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2008年1月11日 (金)

琉球の「王」とは何か

琉球は王が治める国であったことは誰もがご存じだと思います。歴代王の系統は「王統」としてそれぞれ「舜天王統」や「察度王統」など、各血筋で区別されています。つまり琉球は「万世一系」ではなく、いく度か政権交替があったわけです。教科書にも歴代の「王統」を並べて歴史を記述している例がみられます。

しかしこの「王統」という概念、実は舜天や察度らが生きていた当時には存在しなかったものなのです。歴代の王たちを「王統」として記述しはじめたのは近世(江戸時代)に入ってから。つまり当人たちの死後数百年たってから当てはめられた概念だったのです。例えて言うなら、現代人たちが琉球の王たちを現在の政治体制に当てはめて呼ぶようなもの。「舜天首相」や「第一尚氏内閣」のように。これでは何が何だかわからなくなってしまいますね。

まず「王」という呼称は、中国皇帝を中心とした東アジアの国際体制のなかで位置づけられた対外的な呼称であって、単にエライ人、「キング」という意味ではありません。琉球の為政者が「王」として呼ばれるのは1372年の察度の代から。それ以前の舜天や英祖は「王」とは呼ばれていないのです。彼らは琉球独自の呼称で「世の主(よのぬし。琉球世界の主)」や「テダ(太陽)」、「按司添い(あじおそい。按司を超える存在)」などと呼ばれていたようです。

琉球で「王」の呼称は後に定着し自称されていきますが、第二尚氏の初期までは対外的にも「代主(よのぬし)」または「世の主」を名乗っています。例えば尚円王は「金丸世主(かねまる・よのぬし)」と署名して薩摩の島津氏に文書を送っています。琉球の人々にとって外から勝手に付けられた「王」の称号より、当初は自分たちの世界の呼び名である「世の主」のほうが自然でなじみ深いものだったと考えられます。「王」と「世の主」呼称の関係は、日本の足利将軍が中国から「日本国王」として冊封(任命)されても、国内では「室町殿(むろまちどの)」と自称していたのと同じようなものです。

そして面白いのが当時の「王位」継承において、血筋によって「王統」を区別する考えがみられないことです。第二尚氏の尚寧王は、自らを「そんとん(舜天)より24代の王」と称しています。つまり近世に入るまで、琉球の王たちは「王統」に関係なく、最初の舜天を初代として代々王位をかぞえていたのです。

もちろん血筋による王位継承が存在しなかったというわけではありませんが、琉球世界の支配者(世の主)は一族継承かどうかに関わらず、為政者としてふさわしい人間が天(琉球の神々)より承認され連綿と「世」を治めている、という独自の観念があったようです。つまり日本とは違う意味で、琉球の人々は琉球王位が「万世一系」であると考えていたのです。

「王統」概念や「王」の呼称を便宜的に使用するのは問題ないとは思うのですが、これらはあくまで琉球で儒教的・中国的観念が広まっていった近世以降の価値観で解釈されたものであることに注意しなくてはならないでしょう。

参考文献:入間田宣夫・豊見山和行『日本の中世5 北の平泉、南の琉球』、高橋公明「琉球王国」(『岩波講座日本通史』10巻)

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コメント

こんばんは。
琉球では一般に考えられているほど血筋は重視されていなかったという事なのでしょうか・・・
それならば舜天→英祖、英祖→察度という王統の変わり目は文字通りの禅譲が行われたかも知れませんね。

「世の主」という呼び名はあちこちに残っているようですが、舜天や英祖も数ある「世の主」の一人だったという事なのでしょうか。
本人たちは後世でこのような待遇を受けると思っていなかったのかも知れませんが・・・

投稿: T・ランタ | 2008年1月11日 (金) 03:19

>T・ランタ さん
古琉球に関しては、近世ほど血統重視ではなかったのが事実です。なので舜天から英祖、察度という交替は一般的な継承方法だったと思います。

ただ古琉球時代を通じて一緒だったのではなく、第一尚氏王朝頃から第二尚氏にかけて次第に血統重視の継承へと変化していったようです。

このあたりの研究は安里進『考古学からみた琉球史』、また高橋公明「琉球王国」(『岩波講座日本通史』10巻)に詳しいです。

舜天や英祖は各地の「世の主」の一人といったほうがより適切なのですが、当時の浦添は他の地域より突出した規模を持っていたようで、沖縄全域を支配するほどではなくても、かなり強大な勢力だったようです。

彼らが「王」の系譜に入っているのは、浦添を拠点とした「中山」が後に統一政権を樹立したことと関係しているように思います。

投稿: とらひこ | 2008年1月11日 (金) 11:06

今回のテーマはかなり面白いですね。
第一尚氏から第二尚氏にかけて、血統を重視する意識に変わっていったという指摘ははっとさせられました。
素人意見で恐縮ですが、この意識が士族の系図に対する意識、はたまた明治(?)以降に民間で系図が流行することとどう結びつくのかと気になったりします。

