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2007年12月11日 (火)

将軍と皇帝に会った琉球人

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近世(江戸時代)の琉球は中国(清朝)の朝貢国でありながら日本の幕藩制国家にも従属する国家で、中国と日本に使節をそれぞれ派遣していました。中国へは北京の皇帝のもとへ朝貢使節を派遣していたことはよく知られています。一方、日本へは江戸の徳川将軍と薩摩藩の島津氏のもとへ不定期ですが使者を派遣して服属の儀礼を行っていました。いわゆる「江戸上り」と「中城王子上国(じょうこく)」です。

このような歴史的な性格から、琉球では当時の東アジアでも珍しい体験をする人物が登場します。その一人を紹介しましょう。彼の名は毛維基(もう・いき、城田親方)。久米村の毛氏5世で、元祖は17世紀に中国から渡来した華人です。維基は久米村行政のトップ(総役)の地位についたエリートで、書道や芸能にも通じていました。彼は何と、中国皇帝・徳川将軍・琉球国王という3カ国の「元首」に会ったことのある人物なのです。

1752年、国王尚穆(しょうぼく)の即位によって、それを承認したお礼として琉球から使節団が江戸へ向かいます。この時、維基は音楽や舞踊を指導する監督官(楽師)として江戸へ同行しています。使節団は薩摩から大坂を経由して、江戸城で将軍・徳川家重(吉宗の長男)に謁見。将軍の前では維基が指導した琉球音楽を披露して、彼は将軍から白銀を与えられました。

また維基は福建の琉球館(いわば大使館)に駐在するスタッフとして中国へも行っています。彼が属する久米村は中国系の渡来者を中心とした士族のグループで、中国への外交文書作成や通訳、そして琉球国内において儒教教育などを担当する仕事に多くの人が従事していました。そして1769年、彼は朝貢使節のナンバー2(副使)として北京へ向かい、紫禁城の午門(ごもん)で乾隆帝(けんりゅうてい)に会い、その顔を見ています。乾隆帝といえば中国史上最大の領土を有した清朝最盛期の皇帝。彼に直接対面した維基は「これは千年に一度あるかのめぐり会いで、家門の栄光である!」と感激しています(日本の将軍と会った時にはコメントなしでしたが…)。

当時は身分制社会で、そこらにいる普通の人間が支配者の顔を見るなど滅多にありません。また江戸時代の「鎖国」政策に代表されるように、自由に国や地域を移動できない状況でした。そのようななか、一人の人間が3カ国の「元首」に直接会ってその顔を見ることは異例中の異例です。当時の日本では中国皇帝の顔を見た人間などまず、いません。もちろん中国で徳川将軍の顔を見た人も。

維基がなぜこのような珍しい体験ができたかというと、先に述べたように、近世の琉球王国が日本と中国との外交関係を維持して成り立っていたことと関係しています。琉球では外交や交易の仕事をすること(旅役といいます)が大きな功績としてカウントされ、多くの琉球人が海外へ出向いていきました。毛維基のような国際体験をすることは、当時の琉球の人々にとって決してありえないことではなかったのです。

※【画像】は今帰仁グスクにある「山北今帰仁城監守来歴碑記」(1749年建立)。この碑文の文字は毛維基が書いた。

参考文献:渡辺美季「毛維基の生涯―「山北今帰仁城監守来歴碑記」の文字を書いた人物―」(『今帰仁グスク』創刊号)

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コメント

毛維基という人物の事績については、どういう史料から分かるのでしょうか?

投稿: 御座候 | 2007年12月11日 (火) 15:33

 これであと天皇陛下とお会いしていたら..

