« 琉球歴史イラスト(8) | トップページ | 古琉球に文書はあったか »

2008年5月 1日 (木)

流された江戸っ子

江戸時代には罪を犯した人たちに対して「遠島」という罰がありました。遠い辺境の島へ追放してしまう刑罰、いわゆる「島流し」です。琉球も多くの島々で成り立っていた国なので、流刑は一般的な罰でした(コラム「ニート君は島流し」を参照)。

あまり知られていない事実ですが、琉球は江戸時代の日本にとっての流刑地にもなっていました。琉球は1609年に薩摩藩に征服されて以降、日本の幕藩制国家のなかに組み込まれます。そこで琉球は隠岐や八丈島、長崎五島などとともに、最南端の流刑地となっていたのです。

たとえば琉球を征服した薩摩軍の副将・平田増宗の息子は藩内の勢力争いに敗れ、罪を着せられ勝連間切(現在のうるま市)に流されています(1634年に処刑)。また1678年、江戸京橋の大工、五兵衛の甥の長太郎が罪を犯して琉球の越来間切の石川村(現在のうるま市石川)へ流刑となり、江戸湯島の吉左衛門も羽地間切(現在の名護市)の源河村へ預け置かれています。彼らは二人とも江戸へ帰ることなく、琉球で一生を終えています。

このように、罪を犯した江戸っ子たちが琉球へも流されていたのです。1706年の人口調査では、琉球の総人口15万5000人あまりのうち、日本からの流人が5名(男性のみ)いたという記録があります。総人口からするとほんのわずかな人数ですが、たしかに彼らは琉球に来ていたのです。流人は逃亡して現地にまぎれこまないよう、額に入れ墨をしていました。なので琉球の人々は、ひと目見ただけで彼らがヤマト(日本本土)からの流人だということがわかったはずです。

入れ墨は江戸時代、一般的に行われた刑で窃盗犯などに適用されたようですが、この場合は島流しの付加刑としてなされたようです。入れ墨刑は各藩によって異なっていて、例えば「悪」の文字や十文字、1度罪を犯すごとに「犬」の字を一画ずつ額に加えていく例などがあります。入れ墨はまた前科者の証明ともなっていました。

彼ら江戸っ子が琉球でどのような暮らしをしていたのか、あずけられた琉球の村の人々とどのような交流があったのかは不明です。数が少なすぎたので、琉球全体の「記憶」としては残らなかったのかもしれません。しかし、せっかちと言われる江戸っ子が、南の島のノンビリ適当(てーげー)な琉球の人々とドタバタ劇を演じていたかもしれないと想像すると、ちょっと面白いですよね。

参考文献:真栄平房昭「近世日本の境界領域」(菊池勇夫・真栄平房昭編『近世地域史フォーラム1 列島の南と北』)

↓ランキング投票よろしくお願いします(緑のボタンをクリック)

banner

|

« 琉球歴史イラスト(8) | トップページ | 古琉球に文書はあったか »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 琉球歴史イラスト(8) | トップページ | 古琉球に文書はあったか »