« 2007年10月 | トップページ | 2007年12月 »

2007年11月27日 (火)

琉球国際シンポ参加記(1)

Cimg2282_2

11月17日、イギリスのロンドン大学アジア・アフリカ研究所(SOAS)にて「珊瑚礁の王国-琉球諸島の考古学・文化シンポジウム」が、11月23・24日には琉球大学にて「第11回琉中歴史関係国際学術会議」が開催され、僕も報告をしました。この2つの国際学会の様子を簡単に紹介したいと思います。

ロンドンのシンポジウムはヨーロッパにおける東アジア考古学の第一人者、リチャード・ピアソン氏の提唱で開催されたもので、琉球・沖縄の考古学を中心テーマに報告が行われました。実は「琉球」をテーマにしたシンポジウムはイギリスで初めてとのこと。この史上初の試みに僕も参加できたことは光栄でした。報告の内容は突っ込んだ細かい議論というよりも、現在の沖縄考古学での主要な研究テーマ・論点を紹介する感じでした。

安里嗣淳氏は沖縄考古学の主要テーマ紹介、安里進氏が13世紀(英祖王代)浦添の琉球史上での位置づけを、亀井明徳氏が沖縄出土の中国陶磁器について、木下尚子氏が琉球諸島の貝交易と東アジア交流について、新里亮人氏が徳之島カムィヤキとその流通について、高宮広土氏が港川人など旧石器、貝塚時代人からグスク時代人への変遷について、ARNE ROKKUM氏(オスロ大教授)が八重山アカマタ・クロマタの祭礼や神女などの文化人類学的な考察をそれぞれ行いました。僕(上里隆史)の報告は文献史学から王国統一以降の都市(首里・那覇)における建築の問題を、寺院やグスクに注目するかたちで分析するという内容でした。

会場はたくさんの聴衆でした。聞くとイギリスでは「琉球」はほとんど認知すらされていないようで、そのなかで多くの参加者が集まったことは成功だったといえるのではないでしょうか。討論ではなぜか木下氏の貝交易に関する質問が集中しましたが、おそらく参加者が日本研究、とくに考古学に関心のある方々で、貝交易については弥生時代など自らがよく知る分野と密接に関わるテーマだったので質問しやすかったのではないでしょうか。

ピアソン氏は常々、琉球諸島考古学の東アジア研究における重要性を力説しておられ、今回のシンポジウムは氏の尽力で実現した画期的なものだったといえます。その内容は論文集として刊行される予定なので、さらに欧米圏で「琉球」の認知度が高まることになるでしょう。

あとシンポジウムのフィナーレは、ホールに移動してイギリスの三線隊による「安里屋ユンタ」やエイサー、カチャーシーでした(笑)ヨーロッパではマジメな学術会議をやるにしても遊び心があるというか洗練されているというか、日本の堅苦しい雰囲気とはどこか違いますね。イギリスの参加者が沖縄文化を肌で感じることができるニクイ演出だったと思います。

追記:本シンポジウムが「沖縄タイムス」2007年12月1日夕刊で取り上げられました。

記事は【こちら

↓ランキング投票よろしくお願いします(緑のボタンをクリック)

banner

| | コメント (4)

2007年11月21日 (水)

武器のない国琉球?(2)

それでは近世(江戸時代)の琉球はナポレオンが聞いたように「武器のない国」だったのでしょうか。答えは「ノー」です。

たしかに薩摩に征服されてからは、かつてのように琉球王府が自在に動かせるような軍隊はなくなったようです。そのかわり琉球の防衛は、幕藩制国家のなかの薩摩藩が担当することになりました(「琉球押えの役」といいます)。

薩摩藩は琉球に軍隊を常駐させることはありませんでしたが、有事の際には薩摩からただちに武装した兵士たちが派遣されました。つまり琉球は近世日本の安全保障の傘に入っていたのです。琉球は薩摩藩の支配下に入っていたので、当たり前といえば当たり前です。

