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2008年1月31日 (木)

「中国化」する琉球

琉球というと中国の影響が強くあって、昔は中国風の文化だったのが、近世(江戸時代)に薩摩藩に征服されてから次第にヤマト(日本)化していったと考える方も多いと思います。しかし、事実は全く逆。琉球は薩摩に征服された後に「中国化」していくのです。 

もちろん琉球は中国(明・清)の朝貢国だったので、中国の影響が全く無かったわけではありません。しかし近世の琉球は中国文化をとくに積極的に取り入れていきます。

例えば首里城で行われる儀式。近世以前の王府儀礼は中国の拝礼様式を参考にしつつも、何とヤマトの陰陽道の方式が取り入れられていました。王府の重要な儀礼のひとつである元日の天を拝む儀礼では、年ごとに縁起のいい方角に向かって王や官人が拝んでいましたが、これは「歳徳神(恵方)」の信仰にもとづくものです。この信仰は節分に食べる恵方巻き(まるかぶり)を思い浮かべていただければわかりやすいと思います。

しかし、この恵方を拝む古琉球伝統の風習は1719年に廃止され、北方の方角(中国皇帝のいる北京の紫禁城)を拝むという方法に変更され、より中国的な形式が強調されます。琉球の天を拝む儀式はヤマトの信仰に影響されつつも、王を“太陽(テダ)”や“天”と一体と見る古琉球の伝統的な考えをもとにしていましたが、本来、天を拝む儀式は中国皇帝(天子)だけに許されたものでした。近世になり中国的な考えが意識されだすと、「これはけしからん」という批判が出てきます。そこで王府は、この儀礼は中国皇帝の方向を拝むためだと何とか理由づけして、中国風に変更して続けていくのです。

さらに近世の琉球社会では、中国の儒教をもとにした価値観が広まっていきます。それ以前の儒教は中国系の久米村など一部で受け入れられていたにすぎませんでした。ところが、琉球王府は儒教イデオロギーを国家的な思想として採用していきます。

久米村によって主宰されていた孔子廟の祭礼は、やがて国家的祭礼に引き上げられ、歴代王に対する祭祀も久米村の意見を聞いて、可能なかぎり中国式の祭祀方法に変更します。国家の教育も儒教をもとに行われるようになり、庶民には儒教倫理のテキスト「御教条」を読み聞かせていきます。さらに中国の風水思想も導入され、風水にもとにした亀甲墓・シーサー・石敢当・ヒンプンなどが次々と琉球に定着します。こうした文化が琉球全体に普及したのはこの時期です。

琉球の「中国化」はこれだけではありませんでした。何と、琉球の海を航行する船も「中国化」します。意外に思うかもしれませんが、かつて琉球の一般的な船は中国のジャンク船ではなく、和船タイプの船でした。ジャンク型の進貢船はむしろ例外的なものだったのです。18世紀になると、琉球の船は王府の指導によって「マーラン(馬艦)船」と呼ばれるジャンク船タイプにモデルチェンジされます。マーラン船は安価で頑丈な造りの高性能船だったので、またたく間に広まっていくのです。

なぜヤマトの支配下に入ったはずの琉球で、中国的志向が強められていったのでしょうか。ひとつは羽地朝秀から蔡温の時代にかけて行われた琉球の構造改革が影響していると考えられます。古い時代に代わる新しい価値として、儒教に代表される中国的なものが重視されたのではないでしょうか。また、中国・清朝が次第に琉球の朝貢貿易を縮小させようとしたことにも原因があるとみられます。琉球はこうした清朝の動きに対し、「中華」に忠実に従う「優等生」ぶりをアピールすることで、従来の関係を維持しようと考えたのです。中国との関係をこれまで通り維持することは、貿易活動のみならず、中国皇帝の権威によって王が国内での求心力を得るために絶対必要でした。

それともうひとつ。近世の琉球はヤマトの幕藩制国家に従属した存在となって様々な政治的規制を受け、また経済面においてはヤマトとの一体化が進行していました。琉球はヤマトに完全に呑み込まれないように、中国を拠りどころにして新たな琉球のアイデンティティを確立しようとしたと考えられるのです。日中両国の間で絶妙のバランスをとって「琉球」という主体を存続させようとした戦略をそこに見ることができるのではないでしょうか。

参考文献:豊見山和行『琉球王国の外交と王権』、赤嶺守『琉球王国』

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2008年1月25日 (金)

琉球歴史イラスト(6)

