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2007年12月18日 (火)

天皇と琉球

琉球が徳川将軍に使節を派遣したことは前回紹介しましたが、それでは江戸時代の琉球は天皇とどのように関わっていたのでしょうか。江戸時代の外交権は徳川将軍が「日本国大君」として掌握していて、天皇が外交使節と対面することはまずありませんでした。それに薩摩藩の支配下にあったとはいえ、琉球には国王がいて独自の国家を形成していたので、天皇とほとんど無縁の地域でした。琉球の人々にとって崇めるべき存在は琉球国王であり、そして中国皇帝であったのです。

しかし、琉球と天皇は全くの無関係だったのではありません。実は、琉球の使節はたった一度だけ天皇と対面しています。1626年(寛永3)、後水尾天皇が京都の二条城に行幸した際、島津氏の命令によって琉球から金武王子と楽童子(がくどうじ。芸能を披露する美少年)らが二条城に送られて、天皇や公家衆、将軍家光の前で舞踊や音楽を演奏しています。

琉球使節の「来朝」が、天皇家を凌駕し日本国内で権力を確立しつつあった将軍にとって、天皇の前で異国を従えていることを示す政治パフォーマンスとなったのです。この時が、琉球使節が天皇と対面した最初で最後です。

そして、おそらく琉球の人々が何となく天皇の存在を感じることのできた機会が「鳴物停止(なりものちょうじ)令」でしょう。鳴物停止とは身分の高い人間の死去に際して音楽や歌や舞いなどを一定期間、禁止して喪に服することです。例えば天皇や上皇、徳川将軍が死去した後、日本全国で半月とか1ヵ月間、鳴物や建築工事、殺生などが禁止されています。この禁止令が、薩摩藩の支配下にあった琉球にまで適用されていたのです。

琉球では薩摩藩主の死去にもこの「鳴物停止」が行われていたので、同じように禁止令が出された天皇・将軍を「薩摩の殿さまと同じようにエライ人」と実感していたことでしょう。しかし何度か会って服属儀礼をとる機会のあった将軍に比べ、ほとんど接する機会のなかった天皇は琉球の人々にとって不思議な存在だったかもしれませんね。

参考文献:上原兼善『幕藩制形成期の琉球支配』、真栄平房昭「近世日本の境界領域」(菊池勇夫・真栄平房昭編『近世地域史フォーラム1 列島史の南と北』)

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コメント

藤井貞幹の神武天皇が琉球で生まれたとの主張は単なる伝説だと思いますが、そのような話が生まれるのには何らかのかかわりがあったのでは?

投稿: ひで | 2010年6月 3日 (木) 23:28

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