また琉球の貿易船が出港する際には、薩摩藩から貸与された鉄砲や大砲を装備して海賊の襲撃に備えていました。琉球国内では鉄砲以外の武器の個人所有は禁止されていませんでした。その証拠に、戦前には士族の所蔵していた武器の展覧会が開かれたこともあります。

それに注意しなくてはいけない点がひとつ。近世の琉球はたしかに大きな戦争もなく「平和」な状況が何百年も続きましたが、それは琉球だけにかぎったことではありません。江戸時代の日本は「天下泰平」といわれた、かつてないほど平和だった時代。もともと軍人であった武士も、戦いより学問や礼儀を重んじる官僚となっていきます。さらに周辺諸国でも大きな戦争はなく、それ以前の時代では考えられないほど東アジア世界全体が「平和社会」となっていた時代だったのです。琉球だけが平和だったのではありません。

さらにナポレオンが聞いた話は、琉球を訪れた欧米人バジル・ホールの体験談であって、彼は琉球社会のほんの一部分を見て判断していたにすぎません。ホールはさらに「琉球には貨幣もない」とまで言い切っています(もちろんそんなことはありません)。

琉球の「武器のない国」というイメージはどのように作られ、広がっていったのでしょうか。それは琉球を訪れた欧米人の体験談が、19世紀アメリカの平和主義運動のなかで利用されていった経緯があります。好戦的なアメリカ社会に対し、平和郷のモデルとして自称琉球人のリリアン・チンなる架空の人物が批判するという書簡がアメリカ平和団体によって出版され、「琉球=平和郷」というイメージが作られました。このアメリカ平和主義運動で生まれた琉球平和イメージ、史料の解釈の読み違いから出た非武装説に加え、さらに戦後の日本で流行した「非武装中立論」や「絶対平和主義」が強く影響して、今日の「武器のない国琉球」のイメージが形作られていったのです。

そもそも琉球史の戦争をめぐる問題の核心は、武器があったかどうかという単純な話ではなく、琉球という国家が自らの政治的意志を達成するために、暴力(軍事力)を行使する組織的な集団を持っていたかどうかを探ることです。武器はあくまでもその組織(軍隊)が目的を達成するための道具にすぎません。これまで「軍隊とは何か、戦争とは何か」という問題が非常にあやふやなまま議論されてきたのではないでしょうか。

このような僕の意見に対して「事実そのものにこだわっていて物事の片面しか見ていない。この言説を生んだ沖縄の平和を求める心こそが大事なのだ」という批判がありましたが、僕はそうは思いません。沖縄の平和を求める心が大切なのは同意しますが、これまではそればかりを強調して、歴史の実態を見てこなかった(もしくは知りながら見ようとしなかった)のが問題だったと思います。つまり物事の片面しか見てこなかったのです。

医者が患者を治すため病気の実態を研究するように、平和を求めるのは何も「戦場」の悲惨さを訴えるだけではないと思います。病気の恐ろしさと健康を求める心を訴えることも大事でしょうが、病気(軍事・戦争)の実態を探ること、それを僕は大事にしたいし、“治療”にもつながるものだと思っています。 

参考文献:照屋善彦「『リリアン=チン書簡』再考」(『琉大史学』12号)

【追記】:琉球王国はたしかに「武器のない国」ではありませんでした。ですが、それをもって超武装国家だった、というのもまた誤りです。軍事力としては総力をあげても4000人程度のもので、必要最低限の「軽武装国家」でした。何よりも、他のアジア諸国と同じように「武」より「文」が上位に位置付けられる社会だったことは間違いありません。「武」を上位に位置づける日本がアジアでは特殊なのです。

