も参加して、
外の世界から来た様々な人 中国人、契丹人

投稿: 瀛洲 | 2008年7月10日 (木) 22:26

>御座候さん
そうですね。「日本人」もどこ起源かと問えば、究極の行き着く先はアフリカになってしまいますからね。

>瀛洲さん
情報ありがとうございます。

ですが、大小160というのは「大約」という意味です。間違いではありません。

それに契丹人は沖縄には入ってきた事実はありません。

投稿: とらひこ | 2008年7月10日 (木) 22:51

初めまして、沖縄を愛する一人として、又沖縄の歴史・ルーツに興味を覚え、今丁度友人の家系・系図の製表を頼まれ、専門にお願いしました、系図の一番頂点に天孫氏が記されています、年代をご存知でしたら教えて下さい、私は8年前に教会で聖書を学んで、目からうろこ聖書から出た言葉と聞かされました、その聖書の箇所は新約聖書・使徒の働き9:18にあります、

投稿: カマドー | 2008年7月11日 (金) 22:32

>カマドーさん
天孫氏は現在、実在が確認されていない伝説上の王統なので、これという年代はいうことができません。伝説によると、25代で1万7000年続いたということです。

「目からウロコ」の語源は聖書から出ているというのは面白いですね。意外とみんなが知らない事実かもしれません。

投稿: とらひこ | 2008年7月12日 (土) 17:58

こんにちは。とらひこさんに、質問があります。

琉球処分で明治政府が首里城にのりこみimpact、尚泰王を東京に連れていく時ship、言葉での脅迫punchが絶対あったと思うんですね。
尚泰が首里城から連れ去られるまでのmoviekaraoke一部始終(やり取り)は、どのようなものだったのでしょか?
私が一番知りたいcrown琉球の歴史の一つです。

ジョン・ブラック「尚泰談話@ヤングジャパン」penで、尚泰は明らかに憤慨していますよね。
「日本は、やはり嘘を言ったということで国中憤慨したものだ。karaoke」「日本の書物には、神武天皇の時代にヤキ人が朝貢してきたが、これは琉球人であるとか、ヤニカシマとは琉球のことで、琉球は昔から日本の領土だと主張しているが、ばかばかしい限りで反論する気にもなれない。shadow
渋々、東京に行ったのは尚泰の発言からも読み取れると思います。
「生か死か」の二者択一を迫られたということはないですかsign02
宜しくお願いします。catうちなーちゅです。

投稿: コザの猫 | 2008年7月12日 (土) 18:18

沖縄県は大小160の島々からなりたっています。(釣魚諸嶼を含みます)

沖縄県は大小151の島々からなりたっています

>それに契丹人は沖縄には入ってきた事実はありません。

夷洲 人皆髠髮穿耳

李鼎元 使琉球記
有梁長史邦弼饋糯飯來,鬚髮盡白。問其年,方五十。詰其故,自稱小底,因云國人固多不壽,小底尤早衰。

齊鯤 續琉球國志略
生日以十二年爲紀,自始生至十二歲爲一紀,自是二十四、三十六至六十爲大慶。國王是年受各屬島慶賀,民間亦然與中國以十紀者不同。

費錫章 琉球雜咏
漫說男兒墜地難,一星終後保平安。俯躬只少三歧木,遺俗分明效契丹。[自注:球俗生日按十二年稱慶一次,考遼史禮志有此,名曰再生。琉球明以前不通中國,惟與高麗往來,或效室韋之制,亦未可知。又夷官每自稱小底,亦契丹語。]

投稿: 瀛洲 | 2008年7月14日 (月) 21:01

>コザの猫さん
その時代についての史料は詳しく見ていないので確たることはわかりませんが、尚泰王の近習だった喜舎場朝賢の『琉球見聞録』に何かないでしょうか。

>瀛洲さん
尖閣諸島は沖縄にカウントするな、ということを意味しているのですか。そのような議論でしたら、よそでやってください。現在の沖縄側の一般的な認識では大小160で誤りではありません。

