武器のない国琉球?(1)
琉球といえば、「武器のない国」としてイメージされる場合が多いと思います。平和を希求する尚真王が武器を捨て世界にさきがけて“非武装国家宣言”をしたとか、ナポレオンが武器のない琉球の話に驚いたというエピソードも、これらを根拠づけるものとしてよく引き合いに出されます。
しかし歴史を詳しく調べていくと、事実は全くちがうことがわかります。まず尚真王は武器も廃棄していないし、“非武装国家宣言”も出していません。刀狩りの根拠とされた「百浦添欄干之銘」(1509年)という史料にはこう書かれています。
「もっぱら刀剣・弓矢を積み、もって護国の利器となす。この邦の財用・武器は他州の及ばざるところなり」
刀狩り説は、これを「武器をかき集めて倉庫に積み封印した」と解釈していました。しかしこの文を現代風に訳すると、何と「(尚真王は)刀や弓矢を集めて国を守る武器とした。琉球の持つ財産や武器は他国の及ぶところではない(他国より金と軍備を持っている)」という意味になるのです。尚真王は武器を捨てるどころか、軍備を強化しているのです。
実際に1500年の王府軍による八重山征服戦争では軍艦100隻と3000人の兵が動員され、1609年の薩摩島津軍の侵攻に対しては、琉球は4000人の軍隊で迎え撃ち、最新兵器の大砲でいったんは島津軍を阻止しています。
尚真王が軍備を廃止した事実はなく、この時期にそれまでの按司のよせ集めだった軍団から、王府指揮下の統一的な「琉球王国軍」が完成したというのが真実なのです。再度強調しますと、琉球は刀狩りやそれに関連するような政策は一切とっていません。
古琉球の歌謡集『おもろさうし』には数々の戦争をうたったオモロ(神歌)が収録されています。そのなかでは、琉球王国の軍隊のことを「しよりおやいくさ(首里親軍)」と呼んでいます。聞得大君に関するオモロを集めた巻では、全41首のうち、実に4分の1にあたる11首が戦争に関するオモロです。
古琉球時代では武装した神女(ノロ)が霊的なパワー(セヂといいます)を兵士たちに与え、戦争にのぞんでいた様子をうかがうことができます。沖縄には「イナグヤ戦ヌサチバイ(女は戦のさきがけ)」という言葉も残っています。当時は霊的なパワーも実際の戦闘力と同じように考えられていたので、兵士たちが戦う前には、両軍の神女たちがお互いの霊力をぶつけ合う合戦が行われていたようです(映画スターウォーズの“フォース”で戦う感じでしょうか)。
当時の琉球の人々はこの霊力(セヂ)の存在を本気で信じていたようです。島津軍が琉球侵攻の準備を着々と進めていた時期、琉球に渡航した中国の使者は、王府の高官たちに「日本が攻めてきそうだ。ちゃんと備えているのか」とたずねたところ、高官たちは「大丈夫です。我々には琉球の神がついております!」と自信満々に答えて使者を呆れさせたことがありました。
琉球の高官たちは、強力なフォースを持つ聞得大君をはじめとした神女たちが電撃ビームで島津軍の兵士たちを次々と倒していく光景を想像していたかのかもしれませんね。実際には戦国乱世をくぐりぬけてきた島津軍には全く通用しませんでしたが…
参考文献:上里隆史「古琉球の軍隊とその歴史的展開」(『琉球アジア社会文化研究』5号)
【追記】
先行研究で琉球の武器撤廃、刀狩の根拠とされたのは『百浦添欄干之銘』にある次の一節です。
其四曰服裁錦綉器用金銀専積刀剣弓矢以為護国之利器此邦財用武器他州所不及也
【読み下し】
其の四に曰く、
服は錦綉を裁ち、器は金銀を用い、
専ら刀剣・弓矢を積み、以て護国の利器と為す。
この邦の財用・武器は他州の及ばざる所なり。
【語句の意味:大漢和辞典より】
裁:衣服を作る
錦綉:錦と縫い取り(刺繍)
積:つむ。集める。たくわえる
刀剣:かたな
弓矢:(きゅうし)ゆみとや。弓箭
護国:国を護る
利器:鋭利な兵器。優れた道具
財用:金銀資材。資本
【解釈】
その四にいわく、服は錦と刺繍で作り、器は金銀を用い、もっぱら刀剣・弓矢を集めて、国を護るための武器とした。この国の金銀資材・武器は他国の及ぶところではない(他国よりも優れている)。
※前半で衣服・器、後半で武器について記述し、それをうけて「この邦の財用(→服・器)・武器(→刀剣・弓矢)」につながる文の構造となっています。
※「以為」は「おもえらく~」とも読めますが、そうすると「思うに国を護るための武器とした」となり、文章のつながりが少々おかしくなります。当時の漢文は禅僧(主に日本人)が作成していたことを考慮して、変体漢文で通常と異なる表記になった可能性を考える必要があります。いずれにせよ、どの読み方でも文章の意味が変わることはありません。
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コメント
とらひこさんの研究の原点ですよね。
朝鮮で「鬼石曼子」と恐れられた島津軍相手では、さしものノロパワーも意味がなかったようで・・・
投稿: 御座候 | 2007年11月14日 (水) 11:27
>御座候 さん
そうですね、いつのまにか対外史研究にシフトしてますが。
ノロパワーは効果ありませんでしたが、東アジア最強の軍隊に琉球はそこそこ健闘したと思いますよ。
投稿: とらひこ | 2007年11月14日 (水) 21:49
なのになんで沖縄古来の伝統武術に剣術や弓術とか
現在まで残ってないんですか?(私が知らないだけかも)
投稿: 金 淳樹 | 2007年11月14日 (水) 23:10
>金淳樹さん
古武術についてはあまり詳しくありませんが、弓術については王国時代にちゃんとあったようです。近世の冊封使の記録には弓を射る琉球人の絵も残されています。
古琉球時代には日本人が琉球王府の軍事顧問をしていたとの記録もあり、また王国の軍隊では軍事教練が行われていたという史料もあるので、剣術その他は確実に存在していたと考えたほうがいいでしょう。
なぜ残らなかったのかについては、確たる答えは出せませんが、近世琉球数百年のなかで軍事を必要としない社会状況から廃れていった可能性があります。
また琉球の「武」については日本ではなく、東アジア諸国をスタンダードにみたほうがいいように感じます。日本の「武」を尊ぶ気風はアジアでは特殊で、中国をはじめとした他の諸国はみな基本的に「文官」の国です。琉球の「武」のあり方もそれらと比較すべきだと思います。
投稿: とらひこ | 2007年11月15日 (木) 01:31
>「武器のない国」としてイメージ
>ナポレオンが武器のない琉球の話に驚いた
では、こういう話は何処から出てきたのでしょうか?
