喜界島の不思議な墓
奄美諸島の喜界島で、大宰府との関連が指摘される「城久(ぐすく)遺跡群」が発見されたことは前に紹介しましたが(こちら参照)、今も調査は継続中で、さまざまな新事実が明らかになってきているようです。今回はそのなかのお墓について紹介したいと思います。
城久遺跡群は喜界島中央の段丘上に立地している8つの遺跡の総称で、全体で13万平方メートルという広大な面積をもっています(ちなみに首里城の面積は4万7000平方メートル)。9世紀から14世紀頃まで使われたようで、100棟以上の建物跡や本土産の土器、中国陶磁器などの外来のモノが多数見つかっています。南西諸島では類を見ない大規模な遺跡です。
遺跡からは11~12世紀頃のものとみられる火葬や土葬された墓がたくさん発見されたことも注目を集めています。これらの墓で特徴的なのは、通常のやり方とはことなる不思議な葬られ方をしていること。土葬した墓を一度掘り返して、白骨化した遺体をさらに火葬してから木製容器などに入れ、土に埋め戻しているのです。このような埋葬方法は中世の日本ではまず見当たらず、本土の影響を受けた墓とは考えにくいようです。また副葬品として徳之島産の硬質土器(カムィヤキ)の壷などが置かれる場合があります。
沖縄で一般的な葬り方といえば、遺体を一定期間放置して白骨化させ、それを洗骨して葬る「風葬」です。城久遺跡群の葬り方も、一度白骨化させるという点では風葬と共通していますが、風化させるために土に埋めることと、骨だけを焼いて再び土葬するのは全くちがったやり方です。しかし、例えば奄美大島の宇宿貝塚で出土した骨(10世紀頃)にみられるように、九州から南西諸島にかけて若干の事例は確認できるので、まったくの未知の方法というわけではないようです。これらの埋葬の例と城久遺跡群との関連ははっきりわかりません。
実は沖縄でも、浦添ようどれの石棺内から風葬の骨とともに火葬された骨が見つかっていて、仏教文化の影響も指摘されていますが、もしかしたら喜界島の墓のように、白骨化した後に火葬にしてから安置した可能性もあります。いずれにせよ、これらの埋葬法は後世に広がることなく、一時的なもので終ったようです。とくにヤマトとの関連で注目される喜界島の城久遺跡群ですが、それだけではない要素も持っていることを、この事例は示しているように思います。
参考文献:澄田直敏・野崎拓司「喜界島城久遺跡群」、狭川真一「城久遺跡群の中世墓」(池田榮史編『古代中世の境界領域―キガイガシマの世界』)
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