それと契丹の根拠に冊封使録を挙げられてますが、史料にこう書いてあるから、100パーセントそのまま受け取るのは危険です。「史料批判(text critique)」というのをご存じですか。契丹が滅びて数百年後の冊封使の認識が本当に正しいものか吟味しなくてはいけません。

またそれを傍証する周辺史料や当時の状況まで勘案したうえで、結論を出さなくてはいけないのです。これは歴史学の基本です。

冊封使録以外の史料、またそれを傍証するような周辺状況では、琉球での契丹に関するものは一切確認できていません。これまでの琉球史研究でも聞いたことがありません。要するに「冊封使がこう言ってるから正しい」では根拠薄弱なのです。特に冊封使録は他国の人間による琉球見聞録で、しかも契丹についての同時代史料ではありませんから、内容の真偽について、とくに注意しなくてはなりません。

以前から僕のブログの1文1文を添削してご自身の説を主張されているようですが、わざわざそんなことをするのでしたら、ご自分のブログで自説を披露されたらいかがですか。この種の書き込みは今後遠慮していただければと思います。

もっと内容に関する有意義な議論でしたら歓迎します。

投稿: とらひこ | 2008年7月14日 (月) 21:29

『琉球見聞録』を探して確認してみます。
どうもありがとうございました。

投稿: コザの猫 | 2008年7月16日 (水) 23:24

>コザの猫さん
また何かわかりましたらお知らせしますね。

投稿: とらひこ | 2008年7月17日 (木) 16:56

>現在の沖縄側の一般的な認識では大小160で誤りではありません。
島しょ別面積
http://www.pref.okinawa.jp/tochi/toukei/tousyo.html

上里先生批判册封使記載有錯,如果只是以自己沒研究過就認爲不足爲據,或者只是以自己的主觀認識就得出“琉球沒有契丹移民”的結論,這不是做學問的精神。

我幷沒有在我的博客發表“琉球有契丹移民”的文章,只是想與上里先生討論這一話題,幷沒有把我的思想强加給他人的意思。

雖然册封使來琉球時,契丹早已滅亡,但是有關于契丹的史料留下來,因此他們的說法是有史實根據的。

另一方面。上里先生對日本僞造的琉球史認爲不够,只憑“五日到不了琉球”就認爲《隋書》中的流求是臺灣,這才是需要批判的。日本學者還說源爲朝之子是琉球人祖先,源義朝之子源義經是成吉思汗,難道這是正確的嗎?又有奄美、度感、信覺、球美是琉球屬島的主張,這又是事實嗎?

另外,我新寫成了《夷洲確爲琉球而非臺灣考》,改天發來,還請先生賜教。

投稿: 瀛洲 | 2008年7月26日 (土) 15:16

http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241192/1/vol09/tsb/2151.htm
琉球見聞録

投稿: 瀛洲 | 2008年7月26日 (土) 15:18

上里先生對日本僞造的琉球史認爲不够

上里先生對日本僞造的琉球史認識不够

投稿: 瀛洲 | 2008年7月26日 (土) 15:24

>瀛洲さん

先に僕が書いたコメントをちゃんと読みましたか?僕は契丹人琉球渡来説に対して、書いてある史料をそのまま受け取るのではなく、「史料批判」をして検証しろといっているのです。その結論として僕は言ったのであって、これは学問の手続きとして当然の作業です。

では冊封使の記述に何らかの根拠があったとしましょう。それならば、

(1)現在残されている沖縄の文化・風習で契丹から渡来したと明らかに判明するものはあるか。
(2)久米村のような渡来者のなかに契丹の出身者はいるか。
(3)琉球側の記録に契丹に関する記述はあるか。
(4)沖縄の言語に契丹語とうかがえるようなものはあるか。
(5)南西諸島の発掘において契丹のもの、あるいは契丹文化を受け継ぐような出土遺物は発見されたか。