朝日・岩波文化人、非武装中立論者、憲法九条信者、この辺でしょうか?
投稿: いし | 2007年11月16日 (金) 01:31
>いしさん
そうした要因も含みますが、実は事情はもっと複雑です。この問題に関しては次回の記事で述べる予定です。
投稿: とらひこ | 2007年11月16日 (金) 06:36
朝鮮出兵の時も、開戦当初は日本軍の連戦連勝でしたもんね。戦国乱世で鍛え上げられた日本軍がメチャメチャ強かったのは間違いないでしょうね。
投稿: 御座候 | 2007年11月16日 (金) 10:13
>弓術も存在し、剣術その他もあった。
残っていれば当然内地と異なっていたものでこれはこれで見て見たい気がします。
>東アジアでは文尊武卑、日本は特殊。
高校時代に世界史で習いました。清朝でも李朝でも科挙で役人を採用する
官僚制度を整備しましたが琉球って科挙ってやってましたっけ?
投稿: 金 淳樹 | 2007年11月16日 (金) 23:27
>御座候さん
あの泗川の戦い経験者が琉球出兵に結構参加してるんですよね。朝鮮ですらあの状態だったのに、琉球の弱小ぶりを強調しすぎるのは(さらに琉球非武装説の根拠にするのは)適切ではない気がします。
>金淳樹さん
弓に関する記述は比較的残されているので、きちんと分析すれば意外とわかるかもしれませんよ。ただこれまでは、分析する人がいなかったわけです。
琉球は近世期に「科」と呼ばれる科挙風の試験を導入しています。
投稿: とらひこ | 2007年11月20日 (火) 10:14
>「武器のない国」としてイメージ
>ナポレオンが武器のない琉球の話に驚いた
では、こういう話は何処から出てきたのでしょうか?
名前は忘れたけど、琉球に立ち寄ったイギリス海軍の艦長が出版した本からだったはずです。
岩波文庫からも出版されていまよ(絶版になったのかもしれません)。本のタイトルは「琉球・朝鮮航海記」だったような気がします。この艦長が最後にセントヘレナ島のナポレオンのとこに立ち寄って「琉球には武器も貨幣も存在しない」という話をするとナポレオンが爆笑するという場面がその本の中にありました。
投稿: あ | 2012年9月 2日 (日) 02:45
>あさん
コメントありがとうございます。春名徹先生の訳の本ですよね。
東京にいた時、一緒にその先生と勉強会をしていたことを思い出します。
投稿: とらひこ | 2012年9月 2日 (日) 22:03
はじめまして、コメントさせて頂きます。
中国歴代王朝や李氏朝鮮の文尊武卑の姿勢は儒教(特に朱子学)の影響が大きいものだと思っています。
程順則という士族の儒者が久米の孔子廟境内に琉球王朝最初の公的な学校である明倫堂を創設し、四書五経他経書の教育を行ったそうですが、尚氏琉球での朱子学の扱いはどのようなものだったのでしょうか。(例えば、明朝や李氏朝鮮のように国教化されたのかどうか。)
投稿: 志士 | 2014年1月12日 (日) 09:08
>志士さん
はじめまして。ご指摘の儒教に関して、琉球では国教化とまではいきませんが、国が主体となって普及させるのは17世紀以降になります。
本格的な朱子学導入は薩摩の儒学者、泊如竹によるものと伝えられ、さらに時代が下ると近世琉球の中国文化の積極的導入で、中国系久米村のみで行われていた儒教祭祀が国家レベルに格上げされたり、庶民間に儒教テキストが普及したりします。
ただし琉球は中国の朝貢国で、政治機構も中国の「王府制度」をある程度模倣する形で成立していきますから(内実は独自の政治システムではありますが)、中国からの間接的な影響もあるかと思います。
投稿: とらひこ | 2014年1月18日 (土) 13:48
>>とらひこさん
返信遅れまして申し訳ありません。ご教授ありがとうございます。
琉球王国で儒教が本格的に普及したのは、李氏朝鮮や江戸幕府よりも後だったのですね。
君主への忠孝を説く儒教(特に朱子学)は支配階層(日本:将軍・大名 朝鮮:両班)にとって便利なので琉球でも支配思想として用いられていたのだと考えていました。
投稿: 志士 | 2014年3月 5日 (水) 13:04
>志士さん
中世においては在来の信仰が強固にあり、近世期にそうした伝統に代わる思想として儒教を採用したようですね。
投稿: とらひこ | 2014年3月 6日 (木) 22:02