琉球王国が周辺離島を征服したことをもって、島津の征服を肯定する意見も的外れだと思います。それは幼稚園児が自分が悪いことをして、「○○君もやってるじゃん」と先生に注進し、自らを免罪しようとするのと同じようなレベルに感じます。大事なのは冷静に歴史的事実をとらえ、そこに安易な善悪の価値判断を求めない姿勢ではないでしょうか。それこそが歴史を見ていく基本的な姿勢だと僕は思います。

↓ランキング投票よろしくお願いします(緑のボタンをクリック)

banner

| | コメント (14)

2007年11月14日 (水)

武器のない国琉球?(1)

琉球といえば、「武器のない国」としてイメージされる場合が多いと思います。平和を希求する尚真王が武器を捨て世界にさきがけて“非武装国家宣言”をしたとか、ナポレオンが武器のない琉球の話に驚いたというエピソードも、これらを根拠づけるものとしてよく引き合いに出されます。

しかし歴史を詳しく調べていくと、事実は全くちがうことがわかります。まず尚真王は武器も廃棄していないし、“非武装国家宣言”も出していません。刀狩りの根拠とされた「百浦添欄干之銘」(1509年)という史料にはこう書かれています。

「もっぱら刀剣・弓矢を積み、もって護国の利器となす。この邦の財用・武器は他州の及ばざるところなり」

刀狩り説は、これを「武器をかき集めて倉庫に積み封印した」と解釈していました。しかしこの文を現代風に訳すると、何と「(尚真王は)刀や弓矢を集めて国を守る武器とした。琉球の持つ財産や武器は他国の及ぶところではない(他国より金と軍備を持っている)」という意味になるのです。尚真王は武器を捨てるどころか、軍備を強化しているのです。

実際に1500年の王府軍による八重山征服戦争では軍艦100隻と3000人の兵が動員され、1609年の薩摩島津軍の侵攻に対しては、琉球は4000人の軍隊で迎え撃ち、最新兵器の大砲でいったんは島津軍を阻止しています。

尚真王が軍備を廃止した事実はなく、この時期にそれまでの按司のよせ集めだった軍団から、王府指揮下の統一的な「琉球王国軍」が完成したというのが真実なのです。再度強調しますと、琉球は刀狩りやそれに関連するような政策は一切とっていません

古琉球の歌謡集『おもろさうし』には数々の戦争をうたったオモロ(神歌)が収録されています。そのなかでは、琉球王国の軍隊のことを「しよりおやいくさ(首里親軍)」と呼んでいます。聞得大君に関するオモロを集めた巻では、全41首のうち、実に4分の1にあたる11首が戦争に関するオモロです。

古琉球時代では武装した神女(ノロ)が霊的なパワー(セヂといいます)を兵士たちに与え、戦争にのぞんでいた様子をうかがうことができます。沖縄には「イナグヤ戦ヌサチバイ(女は戦のさきがけ)」という言葉も残っています。当時は霊的なパワーも実際の戦闘力と同じように考えられていたので、兵士たちが戦う前には、両軍の神女たちがお互いの霊力をぶつけ合う合戦が行われていたようです(映画スターウォーズの“フォース”で戦う感じでしょうか)。

当時の琉球の人々はこの霊力(セヂ)の存在を本気で信じていたようです。島津軍が琉球侵攻の準備を着々と進めていた時期、琉球に渡航した中国の使者は、王府の高官たちに「日本が攻めてきそうだ。ちゃんと備えているのか」とたずねたところ、高官たちは「大丈夫です。我々には琉球の神がついております!」と自信満々に答えて使者を呆れさせたことがありました。

琉球の高官たちは、強力なフォースを持つ聞得大君をはじめとした神女たちが電撃ビームで島津軍の兵士たちを次々と倒していく光景を想像していたかのかもしれませんね。実際には戦国乱世をくぐりぬけてきた島津軍には全く通用しませんでしたが…

参考文献:上里隆史「古琉球の軍隊とその歴史的展開」(『琉球アジア社会文化研究』5号)

