« 流された江戸っ子 | トップページ | 琉球は薩摩の「奴隷」だったのか »

2008年5月10日 (土)

古琉球に文書はあったか

さきに「那覇」の印などの検討から、古琉球時代には文書がさかんにやりとりされていた可能性があることを指摘しました。国王が発給していた辞令書以外に、琉球国内ではどのような文書があったのでしょうか。

そのヒントが『旧琉球藩評定所書類目録』という文書リストのなかにあります。この文書群は琉球王国の評定所(国政の最高機関)関係の書類で、王国が消滅した際に明治政府に接収されたものです。内務省に保管されていましたが、残念ながら関東大震災で大部分が焼けてしまいました。目録でのみ、どのような文書があったのかを確認することができます。そのなかに、

『間切々々の里主所のかりや高の御さうし』(1623年)

という文書があります。これは王国各地にある里主所(エリート層が保有する耕作地)の面積を記した土地台帳と考えられています。ここで注目されるのが年代。目録の文書中、最も古いもので、薩摩藩の征服(1609年)からさほど時間が経っていません。さらに「かりや高」や「御さうし」といった古琉球的な題名であること。「かりや」とは古琉球で使用されていた独自の面積単位です。

つまり、この文書は古琉球時代の様式を伝えるものであり、古琉球では行政文書が「御さうし(そうし。双紙)」と呼ばれていたことを示しているのです。それは古琉球時代に編集された歌謡集が『おもろさうし』であり、また後の時代になりますが、古琉球の伝統を色濃く残す神女(ノロ)・女官関係の文書が『女官御双紙』と命名されていることからも裏づけられます。

この土地台帳が古琉球にさかのぼるのは間違いありません。古琉球時代、奄美から先島までの王国全域の耕作地は、その所有者や面積まで首里の王府で完全に把握されていたことが辞令書の研究で明らかにされています。王国全域にわたる詳細な耕作地情報となると、ぼう大な量になります。中央の役人が全ての情報を頭の中に記憶していて、それをもとに土地所有の名義変更、細かい面積の調整などを指示していたとは到底考えられません。王府中央には土地台帳に限らず、様々な業務に対応する多数の文書がストックされていたとみたほうが自然です。

島津軍侵攻の際の記録には、戦災によって琉球の「各家々の日記、文書」が失われたとあります。また那覇港付近の発掘調査では、15~6世紀のものとみられる荷札の木簡が発見されていて、墨書で「いわし…文」「きび…」と書かれています。中央の役人だけでなく、民間にいたるまで文字を使用していたことがわかります。

古琉球時代の国内文書は「現在残っていないから、当時も存在しない」ということでは決してないわけです。ましてや「琉球はアイヌと同じで文字を持たない社会だった」なんて考えは、とんでもない勘違いです。以上にあげたような事実から、古琉球は日常的に文字によって情報を伝達していた社会であったと考えてもいいでしょう。

参考文献:『旧琉球藩評定所書類目録』、大石直正・高良倉吉・高橋公明『日本の歴史14 周縁から見た中世日本』、『沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書44 渡地村跡』

↓ランキング投票よろしくお願いします(緑のボタンをクリック)

banner

|

« 流された江戸っ子 | トップページ | 琉球は薩摩の「奴隷」だったのか »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 流された江戸っ子 | トップページ | 琉球は薩摩の「奴隷」だったのか »