これらの問題について、現在の研究では全く確認できていません。つまり冊封使の記述のみではあまりにも根拠として乏しい。この問題に答えることができるなら、僕は瀛洲さんの主張に対して信頼性があると考えます。

ちなみに冊封使がいう「生日以十二年爲紀,自始生至十二歲爲一紀,自是二十四、三十六至六十爲大慶。」というのは日本の影響を受けた十二支の紀年法のことではないでしょうか。古琉球では日本の陰陽道などの影響を受けた干支の紀年法が使われていたことがこれまでの研究で判明しています。

冊封使は必ずしも琉球文化に対して理解が深かったわけではありません。自分の持っている知識で目の前の現象を解釈しようとした結果、あのような記述になってのではないでしょうか?冊封使が判断した考えについて、その真偽を検討する必要があるという一例です。

為朝伝説等の問題に関してはすでに僕はブログで書いてありますから読んでください。

http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2006/01/post_f168.html

http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2006/09/post_6c6e.html

為朝伝説については信頼性はありませんが、現在の研究では南西諸島に北方の日本の人々が渡来して新しい文化を作っていったことは、歴史学・言語学・考古学・形質人類学その他分野から明らかになっています。琉球における日本の影響は確実にあって、為朝伝説はその背景のもとに作られた伝説であったと考えます。

もう一度言いますが、ご自分の独自の説を主張されたいのであれば、僕の文章の枝葉の部分に対していちいち異論をはさむのではなく、ご自分で作ったブログで思う存分主張してください。そういう類のコメントはこちらではご遠慮願います。今後このようなコメントがされれば、僕は答えません。また中国語の文字はこちらでは読めないものがありますので、こちらでコメントされるなら日本語でお願いします。

投稿: とらひこ | 2008年7月26日 (土) 16:10

また“五日到不了琉球”との問題については、僕は冊封使の言が正しいとして自説を訂正していますよ。なぜなら冊封使は実際に中国から琉球に行く機会があったからです。この場合は自分の体験、すなわち「事実」に拠っているので、信頼性は高い。

しかし契丹についての認識は、琉球への渡航日数の問題とは全く別の問題で、冊封使の思いついた「考え」にすぎません。だから『遼史』などを参考に挙げていても、その比較が正しいのかどうか、冊封使の考えに対して真偽を検討するのは当然なのです。これが「史料批判」という手続きです。

そして僕が知る限り琉球史の研究で、冊封使の認識を傍証するような事実は一切ない、と言っているのです。ただ書いてあるからそれは真実、ということでは良い分析とはいえません。

投稿: とらひこ | 2008年7月26日 (土) 18:04

>古琉球では日本の陰陽道などの影響を受けた干支の紀年法が使われていたことがこれまでの研究で判明しています。
干支の紀年法は中国の発明のです。

琉球の固有の宗教(民俗信仰、自然信仰)と日本の陰陽道は中国の戦国の時期の陰陽家の影響を受けます。

日本
神武天皇の即位年(紀元前660年 辛酉の歳)
どうして即位年は辛酉年ですか?
《易緯》:“辛酉爲革命,甲子爲革令。”
《詩緯》;“辛酉革命,甲子革政。”
日本は陰陽家の“辛酉革命説”を採用しました。

琉球
石敢当は中国から伝来するので、風水堪輿学の産物です
琉球の羽衣伝説は方士から来ます。
華暦(旧暦)七月十五日 道教の中元、仏教の盂蘭盆

また、天孫文化は中国の文化で、この事は上里さんを知らないでしょう?

>現在の研究では南西諸島に北方の日本の人々が渡来して新しい文化を作っていったことは、
私にどれらの文化があることを教えて下さい。

>もう一度言いますが、ご自分の独自の説を主張されたいのであれば、僕の文章の枝葉の部分に対していちいち異論をはさむのではなく、ご自分で作ったブログで思う存分主張してください。そういう類のコメントはこちらではご遠慮願います。今後このようなコメントがされれば、僕は答えません。
上里さんは誤って私の意味を理解しました。

上里さんは冊封使に対して偏見があって、あるいは一方的な観点があります、琉球が契丹の移住者がいることを信じない、だからこの問題を討論しません。

また、上里さんは隋朝の前に中国人が琉球に着いたことがあると思っていますか?

