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2008年2月21日 (木)

酔って轟沈、騒いで大酒

ウチナーンチュ(沖縄人)はとにかく酒に強いと言われます。実際、体質的にアルコール分解が早い人が多いようです。沖縄では何かにつけて飲み会が開かれるなど、お酒は身近な存在。飲酒運転の検挙者数も18年連続ワーストワンという不名誉な記録まであるほどです。

お酒と沖縄は切っても切れない関係なのですが、今回はお酒にまつわる歴史の話を紹介しましょう。琉球人の飲酒についての最も古い記録はいつ頃でしょうか。それは何と1422年。古琉球時代(日本では室町時代)の尚巴志が即位した年に当たります。記録は京都東寺(教王護国寺)の「東寺百合(ひゃくごう)文書」のなかに残されています。

1422年の9月26日、琉球人の使節が上京し、東寺の鎮守八幡宮にある宮仕(みやじ。下級の社僧)の部屋を借ります。そこで琉球人たちは何と宴会を始めてしまうのです。ところが宴会が終わった後、琉球人の一人が病気になってしまいます。占いを行ったところ「神さまのおとがめじゃ!」と出たので、そこで東寺は病気回復の祈願をするため、宮仕の五郎三郎(ごろうさぶろう)という人物に1貫300文(だいたい10万円前後)のお金を渡し、鎮守八幡宮で神楽(かぐら)を舞わせるように命じたのです。

琉球人たちは慣れない気候の土地でドンチャン騒ぎの宴会をして体調をくずしてしまったのでしょうか。神聖な神社のなかで大騒ぎしたとなれば、神様のタタリと思われてもしかたがありませんね。ところがお金を渡された五郎三郎、神楽代に300文だけを払い、残りの1貫はフトコロに入れてしまいます。要するに着服です。結局この行為はバレて、さらに部外者に部屋を貸したことが違法だったために五郎三郎はクビになってしまうのです。

もうひとつは1575年(天正3年)、薩摩(鹿児島県)の戦国大名・島津氏のもとを訪れた琉球の使節団。この時の外交交渉は島津氏が琉球へ圧力を加え、様々な条件を強要する厳しいものだったのですが、琉球使節は宿舎でやっぱり酒宴を開いています。島津側は琉球人の飲みっぷりを「ことのほか大酒」と評しています。宴会は「じゃひせん(蛇皮線。三線)」を弾き、琉球の楽童子(小姓)による歌や太鼓もある大変にぎやかなものとなりました。最後はカチャーシーだったかどうかは定かではありませんが(笑)、緊張した外交関係のなかでも琉球人は三線と酒は忘れなかったようです。琉球は交渉で負けても酒飲み勝負は圧勝だったということでしょうか。まるで現代のウチナーンチュを見るようで、彼らの姿がありありと想像できますね。

参考文献:佐伯弘次「室町前期の日琉関係と外交文書」(『九州史学』111号)、『上井覚兼日記』

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コメント

古琉球期における飲酒の記録というのがあること自体すごいですね。
ヤマトと沖縄では、お酒の飲み方に違いがあるとはよく聞きますが、ここであげられている2つの事例からも、こうした違いというのは、他にもうかがえるものでしょうか。
いずれにしても、ヤマト側そして沖縄側にとっても、ある意味でカルチャーショックだったかもしれませんね。

投稿: まようべき人 | 2008年2月22日 (金) 20:49

>まようべき人さん
史料からは具体的な飲み方の違いまではうかがうことはできませんね。

薩摩には島津家久が旅行した際の日記が残っていて、旅の先々で結構宴会続きなんですが、そういう酒豪たちが琉球人たちを見て大酒飲みと評しているんですから、相当なものだったようですね。

投稿: とらひこ | 2008年2月25日 (月) 00:52

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