2008年4月25日 (金)
2008年4月16日 (水)
那覇の印もあるでよ
琉球王国で有名な印鑑といえば、まずあげられるのが「首里之印」。古琉球の時代から使われている伝統ある印鑑です。首里は国王が住み、琉球王府のある都。国王が「首里天加那志(すいてん・がなし)」、国王の命令が「首里のおみこと(お詔)」と呼ばれているように、首里は国王と同義語でした。つまり「首里之印」は国王や最高機関である王府の印なのです。この印鑑は国内の文書(辞令書や歌謡集『おもろさうし』)のほか、日本向けの外交文書にも押されました。
「首里之印」は非常に有名なのですが、かつては「那覇」の印鑑もあったのをご存じでしょうか。この印鑑【画像】は篆書体(てんしょたい)で「那覇」と刻まれています。使われた時期は古琉球期、第二尚氏王朝の時代。那覇主部中(ぬしべちゅう)から薩摩の家老に宛てた文書に押されています。印が押されているのはこの1通だけで、そのためあまり知られていないのでしょう。那覇主部中とは、那覇の行政を担当する責任者の総称と考えられます(主はリーダー、部はグループを意味)。
実はこの印のほかに古琉球期には「三司官印」もあって、これも三司官(大臣)が出した薩摩向けの外交文書に押されています。「首里之印」が国内・国外両方の文書に使われた例から考えて、「那覇」の印と「三司官印」が押された国内向けの文書も、古琉球時代に存在した可能性がかなり高いといえます。現存する文書で三司官印は2通、那覇の印は1通だけ。この3通のためだけにわざわざ印鑑を作るはずがありません。印鑑を作った背景には、その印を押すための文書群の存在があったとしか考えられません。
古琉球期の国内向け文書は国王の発給した辞令書しか残っていませんが、辞令書は規格化されていて、また書風・筆跡もそれぞれの筆者の個性があまり見られません。つまり字が得意な人がたまたまいて各自好きなように書いたのではなく、文字を書く官僚養成機関のようなものがあり、そこで決まった書式のトレーニングを受けた人たちがシステマティックに書いていたのです。
古琉球には「てこぐ(文子)」と呼ばれる書記官の職もあったので、国内において文字社会が相当程度、発達していたようです。国王の辞令書だけではなく、当時は現場レベルでの行政文書がたくさんあって、三司官や那覇の印もそれらに使われていたのではないでしょうか。
実は現存する国王の辞令書も、当時存在していた全体の1パーセントにも満たないとみられています。かつての古琉球社会には、さらに辞令書の総数を上回るぼう大な数の文書があって、それらがやり取りされていたようです。
参考文献:徳永和喜「島津氏の印判に関する研究」(『黎明館調査研究報告』4集)、「(池宮正治・小峯和明)対談・琉球文学の内と外―東アジアの視界」(『国文学・解釈と鑑賞』10号)、大石直正・高良倉吉・高橋公明『日本の歴史14 周縁から見た中世日本』
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2008年4月 9日 (水)
2008年4月 2日 (水)
岩波からデタ!
先月、岩波書店から桃木至朗編『海域アジア史研究入門』がついに出版されました!
これまでの歴史といえば国家・王朝の歴史。世界史も国家単位の関係史としての叙述が中心です。本書の特徴は、陸上国家の視点で区切られた「東アジア」とは違った「海域アジア」という新たな地域概念を設定して、各地域における最新の歴史研究が紹介されていること。
海域史って?それは「航海、貿易、海賊、海上民といった海の世界そのものの歴史だけでなく、海をはさんだ陸同士の交流や闘争、海上と陸上の相互作用などを含」む歴史です(『海域アジア史研究入門』)。
近年、この研究は大きく進展していて、本書はその成果を歴史研究者や歴史教育にたずさわる人々に提供しようという、画期的な試みなのです。
14~17世紀の琉球の部分はワタクシ「とらひこ」が執筆いたしました。実は2年前に原稿を提出したのですでに「最新」ではないわけですが(汗)、琉球史の各研究を整理しながら従来にはない「海からみた古琉球史」の全体像を描けたと思います。
琉球の歴史は単に「郷土史」や「国家史」の枠にとどまらない、大きな可能性を秘めています。その一端を知りたい皆さま、是非ご一読ください!
ちょっとだけ読みたい方は【こちら】からどうぞ(pdfファイルです)
本の目次・執筆陣については【こちら】をご参照ください。
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