投稿: 瀛洲 | 2008年7月27日 (日) 13:46

僕の書いたことを全く理解しようとせず、論点をずらし、あくまでも根拠のない自説に固執しようとする姿勢を捨てないようですね。

最後にもう一度だけ言います。有意義でない不毛な議論はしたくありませんので、今後、もう書き込みはしないでください。

僕は冊封使の記録を特別視せず公平に見るからこそ、「史料批判」によって他の様々な史料や研究成果と等価値としてみて、その真偽を客観的に検討したのです。その作業を無視して冊封使の記録を絶対視する瀛洲さんこそ、冊封使に対する偏見があります。

陰陽道などの反論についても、全く反論になっていません。中国で発明しようが、日本に流入して中国とは似て非なる独自の発展を遂げたものが日本経由で琉球に入ってきているのであって、だからこそ冊封使は自分たちの紀年法とは違うと述べているのではないですか?

陰陽道に中国発祥という事実があったから、琉球に契丹人が渡来している何の証拠にもならない。お門違いです。この問題について詳しく知りたければ豊見山和行『琉球王国の外交と王権』(吉川弘文館、2004)を読んでください。

さらに石敢当、風水思想をはじめとした琉球における中国的文化は近世期に入ってから採用されたものですよ。同じく天孫降臨をはじめとした琉球神話は近世に入り、中国的思想によって脚色されるようになるのです。契丹の話とは何の関係もない。琉球の固有信仰が中国戦国時代の陰陽家の系譜を持つとは初めて聞きましたが、これまでの研究でそのような説は唱えられていません。日本の古代信仰の系譜を持つとは言われていますが。

琉球における日本文化についてはいちいちここでは述べません。ご自分で勉強してお調べください。僕のブログでもいろいろ書いているでしょう。調べる手段はたくさんあります。

明代以前に中国人が渡来していた形跡はありますが、契丹に関するものは一切確認されていません。14世紀以前の人・物の流入は日本からの流れが圧倒的です。これもブログに書いてありますし琉球史研究でも言われている常識です。ご自分でお調べください。

これにて瀛洲さんへのコメントは終了します。

投稿: とらひこ | 2008年7月27日 (日) 16:29

私は冊封使の記録が完全に正しいと思うことがなくて、しかし琉球民族の民俗と大陸の民族の民俗の関係を研究したことがなくて、古い琉球言葉と古契丹の言葉の関係を比較したことがなくて、あるいは琉球の史書で記載していないで、このごろ出土する契丹の文化財がありません、冊封使の記録が間違いがあると思って、それなら客観的な研究の問題ではありません。

だからこそ冊封使は自分たちの紀年法とは違うと述べているのではないですか?
生日以十二年爲紀,自始生至十二歲爲一紀,自是二十四、三十六至六十爲大慶。國王是年受各屬島慶賀,民間亦然與中國以十紀者不同。
この話は上里さんは間違いを理解しました
中国の干支の紀年法は12年1紀です、しかし誕生日(大慶)は10年1紀なのです。


14世紀以前の人・物の流入は日本からの流れが圧倒的です。
依然として中国です。戦国の時期に中国人は琉球に着いて、中国と琉球の交流も戦国からです。

投稿: 瀛洲 | 2008年7月27日 (日) 20:22

↑の人。
変な日本語だから読んでいるうちにそこばっかり気になるんです。
翻訳ソフトかなんかですか?

投稿: 素人好き | 2008年8月 6日 (水) 16:28

>素人好きさん
どうも中国からの書き込みのようです。中国の方がソフトではなく自分で翻訳されたのでしょう。

投稿: とらひこ | 2008年8月 7日 (木) 06:41

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