« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

2008年5月26日 (月)

喜界島の不思議な墓

奄美諸島の喜界島で、大宰府との関連が指摘される「城久(ぐすく)遺跡群」が発見されたことは前に紹介しましたが(こちら参照)、今も調査は継続中で、さまざまな新事実が明らかになってきているようです。今回はそのなかのお墓について紹介したいと思います。

城久遺跡群は喜界島中央の段丘上に立地している8つの遺跡の総称で、全体で13万平方メートルという広大な面積をもっています(ちなみに首里城の面積は4万7000平方メートル)。9世紀から14世紀頃まで使われたようで、100棟以上の建物跡や本土産の土器、中国陶磁器などの外来のモノが多数見つかっています。南西諸島では類を見ない大規模な遺跡です。

遺跡からは11~12世紀頃のものとみられる火葬や土葬された墓がたくさん発見されたことも注目を集めています。これらの墓で特徴的なのは、通常のやり方とはことなる不思議な葬られ方をしていること。土葬した墓を一度掘り返して、白骨化した遺体をさらに火葬してから木製容器などに入れ、土に埋め戻しているのです。このような埋葬方法は中世の日本ではまず見当たらず、本土の影響を受けた墓とは考えにくいようです。また副葬品として徳之島産の硬質土器(カムィヤキ)の壷などが置かれる場合があります。

沖縄で一般的な葬り方といえば、遺体を一定期間放置して白骨化させ、それを洗骨して葬る「風葬」です。城久遺跡群の葬り方も、一度白骨化させるという点では風葬と共通していますが、風化させるために土に埋めることと、骨だけを焼いて再び土葬するのは全くちがったやり方です。しかし、例えば奄美大島の宇宿貝塚で出土した骨(10世紀頃)にみられるように、九州から南西諸島にかけて若干の事例は確認できるので、まったくの未知の方法というわけではないようです。これらの埋葬の例と城久遺跡群との関連ははっきりわかりません。

実は沖縄でも、浦添ようどれの石棺内から風葬の骨とともに火葬された骨が見つかっていて、仏教文化の影響も指摘されていますが、もしかしたら喜界島の墓のように、白骨化した後に火葬にしてから安置した可能性もあります。いずれにせよ、これらの埋葬法は後世に広がることなく、一時的なもので終ったようです。とくにヤマトとの関連で注目される喜界島の城久遺跡群ですが、それだけではない要素も持っていることを、この事例は示しているように思います。

参考文献:澄田直敏・野崎拓司「喜界島城久遺跡群」、狭川真一「城久遺跡群の中世墓」(池田榮史編『古代中世の境界領域―キガイガシマの世界』)

↓ランキング投票よろしくお願いします(緑のボタンをクリック)

banner

| | コメント (10)

2008年5月17日 (土)

琉球は薩摩の「奴隷」だったのか

近世(江戸時代)の琉球王国は薩摩藩の支配下におかれていました。薩摩の琉球支配でよく言われるのは次のような説でしょう。征服者の薩摩藩は琉球王府を形だけ残し、中国との貿易で得られた利益を徹底的に奪い取る一方、琉球を植民地化して人民を奴隷のように扱ったと。薩摩に支配された琉球の悲惨な状況は、明治の琉球処分によって解消されたと伊波普猷によって主張されています。彼の「琉球処分は奴隷解放なり」という言葉は有名です。はたしてこのような説は正しいものなのでしょうか。

実は、伊波が唱えた、薩摩支配下の琉球が「奴隷」状態だったという説は近年の研究では全く否定されています。

まず、琉球には薩摩藩の「植民地総督」はいたのでしょうか。琉球には「在番奉行」という薩摩役人が派遣されていましたが、スタッフの総数はたったの十数名しかいませんでした。彼らの滞在場所は那覇の港町にほぼ限定され、しかも薩摩藩スタッフは国王との接触を厳しく禁止されていました(政治的な癒着を防ぐため)。彼らの仕事は薩摩への年貢送付の監督やキリシタン禁制など限られたもので、王府の政治に関与する権限は全くありませんでした。つまり、琉球には薩摩藩の出張所程度の機関しかなく、琉球国内の政治は琉球王府が行っていたのです。

もちろん琉球は薩摩藩を無視して自由に動けたわけではありません。薩摩藩は支配に関わる重大事についてはしばしば介入してきましたが、最終的な政策の実行はあくまでも琉球王府の手にゆだねられていました。

