按司の本名
按司(あじ)というと、琉球が統一される以前に各地のグスクに割拠していた首長(領主)として知られます。支配する領域の地名を冠して、たとえば「中城按司」とか「名護按司」とか呼ばれます。この按司、かつては沖縄島だけでもかなりの数がいたはずですが、一部の按司(たとえば護佐丸や阿麻和利など)をのぞいて、彼らの名前はまったく知られていません。
近世(江戸時代)になると、大城按司・真武とか南風原按司・盛忠などの名前が士族の元祖として各家の系図に登場します。しかしこれらの名前は当時の命名方法からは大きくはずれています(古琉球の時代は名乗り頭も持つ名前は存在せず、童名しかない)。彼らが当時、本当にその名で呼ばれていたかは確かではなく、後の時代に付けられた可能性が高いといえます。
では彼ら按司はいったいどういう名前だったのでしょうか。実は中国の記録に彼らの名前が残っています。これは琉球から中国に派遣されたため、その名が記されたというわけです。中国側では按司のことを「寨官(さいかん)」と表現しています。「寨」とは「とりで」を意味します。つまり「グスクの官」という意味で、按司のことと考えられています。
名前には、たとえばこんな例があります。
1392年に中国に派遣された寨官の子、実他盧尾(したるもい)。1413年に派遣された寨官の子、周魯毎(じるもい)・恰那晟其(ちゃなさち=茶湯崎?)。
難しい漢字で書かれていますが、これは琉球語の音を漢字で当てたものなので(こちら参照)、「実他盧尾」は「四太郎思い」、「周魯毎」は「次郎思い」と考えられます。「思い」とは接尾美称で、たとえば尚真王の別名「おぎやかもい」は「おぎやか+思い」、親雲上の古琉球での名称「大屋子もい」は「大屋子+思い」となります。
彼らは「寨官」の子とあって按司その人ではありませんが、後に帰国し成長した際には父の按司の座を継いだ者もいたはずです。
つまり、中国側に残されている按司の子の名前は、ちゃんと当時の琉球風の名前の付け方にのっとっていることがわかりますね。リアルタイムで記された史料で按司の名前が残されているのは1501年の玉陵(王墓)の碑文ですが、そこには按司がすでに王族の名称に転化しているものの「ごゑくのあんじ、まさぶろかね(越来の按司、真三郎金)」というふうに表現されていて、古琉球期の按司の呼び方をうかがわせます。「真三郎金」の「真」は接頭、「金」は接尾美称です。
というわけで、三山時代や按司が割拠していたグスク時代には、按司は「~の按司、○○○」と呼ばれていたと考えられます。先に紹介した大城按司真武は、童名が「思武太金(うみむたがね)」なので、「大城の按司、思武太金(うふぐすくのあんじ、うみむたがね)」と呼ばれていたはずです。
参考文献:『明実録』、沖縄県教育委員会文化課編『金石文』
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コメント
先日、石垣市立博物館にて「蔵元絵師画稿展」を見てきました。
そしたらなんと、「目からウロコ~」の単行本にある、「お酒を飲んで酔っ払って、奥さんにヒゲを引っ張られるおじさん」の絵と同じものが飾られているではありませんか。
元ネタはこれだったのかと、一人笑ってしまいました。
投稿: ホンガワラ | 2008年6月28日 (土) 01:45
>ホンガワラさん
実はあれが元ネタだったんです(笑)
当時ああいうことが実際行われていたのはビックリですよね。琉球の女性は強しです(笑)
投稿: とらひこ | 2008年6月29日 (日) 22:57