 わたしも久米姓(金という人らしい)です。学校で、第二外国語は迷わず中国語。ご先祖様のお導きか。その授業で赤嶺先生とお会いしたしだいです。

投稿: くに | 2007年12月11日 (火) 19:54

>>琉球は中国(清朝)の朝貢国

朝貢國ではない,藩屬國です。
朝貢國,冊封がありません、印鑒(琉球國王之印)が使いません、中国の暦法、年號が使いません。

清朝
内藩(藩部):新疆、西藏、内蒙古、外蒙古。
外藩(藩屬國):朝鮮、琉球、越南、緬甸、暹羅、南掌、廓爾喀。
皇帝:天子 王:諸侯
皇帝去世:崩 琉球王去世:薨


賜朝鮮匾額(四面)
乾隆帝の筆 式表東藩、東籓繩美
嘉慶帝の筆 禮教綏藩
道光帝の筆 纘服揚休

賜琉球匾額(九面)
康熙帝の筆 中山世土
雍正帝の筆 輯瑞球陽
乾隆帝の筆 永祚瀛壖、海邦濟美
嘉慶帝の筆 海表恭藩
道光帝の筆 屏輪東南、弼服海隅
咸丰帝の筆 同文式化
同治帝の筆 瀛嶠屏藩

賜安南匾額(三面)
康熙帝の筆 忠孝守邦
雍正帝の筆 日南世祚
乾隆帝の筆 南交屏翰

投稿: 瀛洲 | 2007年12月11日 (火) 22:14

>御座候さん
毛維基の事績は王府が編集した『毛姓家譜』に記されています。

>くにさん
江戸時代の外交権は将軍が掌握していたので、基本的に外交使節が天皇のもとに赴くことはなかったようです。くにさんは久米村の出なのですか。金氏もおそらく毛氏のように日本や中国に出向いていたと思いますよ。調べたら将軍や皇帝に会ったご先祖さまがいるかもしれませんね。

>瀛洲さん
瀛洲さんがおっしゃるのは冊封の有無のことでしょうが、ここで言っているのは中国側の規定そのものの用語ではなくて、中国王朝を中心とした冊封・朝貢システムのなかでの琉球の位置づけを表現した「歴史概念」としての用語なので間違いではないと思います。日本の歴史学界では琉球を朝貢国として扱っています。

投稿: とらひこ | 2007年12月11日 (火) 23:16

やっぱ家譜研究は重要なんですね~

そういえば、この前、渡辺さんが史料編纂所で家譜がどうのこうのという発表をなさったようですが。

投稿: 御座候 | 2007年12月12日 (水) 22:19

>御座候さん
家譜は従来、所持する一族が自らのルーツを探るために利用されてきましたが、王府が編纂した公的史料であることから次第に歴史研究で活用されつつありますね。僕の研究でも家譜を使いましたが。

渡辺さんが最近報告したというのは聞いてましたが、家譜のことだったんですか。

投稿: とらひこ | 2007年12月14日 (金) 00:38

家譜の史料としての信憑性というのはどの程度のものなんでしょうか? 自分の家が名門であるかのように「偽装」した例なんかもありそうな気がしまけど・・・・・・

投稿: 御座候 | 2007年12月16日 (日) 14:07

>御座候さん
琉球の家譜は記載事項の根拠となる同時代史料(辞令書や外交文書、石碑の銘文など)、または蓋然性のきわめて高い伝承を王府が吟味して掲載の可否を決定していたので、自家のために有利になるよう偽装することは非常に難しい仕組みになっていました。

つまり家譜は客観的な根拠をもとに作成されたもので、これまでの研究ではかなりの程度信頼できる史料とされています。

投稿: とらひこ | 2007年12月16日 (日) 21:43

なるほど、そうですか。それは貴重な資料ですね。御教示ありがとうございました。

投稿: 御座候 | 2007年12月16日 (日) 22:27

お久しぶりです。
今さらながら不勉強でお恥ずかしいのですが、進貢使は必ず皇帝に会う機会があったものなのでしょうか?
それとも、毛維基のようなケースは珍しかったのでしょうか?

投稿: 茶太郎 | 2007年12月16日 (日) 23:19

>御座候さん
どういたしまして。最近だと渡辺さんが家譜のことについて熱心にやってますので、彼女のほうが詳しいと思いますよ。

>茶太郎さん
おひさしぶりですね。北京へ向かった使節はいちおう紫禁城内と午門前で皇帝に拝謁する機会はあったようです。

しかしご存じのように、進貢使節のなかでも大半はそのまま帰国するか福建に滞在する人間がほとんどで、北京に向かう使節は20名ほどで少なかったので、中国にいった琉球人の誰もが皇帝を見れるというわけではなかったようですが。

投稿: とらひこ | 2007年12月18日 (火) 01:13

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