それに琉球は薩摩藩の指示に対して「奴隷」のように従っていたわけではありません。例えば、18世紀に薩摩藩が年貢の増額を要求してきた際には、琉球側はねばり強く外交交渉を行い、ついに薩摩藩からの譲歩を引き出しています。この時に琉球が負担軽減の理由として持ち出してきたのが、「中国の清朝と日本の徳川幕府との外交で多額の資金を費やしたのにくわえ、災害などで国内の状況が悪化したから」というものでした。つまり、これ以上の負担は琉球の体制を危うくすると主張したのです。

近世の琉球は中国や日本との外交関係を維持することで成り立っていた国家でした。徳川幕府も琉球やアイヌを従属させることで日本版「小中華」をつくり、自らの権威を高めようとしていました。琉球との外交関係を維持するため、幕藩制国家のもとで琉球支配を担当していた薩摩藩にとっても、琉球の体制が存続できなくなるような重い負担はかけることはできなかったのです。琉球側は薩摩藩が反論しにくい理由をあらかじめ承知していて、この論理を持ち出すことで薩摩藩からの譲歩を引き出すことに成功したのです。ちなみにこの時の琉球の外交を主導していたのは、あの蔡温でした。

また、薩摩藩は琉球が中国貿易で得た利益を一方的に奪い取っていたのでしょうか。たしかに薩摩藩は琉球の中国貿易に深く関わっていました。しかし、薩摩藩は自ら資金を用意してきて、王府貿易に投資するかたちをとっていました。そして、驚くべきことに琉球の中国貿易は、実は大幅な赤字状態でした。王府は砂糖をヤマトに売って儲けた金で損失を補い、何とか貿易を続けていたのです。

赤字状態でも貿易を続けざるを得なかったのは、貿易が「朝貢」という、中国への従属関係を確認する儀礼とセットになっていたことと(貿易は本来、朝貢のおまけにすぎません)、王府が家臣たちにボーナスとして個人的に貿易を行う権利を与えなくてはならなかったからです。王府の貿易自体は赤字でも、家臣たちは各自で商売をして利益を得ることができました。

このように琉球は貿易をやめたくてもやめられない事情があったのです。逆に薩摩藩は自分たちの資金を調達するために商人から高利の借金をしていたので、効率の悪い貿易の縮小を望んでいました。

近世の琉球は、たび重なる薩摩藩の要求に対して、「論理」を武器に巧みな外交戦術で自らの国益を確保しようとはかっていました。薩摩藩は琉球を支配下に置いていたものの、その支配には限界があり、琉球を完全にコントロールすることは不可能だったのです。中国の朝貢国であった立場も、薩摩藩が介入できない余地を琉球に与えることになりました。小国の琉球は自らのポテンシャルを最大限に発揮して大国に立ち向かっていたのです。

参考文献:豊見山和行『琉球王国の外交と王権』、安良城盛昭『新沖縄史論』

↓ランキング投票よろしくお願いします(緑のボタンをクリック)

banner

| | コメント (2)

2008年5月10日 (土)

古琉球に文書はあったか

さきに「那覇」の印などの検討から、古琉球時代には文書がさかんにやりとりされていた可能性があることを指摘しました。国王が発給していた辞令書以外に、琉球国内ではどのような文書があったのでしょうか。

そのヒントが『旧琉球藩評定所書類目録』という文書リストのなかにあります。この文書群は琉球王国の評定所(国政の最高機関)関係の書類で、王国が消滅した際に明治政府に接収されたものです。内務省に保管されていましたが、残念ながら関東大震災で大部分が焼けてしまいました。目録でのみ、どのような文書があったのかを確認することができます。そのなかに、

『間切々々の里主所のかりや高の御さうし』(1623年)

という文書があります。これは王国各地にある里主所(エリート層が保有する耕作地)の面積を記した土地台帳と考えられています。ここで注目されるのが年代。目録の文書中、最も古いもので、薩摩藩の征服(1609年)からさほど時間が経っていません。さらに「かりや高」や「御さうし」といった古琉球的な題名であること。「かりや」とは古琉球で使用されていた独自の面積単位です。

つまり、この文書は古琉球時代の様式を伝えるものであり、古琉球では行政文書が「御さうし(そうし。双紙)」と呼ばれていたことを示しているのです。それは古琉球時代に編集された歌謡集が『おもろさうし』であり、また後の時代になりますが、古琉球の伝統を色濃く残す神女(ノロ)・女官関係の文書が『女官御双紙』と命名されていることからも裏づけられます。

