首里城の雲板
以前、コラムの「首里城のモデルはお寺?」で紹介しましたように、首里城の建築には寺院の強い影響がみられます。有名な「万国津梁の鐘」(1458年造)も、もともとは寺ではなく首里城の正殿に掛けられていた梵鐘です。古琉球にはグスクと寺院を一体のものとしてみる何らかの観念があったようです。
「万国津梁の鐘」と並んでグスクの寺院関係物として知られているのが「大里城の雲板」です(1458年造)。雲板(うんばん)とは禅宗寺院で使われるドラの一種で、お坊さんの寝起き・食事の合図として鳴らされるものです。大里グスクは第一尚氏の王の別宮として使われていて、尚泰久王はこのグスクの建物に禅宗寺院のドラを付けたとみられています。
実はこの「大里城の雲板」のほかにも、何と首里城に掛けられた雲板が存在していました。現物はすでに失われていますが、近世期に編集された『琉球国由来記』という書物には円覚寺に所蔵されていたもののリストがあり、そこに「首里城の雲板」が記されているのです。この雲板は「天順元年(1457年)」の8月に鋳造したと刻まれ、国王殿(正殿)の前に掛けられていたとあります。これはあの「万国津梁の鐘」と全く同じ方式です。
つまり、第一尚氏時代の首里城正殿には寺院の梵鐘だけではなく、禅宗の雲板まで設置されていたことになるのです。もしかしたら、グスクが丸ごとお寺の設備一式を整えていた可能性もあります。この首里城の雲板は「万国津梁の鐘」の影に隠れて、これまでほとんど注目されてきませんでした(万国津梁の鐘自体も仏教ではなく、貿易関係でのみ注目されてきたわけですが)。しかしグスクの性格を考えるうえでも、第一級の貴重な資料です。
古琉球時代の文献記録によると、首里城で行われた北京に住む中国皇帝への拝礼には、一人の僧(おそらく長老クラスのヤマト禅僧)が中国冠服を着た国王と対面して儀式をとり行っていたとあります。禅僧は古琉球の王権に不可欠な存在として位置づけられ頻繁にグスクに出入りしていたわけで、それを反映したものが首里城の梵鐘や雲板にみられるようなグスクの寺院的な設備だったような感じがします。古琉球時代は私たちの想像以上に「仏教の時代」だったのです。
参考文献:『琉球国由来記』、真境名安興「奈良帝室博物館の雲板について―琉球国王尚泰久の鋳造―」(『真境名安興全集』3巻)
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コメント
首里に上級士族を集中させたとのことですが、役職が代わって采地が替わった時(例えば三司官だった人が代わったりした時)は、その人や家族の邸宅も移ったのでしょうか?
投稿: でいご | 2008年9月30日 (火) 19:43
殿内は例えば玉城殿内ならず~とその屋敷は玉城に采地があった人が住むのですか。江戸時代の参勤交代みたいに江戸屋敷というのがいわば殿内ってことなのでしょうか。
投稿: でいご | 2008年10月 2日 (木) 09:29
>でいごさん
きちんと調べたことはないので確たることはいえませんが、家譜などで王より首里の居宅をたまわった事例は見たことがありますが、上級士族の采地替えの際に邸宅まで移動した例はあまり知りません。首里の屋敷配置図は18世紀頃の「首里古地図」が確認されるなかで最も古いのですが、時代ごとに首里の士族全体の配置がどう変遷したかはきちんと研究されていないのではないでしょうか。
首里古地図についてはこちらを参照してください。
http://www.library.pref.okinawa.jp/okilib/syuzou/syurikochizu/index.html#start
殿内の名称については領地の間切名を冠して呼ばれます。ただ参勤交代のように、親方が領有する地域に下向して居住することはありません。ここらへんは江戸時代の日本より平安時代の京都の貴族などをイメージしたほうがいいかもしれません。
投稿: とらひこ | 2008年10月 4日 (土) 12:04
我が家の元祖は殷達路魯宜寿次親方庸憲という人で、尚清王の時代の1543年、首里城から弁が岳への石畳道を作った時の三司官だったのですが、宜寿次が采地だとは分かりますが、三司官だった時は首里のどこに住んでいたのか、とっても関心を持っています。汀志良次村に宜寿次家があったようですが、(伊江家の支流)関係があるのかないのかも知りたいのですが、どのようにすれば知ることができるのかと思うのです。
投稿: でいご | 2008年10月 4日 (土) 17:37
>でいごさん
殷達魯というと1543年の「かたのはなの碑」に記される「ぎすしの大やくもい、いぬたるがね」ですね。
殷氏の家譜はちゃんと読んだことはありませんが(現存してましたっけ?)、家譜に何らかの記述があればそれが手がかりになりそうですが、丹念に読みこんでいけば見つかるかもしれませんね。
投稿: とらひこ | 2008年10月 5日 (日) 19:06
ありがとうございました。1689年系図座が出来る前のものははっきりしていませんが、それ以後のものは一部実物が現存しています。後裔は数多あり、私たちは13世ということになっていますが、直接の先祖は支流の支流で8世からであり、廃藩置県・王朝崩壊以後も士分に拘って(誇りにして)生きていたようです。最早親戚と呼ぶのも不思議な遠い元祖ですが調べて、琉球の歴史と共に、子や孫に伝えたいのですよ。
投稿: でいご | 2008年10月 6日 (月) 12:21
>でいごさん
自分たちの家譜はもちろんですが、他家の家譜にもたまに情報が載っていたりします。例えば他家の人物が中国へ渡航した時に、でいごさんの家の人物と一緒に行っていた場合などです。『那覇市史』の家譜史料はネットで公開されていますから、検索されてはいかがでしょうか。
家譜史料の検索は以下から。
http://www.okinawa.oiu.ac.jp/okinawa-cgi/cgi-bin/select.cgi
投稿: とらひこ | 2008年10月16日 (木) 18:47