【追記】

先行研究で琉球の武器撤廃、刀狩の根拠とされたのは『百浦添欄干之銘』にある次の一節です。

其四曰服裁錦綉器用金銀専積刀剣弓矢以為護国之利器此邦財用武器他州所不及也

【読み下し】
其の四に曰く、

服は錦綉を裁ち、器は金銀を用い、

専ら刀剣・弓矢を積み、以て護国の利器と為す。

この邦の財用・武器は他州の及ばざる所なり。

【語句の意味:大漢和辞典より】
裁:衣服を作る

錦綉:錦と縫い取り(刺繍)

積:つむ。集める。たくわえる

刀剣:かたな

弓矢:(きゅうし)ゆみとや。弓箭

護国:国を護る

利器:鋭利な兵器。優れた道具

財用:金銀資材。資本

【解釈】
その四にいわく、服は錦と刺繍で作り、器は金銀を用い、もっぱら刀剣・弓矢を集めて、国を護るための武器とした。この国の金銀資材・武器は他国の及ぶところではない(他国よりも優れている)。

※前半で衣服・器、後半で武器について記述し、それをうけて「この邦の財用(→服・器)・武器(→刀剣・弓矢)」につながる文の構造となっています。

※「以為」は「おもえらく~」とも読めますが、そうすると「思うに国を護るための武器とした」となり、文章のつながりが少々おかしくなります。当時の漢文は禅僧(主に日本人)が作成していたことを考慮して、変体漢文で通常と異なる表記になった可能性を考える必要があります。いずれにせよ、どの読み方でも文章の意味が変わることはありません。

↓ランキング投票よろしくお願いします(緑のボタンをクリック)

banner

| | コメント (15)

2007年11月 5日 (月)

名護聖人のお宝

琉球は中国との交流で様々な文物が入ってきました。唐物(からもの)と呼ばれる高価な陶磁器や絵画・書など、日本ではなかなか手に入らない貴重なお宝が琉球にはたくさんあったのです。唐物は中国に滞在した琉球使節が個人的に購入することもありました。

「名護聖人」と呼ばれ学者として有名な程順則(名護親方)も朝貢の使者として中国へ何度もおもむき、様々なお宝を買い求めています。彼は熱心なお宝コレクターでもあったのです。そのなかで、彼は何と朱子学の祖として有名な朱子(朱熹)直筆の書を天津でゲットしています。朱子学といえば東アジア各国に絶大な影響を与えた儒教思想で、その祖の直筆はまさにスーパープレミアムなお宝。これを手に入れた程順則はおどり上がって喜んだはずです。

Photo_3 この朱子直筆の書は名護家の家宝になります。その書は14文字で、記録によると「香は翰院(翰林院)より飛んで川野をおおい、春を南橋に報じて畳翠(青葉の茂ってるさま)新たなり」と書かれていたといいます【画像。クリックで拡大】。

琉球を訪れた中国の使者(冊封使)たちも、こぞってこのお宝を拝見しようと名護家を訪問しています。例えば1800年に来琉した副使の李鼎元(りていげん)は一度お宝を見ようとして断られ、再度、正使とともに名護家を訪れてようやくこの書と対面しています。彼らは中国皇帝の代理です。それほどの人物ですらやすやすとお目にかかれない秘宝だったのです。名護家の家系記録にはお宝を絶賛する中国の使者たちの文章が多数載せられています。

今、この朱子の書が現存していれば間違いなく国宝クラスでしょう。王国滅亡後の混乱や戦争で多くが失われてしまいましたが、かつての琉球は「お宝の島」だったことをこれらの事例はおしえてくれます。

参考文献:真栄平房昭「琉球王国に伝来した中国絵画」(『沖縄文化』100号)、原田禹雄訳注・李鼎元『使琉球記』、「程氏家譜」

↓ランキング投票よろしくお願いします(緑のボタンをクリック)

banner

| | コメント (4)

« 2007年10月 | トップページ | 2007年12月 »