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2008年5月17日 (土)

琉球は薩摩の「奴隷」だったのか

近世(江戸時代)の琉球王国は薩摩藩の支配下におかれていました。薩摩の琉球支配でよく言われるのは次のような説でしょう。征服者の薩摩藩は琉球王府を形だけ残し、中国との貿易で得られた利益を徹底的に奪い取る一方、琉球を植民地化して人民を奴隷のように扱ったと。薩摩に支配された琉球の悲惨な状況は、明治の琉球処分によって解消されたと伊波普猷によって主張されています。彼の「琉球処分は奴隷解放なり」という言葉は有名です。はたしてこのような説は正しいものなのでしょうか。

実は、伊波が唱えた、薩摩支配下の琉球が「奴隷」状態だったという説は近年の研究では全く否定されています。

まず、琉球には薩摩藩の「植民地総督」はいたのでしょうか。琉球には「在番奉行」という薩摩役人が派遣されていましたが、スタッフの総数はたったの十数名しかいませんでした。彼らの滞在場所は那覇の港町にほぼ限定され、しかも薩摩藩スタッフは国王との接触を厳しく禁止されていました(政治的な癒着を防ぐため)。彼らの仕事は薩摩への年貢送付の監督やキリシタン禁制など限られたもので、王府の政治に関与する権限は全くありませんでした。つまり、琉球には薩摩藩の出張所程度の機関しかなく、琉球国内の政治は琉球王府が行っていたのです。

もちろん琉球は薩摩藩を無視して自由に動けたわけではありません。薩摩藩は支配に関わる重大事についてはしばしば介入してきましたが、最終的な政策の実行はあくまでも琉球王府の手にゆだねられていました。

それに琉球は薩摩藩の指示に対して「奴隷」のように従っていたわけではありません。例えば、18世紀に薩摩藩が年貢の増額を要求してきた際には、琉球側はねばり強く外交交渉を行い、ついに薩摩藩からの譲歩を引き出しています。この時に琉球が負担軽減の理由として持ち出してきたのが、「中国の清朝と日本の徳川幕府との外交で多額の資金を費やしたのにくわえ、災害などで国内の状況が悪化したから」というものでした。つまり、これ以上の負担は琉球の体制を危うくすると主張したのです。

近世の琉球は中国や日本との外交関係を維持することで成り立っていた国家でした。徳川幕府も琉球やアイヌを従属させることで日本版「小中華」をつくり、自らの権威を高めようとしていました。琉球との外交関係を維持するため、幕藩制国家のもとで琉球支配を担当していた薩摩藩にとっても、琉球の体制が存続できなくなるような重い負担はかけることはできなかったのです。琉球側は薩摩藩が反論しにくい理由をあらかじめ承知していて、この論理を持ち出すことで薩摩藩からの譲歩を引き出すことに成功したのです。ちなみにこの時の琉球の外交を主導していたのは、あの蔡温でした。

また、薩摩藩は琉球が中国貿易で得た利益を一方的に奪い取っていたのでしょうか。たしかに薩摩藩は琉球の中国貿易に深く関わっていました。しかし、薩摩藩は自ら資金を用意してきて、王府貿易に投資するかたちをとっていました。そして、驚くべきことに琉球の中国貿易は、実は大幅な赤字状態でした。王府は砂糖をヤマトに売って儲けた金で損失を補い、何とか貿易を続けていたのです。

赤字状態でも貿易を続けざるを得なかったのは、貿易が「朝貢」という、中国への従属関係を確認する儀礼とセットになっていたことと(貿易は本来、朝貢のおまけにすぎません)、王府が家臣たちにボーナスとして個人的に貿易を行う権利を与えなくてはならなかったからです。王府の貿易自体は赤字でも、家臣たちは各自で商売をして利益を得ることができました。

このように琉球は貿易をやめたくてもやめられない事情があったのです。逆に薩摩藩は自分たちの資金を調達するために商人から高利の借金をしていたので、効率の悪い貿易の縮小を望んでいました。

近世の琉球は、たび重なる薩摩藩の要求に対して、「論理」を武器に巧みな外交戦術で自らの国益を確保しようとはかっていました。薩摩藩は琉球を支配下に置いていたものの、その支配には限界があり、琉球を完全にコントロールすることは不可能だったのです。中国の朝貢国であった立場も、薩摩藩が介入できない余地を琉球に与えることになりました。小国の琉球は自らのポテンシャルを最大限に発揮して大国に立ち向かっていたのです。

参考文献:豊見山和行『琉球王国の外交と王権』、安良城盛昭『新沖縄史論』

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コメント

こんにちは、初めまして。こちらのプログ、楽しく拝見させて頂いています。

さて琉球は奴隷では無かったと言う事は、奄美のみが奴隷の如く扱われていたと解釈してよろしいでしょうか。

また琉球自体も、同時期に奄美から物資を徴収していたなんて衝撃でした。

とらひこさんの見解はどうですか。

関係ないですが、琉球銀行の初代総裁池畑嶺里(奄美大島出身、奄美復帰時にクビ)さんは、江戸時代に派遣された琉球役人の子孫だそうです。

投稿: あいだ | 2008年5月18日 (日) 22:23

>あいださん

近世奄美について「奴隷」状態と規定するのが適切かどうかは疑問ですが、沖縄よりは主体性を発揮できるような状況ではなかったことは確かでしょうね。

しかし、それでも後世の人々が過酷な支配だったとするのは幕末の藩政改革にともなう負担増加の際の「記憶」によるところが大きいと思います。時代的な変遷も視野に入れて奄美史全体の評価をすべきだと思います。

近世以後も奄美と沖縄は完全に分断されたのではなく、名目上は琉球領でしたし、また冊封時には貢物をもたらしたり、民間レベルでは交流もあったようですね。琉球側も機会あるごとに奄美での影響力を回復させようと図っていた形跡があります。今後奄美・沖縄の交流にもより注目した視点も必要でしょう。

琉球銀行総裁については知りませんでした。情報ありがとうございます。

投稿: とらひこ | 2008年5月22日 (木) 23:22

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