浦添グスクで発見された鬼瓦

Photo

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【解説】浦添グスクで発見された高麗系の鬼瓦(角だけ想定復元図)。古琉球の早い時期に造られたもので、灰色をしている。平盤形で粘土をつまみあげて製作している点は朝鮮系そのものだが、鬼の角を大きくしている点は大和系の特徴であるという。

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2008年1月18日 (金)

新聞コラムに連載開始

「沖縄タイムス」文化面のコラム「唐獅子」で、ワタクシ「とらひこ」による半年間の連載が開始されました!1月4日スタートで、2週間に1回、金曜日に掲載されます。

琉球史の「目からウロコ」な情報だけではなく、歴史の視点からみた現在の沖縄についての評論なんかも書こうと思っています。沖縄にお住まいの方、本土で「沖縄タイムス」が読める方、是非タイムスの文化面をのぞいてみてくださいませ。

ちなみに第一回目のコラムの題は「鹿児島の古琉球漆器」。次回は1月18日(金)の予定となっています。

ネットでも本文を公開したいのですが、このブログに載せるには難解な内容もあり少々そぐわないかと思いまして、後日に別の場所を設けたいと思っています。もうしばらくお待ちください。

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2008年1月11日 (金)

琉球の「王」とは何か

琉球は王が治める国であったことは誰もがご存じだと思います。歴代王の系統は「王統」としてそれぞれ「舜天王統」や「察度王統」など、各血筋で区別されています。つまり琉球は「万世一系」ではなく、いく度か政権交替があったわけです。教科書にも歴代の「王統」を並べて歴史を記述している例がみられます。

しかしこの「王統」という概念、実は舜天や察度らが生きていた当時には存在しなかったものなのです。歴代の王たちを「王統」として記述しはじめたのは近世(江戸時代)に入ってから。つまり当人たちの死後数百年たってから当てはめられた概念だったのです。例えて言うなら、現代人たちが琉球の王たちを現在の政治体制に当てはめて呼ぶようなもの。「舜天首相」や「第一尚氏内閣」のように。これでは何が何だかわからなくなってしまいますね。

まず「王」という呼称は、中国皇帝を中心とした東アジアの国際体制のなかで位置づけられた対外的な呼称であって、単にエライ人、「キング」という意味ではありません。琉球の為政者が「王」として呼ばれるのは1372年の察度の代から。それ以前の舜天や英祖は「王」とは呼ばれていないのです。彼らは琉球独自の呼称で「世の主(よのぬし。琉球世界の主)」や「テダ(太陽)」、「按司添い(あじおそい。按司を超える存在)」などと呼ばれていたようです。

琉球で「王」の呼称は後に定着し自称されていきますが、第二尚氏の初期までは対外的にも「代主(よのぬし)」または「世の主」を名乗っています。例えば尚円王は「金丸世主(かねまる・よのぬし)」と署名して薩摩の島津氏に文書を送っています。琉球の人々にとって外から勝手に付けられた「王」の称号より、当初は自分たちの世界の呼び名である「世の主」のほうが自然でなじみ深いものだったと考えられます。「王」と「世の主」呼称の関係は、日本の足利将軍が中国から「日本国王」として冊封(任命)されても、国内では「室町殿(むろまちどの)」と自称していたのと同じようなものです。

そして面白いのが当時の「王位」継承において、血筋によって「王統」を区別する考えがみられないことです。第二尚氏の尚寧王は、自らを「そんとん(舜天)より24代の王」と称しています。つまり近世に入るまで、琉球の王たちは「王統」に関係なく、最初の舜天を初代として代々王位をかぞえていたのです。

もちろん血筋による王位継承が存在しなかったというわけではありませんが、琉球世界の支配者(世の主)は一族継承かどうかに関わらず、為政者としてふさわしい人間が天(琉球の神々)より承認され連綿と「世」を治めている、という独自の観念があったようです。つまり日本とは違う意味で、琉球の人々は琉球王位が「万世一系」であると考えていたのです。

「王統」概念や「王」の呼称を便宜的に使用するのは問題ないとは思うのですが、これらはあくまで琉球で儒教的・中国的観念が広まっていった近世以降の価値観で解釈されたものであることに注意しなくてはならないでしょう。

参考文献:入間田宣夫・豊見山和行『日本の中世5 北の平泉、南の琉球』、高橋公明「琉球王国」(『岩波講座日本通史』10巻)

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2008年1月 3日 (木)

琉球歴史イラスト(5)

琉球の禅僧

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【解説】

古琉球時代にはヤマト(日本本土)より禅僧が渡来し、琉球の対日外交や文化交流に大きな役割をはたした。

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