あと「世の主」という言い方は言葉からしてヤマト文化との交流のなかで出てきた表現のような気もするのですが、ではそれ以前の何か古琉球的な表現はあったのでしょうか。
これも気になるところです。

歴史のなかでは、社会のシステムだけでなく、人の意識もまた大きく変化していくものなのだなと、今回はあらためて思いました。

投稿: まようべき人 | 2008年1月12日 (土) 00:59

尚寧王が英祖と陵墓を一にすることに抵抗が無かったのも、こういった考えが基にあったからなのでしょうか?
どの王統も血縁自体は重視しているように見えますが、中山を踏襲することが最重要ではあったのですね。

また、筋目を重視するようになったのは、尚清王の冊封が円滑にいかなかったからでしょうか?
思紹・金丸は問題にならなかったのに、伯夷・叔斉の故事を捻り出したあたり、明帝や礼部の儒教色に合わせなければならなかった感があります。

投稿: 御茶道 | 2008年1月14日 (月) 03:11

>まようべき人さん
士族の門中意識形成は直接的には17世紀中頃の系図による身分制度創出によるものですが、前代からの意識の継続というのも、ある程度はあるでしょうね。近現代以降の庶民への普及は士族たちのマネという面が強いように思います。

「世の主」呼称以前の古琉球的表現は記録がないこともあってよくわかりませんが、グスク時代のヤマトからの人口流入を考えると、いわゆる「ヤマト的」表現でもおかしくはないように思います。その他貴人に対する表現としては「あす(長老の意)」とか「里主(さとぬし)」、「大親(うふや)」なんかが思い浮かびます。

>御茶道さん
尚寧王墓が浦添ようどれなのは自分の出身が浦添グスクだったからなのですが、本文でも書きましたように「舜天より24代の王」を自称しているので、英祖王陵と同敷地に葬られることには抵抗がなかったと思います。あそこは「何々王統」の陵墓ではなく「世の主」が葬られる墓だったといえるでしょう。

中山を踏襲したのは、ここが琉球の統一政権を樹立し中国より唯一の王として冊封されたからで、「まず中山ありき」だったわけではないと思うんですよね。琉球の場合は王位継承の際、内部事情に合わせて外的要因、すなわち中国にどうやって王権をオーソライズ(権威付け)してもらうかも重要であったのです。

たしかに尚清王以降、対外呼称に「世の主」号が消えて、より中国的な「王」を称するようになりますから、ご指摘の事件をきっかけとして琉球の系譜意識にも何らかの変化があったような感じはします。

ただこうした事例はあるものの、尚清以降必ずしも嫡子継承が遵守されているようには見えません。やはり琉球において「筋目」を重視する意識が一般化・普及化していくのは17世紀中頃のことだと思います。

投稿: とらひこ | 2008年1月14日 (月) 10:13

素人の耳学問に丁寧に答えていただき、有難うございます。

>「まず中山ありき」だったわけではないと思うんですよね。
表現が拙かったようで、貿易を可能ならしめる唯一の王位と言いますか、正統性の源泉としての「中山王位」という意味だったのです。この解釈で大丈夫でしょうか?

>尚清以降必ずしも嫡子継承が遵守されているようには見えません。
私には、尚豊以降と比べると、尚清以前は「世の主」も実力主義的だったように見えたもので。(特に第一尚氏など)

1/4の「唐獅子」、示唆的でしたね。
『篤姫』も放送されていることですし、調所広郷や島津斉彬といった改革者の出現で薩琉がどうドラスティックに変わるのか…面白く学んでいける好機と思いました。
最近は、板良敷朝忠や当時のインフレーション、それを支えた鋳造技術など興味が尽きません。
いや、面白いと言うのは、影で辛酸を嘗めた百姓たちに失礼なのでしょうが…。

投稿: 御茶道 | 2008年1月19日 (土) 09:46

>御茶道さん
いえいえ、大変勉強になりました。

>正統性の源泉としての「中山王位」という意味
そうですね、琉球古来からの「世の主」観念に併せて中国皇帝の権威付けが融合したのが琉球王権だったと思います。

第一尚氏は確かに実力主義のような感はありますね。僕は厳密に検討したわけではないのですが、一度王位継承を近世的な価値観を除いて丹念に見ていくといいかもしれません。

「篤姫」の時代の薩摩と琉球は僕も興味深い時代だと思います。実は調所広郷の藩政改革に関する史料が国宝の尚家文書にあります。しかし公開されるのはまだまだ先のようです。閲覧できるようになればかなりの新事実が明らかになるはずですよ。

投稿: とらひこ | 2008年1月21日 (月) 00:41

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