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2008年2月28日 (木)

歴史散策+講座のお知らせ(3/2)

またまたワタクシ「とらひこ」による歴史散策+講座のお知らせです。

若狭公民館青年講座・交流事業「目からウロコの若狭まち歩き」

開催日時:2008年3月2日(日)13:00~17:00
開催場所:若狭公民館(那覇市若狭2−12−1)および若狭地域周辺
対象:高校生以上で那覇市在住 /在勤 /在学の方
定員:30名(応募者多数の場合は10~30代の方優先)
問合せ: 若狭公民館 (098)891-3446・869-8623
参加費:100円(保険料等実費)

琉球王国の港湾都市だった那覇の若狭町をめぐる歴史散策です。「目からウロコ」な話が満載、今まで見ていた那覇の景色がちがって見えるようになります。お気軽にご参加ください。

ちなみに本企画はYahoo!ニュースに掲載されました。【こちら】をご覧ください。

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2008年2月21日 (木)

酔って轟沈、騒いで大酒

ウチナーンチュ(沖縄人)はとにかく酒に強いと言われます。実際、体質的にアルコール分解が早い人が多いようです。沖縄では何かにつけて飲み会が開かれるなど、お酒は身近な存在。飲酒運転の検挙者数も18年連続ワーストワンという不名誉な記録まであるほどです。

お酒と沖縄は切っても切れない関係なのですが、今回はお酒にまつわる歴史の話を紹介しましょう。琉球人の飲酒についての最も古い記録はいつ頃でしょうか。それは何と1422年。古琉球時代(日本では室町時代)の尚巴志が即位した年に当たります。記録は京都東寺(教王護国寺)の「東寺百合(ひゃくごう)文書」のなかに残されています。

1422年の9月26日、琉球人の使節が上京し、東寺の鎮守八幡宮にある宮仕(みやじ。下級の社僧)の部屋を借ります。そこで琉球人たちは何と宴会を始めてしまうのです。ところが宴会が終わった後、琉球人の一人が病気になってしまいます。占いを行ったところ「神さまのおとがめじゃ!」と出たので、そこで東寺は病気回復の祈願をするため、宮仕の五郎三郎(ごろうさぶろう)という人物に1貫300文(だいたい10万円前後)のお金を渡し、鎮守八幡宮で神楽(かぐら)を舞わせるように命じたのです。

琉球人たちは慣れない気候の土地でドンチャン騒ぎの宴会をして体調をくずしてしまったのでしょうか。神聖な神社のなかで大騒ぎしたとなれば、神様のタタリと思われてもしかたがありませんね。ところがお金を渡された五郎三郎、神楽代に300文だけを払い、残りの1貫はフトコロに入れてしまいます。要するに着服です。結局この行為はバレて、さらに部外者に部屋を貸したことが違法だったために五郎三郎はクビになってしまうのです。

もうひとつは1575年(天正3年)、薩摩(鹿児島県)の戦国大名・島津氏のもとを訪れた琉球の使節団。この時の外交交渉は島津氏が琉球へ圧力を加え、様々な条件を強要する厳しいものだったのですが、琉球使節は宿舎でやっぱり酒宴を開いています。島津側は琉球人の飲みっぷりを「ことのほか大酒」と評しています。宴会は「じゃひせん(蛇皮線。三線)」を弾き、琉球の楽童子(小姓)による歌や太鼓もある大変にぎやかなものとなりました。最後はカチャーシーだったかどうかは定かではありませんが(笑)、緊張した外交関係のなかでも琉球人は三線と酒は忘れなかったようです。琉球は交渉で負けても酒飲み勝負は圧勝だったということでしょうか。まるで現代のウチナーンチュを見るようで、彼らの姿がありありと想像できますね。

参考文献:佐伯弘次「室町前期の日琉関係と外交文書」(『九州史学』111号)、『上井覚兼日記』

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2008年2月14日 (木)

歴史講演会のお知らせ(3/8)

またまたワタクシ「とらひこ」による歴史講演会のお知らせです。

「琉球王国はなぜ繁栄したのか~万国津梁の鐘に隠された真実~」

日時 : 2008年3月8日(土) 午前10時半~12時
場所 : 沖縄県立図書館 3階研修室
入場料:無料
内容:アジアとの交易で繁栄した琉球王国。なぜ小っぽけな島々が広大なアジアの海を舞台に活躍することができたのか?『目からウロコの琉球・沖縄史』著者で古琉球史研究の最前線に立つ一人である報告者が、最新の研究をもとに描き出す新たな琉球史像!交易国家としての繁栄の様相を刻む「万国津梁の鐘」に秘められた真実とは!?先人たちが残したメッセージの本当の意味を現代沖縄の人々にお届けします。

申し込み・問い合わせは【こちら】まで

今回は僕の専門分野である「海域アジアと古琉球」についての話を、有名な「万国津梁の鐘」をキーワードにわかりやすく解説します。沖縄にお住まいの方、お気軽にお越しくださいませ。

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2008年2月 7日 (木)

首里城の雲板

以前、コラムの「首里城のモデルはお寺?」で紹介しましたように、首里城の建築には寺院の強い影響がみられます。有名な「万国津梁の鐘」(1458年造)も、もともとは寺ではなく首里城の正殿に掛けられていた梵鐘です。古琉球にはグスクと寺院を一体のものとしてみる何らかの観念があったようです。

「万国津梁の鐘」と並んでグスクの寺院関係物として知られているのが「大里城の雲板」です(1458年造)。雲板(うんばん)とは禅宗寺院で使われるドラの一種で、お坊さんの寝起き・食事の合図として鳴らされるものです。大里グスクは第一尚氏の王の別宮として使われていて、尚泰久王はこのグスクの建物に禅宗寺院のドラを付けたとみられています。

実はこの「大里城の雲板」のほかにも、何と首里城に掛けられた雲板が存在していました。現物はすでに失われていますが、近世期に編集された『琉球国由来記』という書物には円覚寺に所蔵されていたもののリストがあり、そこに「首里城の雲板」が記されているのです。この雲板は「天順元年(1457年)」の8月に鋳造したと刻まれ、国王殿(正殿)の前に掛けられていたとあります。これはあの「万国津梁の鐘」と全く同じ方式です。

つまり、第一尚氏時代の首里城正殿には寺院の梵鐘だけではなく、禅宗の雲板まで設置されていたことになるのです。もしかしたら、グスクが丸ごとお寺の設備一式を整えていた可能性もあります。この首里城の雲板は「万国津梁の鐘」の影に隠れて、これまでほとんど注目されてきませんでした(万国津梁の鐘自体も仏教ではなく、貿易関係でのみ注目されてきたわけですが)。しかしグスクの性格を考えるうえでも、第一級の貴重な資料です。

古琉球時代の文献記録によると、首里城で行われた北京に住む中国皇帝への拝礼には、一人の僧(おそらく長老クラスのヤマト禅僧)が中国冠服を着た国王と対面して儀式をとり行っていたとあります。禅僧は古琉球の王権に不可欠な存在として位置づけられ頻繁にグスクに出入りしていたわけで、それを反映したものが首里城の梵鐘や雲板にみられるようなグスクの寺院的な設備だったような感じがします。古琉球時代は私たちの想像以上に「仏教の時代」だったのです。

参考文献:『琉球国由来記』、真境名安興「奈良帝室博物館の雲板について―琉球国王尚泰久の鋳造―」(『真境名安興全集』3巻)

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