この土地台帳が古琉球にさかのぼるのは間違いありません。古琉球時代、奄美から先島までの王国全域の耕作地は、その所有者や面積まで首里の王府で完全に把握されていたことが辞令書の研究で明らかにされています。王国全域にわたる詳細な耕作地情報となると、ぼう大な量になります。中央の役人が全ての情報を頭の中に記憶していて、それをもとに土地所有の名義変更、細かい面積の調整などを指示していたとは到底考えられません。王府中央には土地台帳に限らず、様々な業務に対応する多数の文書がストックされていたとみたほうが自然です。

島津軍侵攻の際の記録には、戦災によって琉球の「各家々の日記、文書」が失われたとあります。また那覇港付近の発掘調査では、15~6世紀のものとみられる荷札の木簡が発見されていて、墨書で「いわし…文」「きび…」と書かれています。中央の役人だけでなく、民間にいたるまで文字を使用していたことがわかります。

古琉球時代の国内文書は「現在残っていないから、当時も存在しない」ということでは決してないわけです。ましてや「琉球はアイヌと同じで文字を持たない社会だった」なんて考えは、とんでもない勘違いです。以上にあげたような事実から、古琉球は日常的に文字によって情報を伝達していた社会であったと考えてもいいでしょう。

参考文献:『旧琉球藩評定所書類目録』、大石直正・高良倉吉・高橋公明『日本の歴史14 周縁から見た中世日本』、『沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書44 渡地村跡』

↓ランキング投票よろしくお願いします(緑のボタンをクリック)

banner

| | コメント (0)

2008年5月 1日 (木)

流された江戸っ子

江戸時代には罪を犯した人たちに対して「遠島」という罰がありました。遠い辺境の島へ追放してしまう刑罰、いわゆる「島流し」です。琉球も多くの島々で成り立っていた国なので、流刑は一般的な罰でした(コラム「ニート君は島流し」を参照)。

あまり知られていない事実ですが、琉球は江戸時代の日本にとっての流刑地にもなっていました。琉球は1609年に薩摩藩に征服されて以降、日本の幕藩制国家のなかに組み込まれます。そこで琉球は隠岐や八丈島、長崎五島などとともに、最南端の流刑地となっていたのです。

たとえば琉球を征服した薩摩軍の副将・平田増宗の息子は藩内の勢力争いに敗れ、罪を着せられ勝連間切(現在のうるま市)に流されています(1634年に処刑)。また1678年、江戸京橋の大工、五兵衛の甥の長太郎が罪を犯して琉球の越来間切の石川村(現在のうるま市石川)へ流刑となり、江戸湯島の吉左衛門も羽地間切(現在の名護市)の源河村へ預け置かれています。彼らは二人とも江戸へ帰ることなく、琉球で一生を終えています。

このように、罪を犯した江戸っ子たちが琉球へも流されていたのです。1706年の人口調査では、琉球の総人口15万5000人あまりのうち、日本からの流人が5名(男性のみ)いたという記録があります。総人口からするとほんのわずかな人数ですが、たしかに彼らは琉球に来ていたのです。流人は逃亡して現地にまぎれこまないよう、額に入れ墨をしていました。なので琉球の人々は、ひと目見ただけで彼らがヤマト(日本本土)からの流人だということがわかったはずです。

入れ墨は江戸時代、一般的に行われた刑で窃盗犯などに適用されたようですが、この場合は島流しの付加刑としてなされたようです。入れ墨刑は各藩によって異なっていて、例えば「悪」の文字や十文字、1度罪を犯すごとに「犬」の字を一画ずつ額に加えていく例などがあります。入れ墨はまた前科者の証明ともなっていました。

彼ら江戸っ子が琉球でどのような暮らしをしていたのか、あずけられた琉球の村の人々とどのような交流があったのかは不明です。数が少なすぎたので、琉球全体の「記憶」としては残らなかったのかもしれません。しかし、せっかちと言われる江戸っ子が、南の島のノンビリ適当(てーげー)な琉球の人々とドタバタ劇を演じていたかもしれないと想像すると、ちょっと面白いですよね。

参考文献:真栄平房昭「近世日本の境界領域」(菊池勇夫・真栄平房昭編『近世地域史フォーラム1 列島の南と北』)

↓ランキング投票よろしくお願いします(緑のボタンをクリック)

banner

| | コメント (0)

« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »