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2008年4月 9日 (水)

琉球歴史イラスト(7)

首里城正殿で出土した鎖付きの兜(復元図)

Photo_2

(クリックで画像が拡大します)

【解説】首里城正殿の発掘調査からは珍しい兜が見つかっています。この兜は頭部の後ろと側面を守るため、鎖じころ(八重鎖)を兜鉢に付けたものです。兜の形式は室町時代の日本で流行した筋兜なので、古琉球の時代に使われたものでしょう。中世の鎖じころの付いた兜は日本本土では絵図で存在が知られていても実物が残ってないため、大変貴重な事例です。

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コメント

兜というと戦国時代の兜のような 家紋が付いていたり、「鹿の角」みたいのが付いた派手なデザインの兜を連想するのですが、それとはまた違ったイメージですね

投稿: IK | 2008年4月 9日 (水) 23:20

第一尚王朝の祖と目される名和氏を想起させずにおかない遺物だと思います。徳之島に本拠を置き、鉄の流通を差配した佐多氏との関係や、鉄の輸入に困窮し、独自の鎧兜を持ち得なかった琉球の国防態勢のことなど、あれこれ考えてしまいます。

文物の伝播について、縄文の魚保存技術が西行して、北欧に現存する、という説を思い出しました。土中保存で魚を自然発酵させる技術は、国内では鮒寿司・なれ寿司となり、今の北欧に、強烈なにおいを発するニシンの缶詰あり、と。
三内丸山遺跡の住民は周囲に四散した形跡無し、大陸に渡りフン族となり、マジャールとなって西行したのだ、という論旨だったと思います。

方言の壁がありながら、糸満と五島列島と薩摩半島の人たち同士は、会話に支障が無い事など、遺伝子・言語・技術・道具などの伝播を思わせ、ドキドキしてしまいます。

投稿: 前立腺隊じっちゃマン | 2008年4月10日 (木) 08:58

>IK さん
琉球では戦国時代で使用されていた派手な当世具足は見つかっていません。室町時代の形式の武具をずっと使い続けていたようですよ。

>前立腺隊じっちゃマン さん
谷川氏の説は僕は少々疑問を持ってますが、14世紀中頃から肥後の高瀬から南九州、南西諸島を経由して中国へ向かうルートが活発化したことが最近の研究で明らかにされています。

古琉球期を通じて南西諸島は日本本土との広範な交流がありましたから、それによってその型がもたらされたものでしょうね。ただし全てが輸入物ではなく、琉球では日本様式の鎧を現地生産しています。

投稿: とらひこ | 2008年4月10日 (木) 20:05

うーん、なんだかデザインが中国っぽい雰囲気ですね・・・
鎧そのものの、なんて言うか科学的な分析で
その年代が割り出せないものでしょうか?
そこが気になるんですが。

投稿: MU@沖縄 | 2008年4月11日 (金) 10:36

>MU@沖縄さん
こういう兜は日本にもあったようです。絵図なんかには出てきますよ。

出土物の年代測定はたしか放射線の測定でできます。

放射性炭素年代測定
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E5%B0%84%E6%80%A7%E7%82%AD%E7%B4%A0%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E6%B8%AC%E5%AE%9A

ただしこれは生物についてで、金属だと難しいのではないでしょうか。

それよりも出土した地層から年代を推定する方法が一般的のようです。首里城正殿の調査でもだいたいの年代がわかっているようですが、出土した兜については詳しく書かれていないので今のところわかりません。ただ古琉球期であることは間違いないでしょう。

おかしなことに首里城正殿は20年前に調査されたにもかかわらず報告書はまだ出てないのです。

投稿: とらひこ | 2008年4月12日 (土) 11:45

どっかで見た覚えがあるな、と思ったら、やっと想い出しましたので、
再び書き込みいたします。

見た覚えーーーそれは、はにわ!です。
大君(天皇)のお墓の上に配置したという、粘土製の置き物。
そう、埴輪です。

「兵士」の被り物に似てました。
と言う事は、その時代に既に中国から伝わってると言うことですね。
奥が深い・・・

投稿: MU@沖縄 | 2008年4月26日 (土) 13:17

>MU@沖縄 さん
古墳時代のハニワが着ている甲冑は、ユーラシア大陸の騎馬民族が着用していた挂甲(けいこう)にその源流があるようですね。

ただしイラストの鎖カタビラは八重鎖という形式で、室町時代の後半頃に使われた形式なので、古墳時代のものとは直接関係はなさそうに思います。

投稿: とらひこ | 2008年4月26日 (土) 14:02

とらひこ様 はじめまして 
いつも 楽しく拝見しています。

 少し質問なのですが・・・
首里城正殿で出土した兜ですが、薩摩侵攻以前の兜といえるのでしょうか?
戦や時代によって 兜の様式も変わっていくものだと
思うのですが、 薩摩侵攻前と後では、様式も変わっていくと思うのですが、 薩摩侵攻後の兜は、発見されているのでしょうか?

私見ですが、中国式 スケールアーマーは、蒸し暑くて
沖縄の気候では、 向かなかったと思います。


投稿: SUU | 2008年8月26日 (火) 15:50

>SUUさん
はじめまして。コメントありがとうございます。

正殿で発掘した兜は出土地点などから侵攻以前のものと考えてほぼ間違えないと思います。

侵攻後の兜については、江戸時代の中後期に中国へ朝貢した際に贈った武具一式が北京に残されていますが、たしか当世具足で江戸時代の日本から輸入したものだと思います。

ただし薩摩支配下の琉球では、武具は貿易船の海賊対策として使用されただけで、現物は沖縄で確認されていません。

不思議なことに中国式鎧は、触れる機会があったにもかかわらず琉球でまったく採用されていないんですよね。琉球の人びとが気候などをはじめとしたさまざまな条件を考慮して日本様式のものを選択したのだと思います。

投稿: とらひこ | 2008年8月27日 (水) 19:09

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