塩をくれ!
沖縄の塩といえば「シマ・マース(島の塩)」。沖縄の豊かな海からつくられたミネラル分を多く含む天然の塩は健康食品ブームに乗り、今や県産の人気商品となっています。海が近くにある沖縄では、太古からさかんに塩をつくっていたと思うでしょう。しかし事実はそうではありません。王国時代、沖縄では塩をつくれず、しかも海外から塩を輸入していたとしたら?そんな話信じられない!!と思う方もいるかもしれませんが、いったいどういうことなのか説明しましょう。
近世(江戸時代)、琉球が海外から塩を輸入していたのは事実です。塩の製造は全く存在しなかったわけではありませんが、本格的な製塩は1694年、那覇の泊付近にある広大な干潟(潟原。かたばる)で、那覇泉崎に住む宮城という百姓が薩摩藩(鹿児島)の弓削(ゆげ)次郎右衛門という人物から製塩法を学び、生産を開始してからです。百姓はこの功績で「塩浜」という名と士族の身分を与えられました。現在も沖縄にいる塩浜という姓は、「浜で塩をつくる人」という意味だったんですね。
このように那覇を中心に塩の大量生産が開始されたのですが、琉球の全ての地域がそうだったわけではなく、八重山では製塩を全く行っていませんでした。ではどうやって塩を入手していたかというと、八重山にやってくる薩摩商人から塩を買っていたのです(!)。琉球が薩摩の支配下に入ってから薩摩・琉球間の流通は薩摩商人が独占していました。彼らは藩から許可を得て琉球各地の島へ渡り、また琉球が薩摩藩に納める税(年貢)の運送請負もやっていたのです。
薩摩商人は様々な商品とともに八重山へ塩を持って行き、高値で売りつけていました。塩は人間が生きていくうえで必要不可欠なものです。八重山の人はボッタくられても買わざるをえませんでした。塩は現地の米と交換されましたが、そうすると王府へ納める米が少なくなってしまいます。そこで王府は八重山での塩の生産に乗り出します。
王府は八重山の農民を集め、海水を炊(た)いて塩をつくろうとしますが、農作業が忙しい時には人手が足りなくなり、うまくいきません。さらに各地の村々からは製塩の反対願いが出されます。新たな労働徴発で負担が増したことにくわえ、塩を炊くために樹木を伐採しなければならず、不満が出たのです。また八重山では塩を炊くと災いが起きるという伝承があったらしく、みな製塩をやりたがらなかったようです。
困った王府、今度は燃料を使わない天日干しの製塩法を八重山で実行しますが、これまた雨が降るとそれまでの作業が全て水の泡になってしまうため採算がとれず、中止されてしまいます。雨がよく降る気候では、この製法は向かなかったようです。結局、各村のナベを使い塩を炊く方法でホソボソと製塩が続けられたようですが、島内の需要をまかなうまでにはならず、王府によって再三の増産指示が出されています。
つまり、王国時代の八重山では鹿児島産の塩が使われていたわけですね。何ともおかしな話ですが、今でこそ簡単に手に入る塩、昔は生産に大変な手間がかかり、貴重品だったということがわかります。
※【画像】は那覇市の渡地村跡で発見された製塩所の跡とみられる遺構。
参考文献:仲地哲夫「近世における琉球・薩摩間の商品流通」(『九州文化史研究所紀要』36号)
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