100年前のグウタラ対談
100年前の「琉球新報」にはまだまだ面白い対談があります。今回は大正時代のダメダメさんたちの対談です。以下に紹介するのは当時そのままの文章で、決して僕の創作ではないことにご注意。
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◎対話(琉球新報・大正2年9月18日)
場所:バクチャ屋(那覇の辻付近)に近き墓と墓の間の芝生、月は無けれど星の降るような晴れたる夜。風なく蒸し蒸しする晩なり。前方のかなた、闇に包まれたる海、波立たず夢のごとくに映る。後ろの方、廓内より三味線の音とともに艶めかしき歌など聞こゆ。墓地のかなたの方に2、3人連れ酔客彷徨(*)す。男2人ビール瓶に酒を満たしラッパ呑みに飲みつづけながら帰る。連れの娼妓2人を背にし、やや離れたるところにて■のうなるように歌を歌う。
甲の人「・・・本当に君、何か方法を尽くして僕は生活を変えなくちゃならないね。モット真実な心持ちで自分で尊敬ができるような生活をたどるようにして、今みたような(今みたいな)、こうしたグウタラな生活から脱したい。真実そう思うんだから・・・」
乙の人「むろん生活の転換は早晩こなくちゃならないさ。今通りの生活をいつまでも続けていられるものか。だが生活転換の一方法として君が内職をするとしても、一切酒色の誘惑が断たれると思うのか。一心になって仕事はするはずだが、今まで荒らし歩いた廓の華やかさに心が引かれないという事が一切ないと思うのか。
思い出すと浮き浮きとした心持ちに飛び出すはずだよ。今のグウタラな生活をなぜ恐れる、あくまで続けてみるさ。酒も飲む、女郎も買うさ、して仕事も全力をあげて勤めていけば心もすく暇はなくてクヨクヨ思うこともないさ」
甲の人「それくらいの元気があるなら何も思わないさ。が、夜遅くまで酒を飲んだり女と夜をふかしたりすると、もう翌日ダルクテ頭の中がねばついているようで物憂くもなるし、また何でもないのに恐怖に襲われたりして無為に1日を暮らすのが怖い。こうしていたずらに身心を腐らせていって、末はどうなるかと思えば心細くもなる。
僕は4、5日前、母が10銭(今の価値で500円)くらいの駄菓子を買ってお寺参りに行く後姿を見て泣くにも泣かれない気になっていた。アノヨボヨボした母の姿、黒焦げになってアノ年まで働く母の苦労を思うて、ツイツイ不甲斐なき身が呪わしくなる。
貧乏の家庭で貧しく育つのだから兄姉の仲も面白くはない。1日だって家族とともに楽しんだということはない。家が面白くないのだから飛び出して歩きまわるが、何ら帰趨(*)するところもないから、一生こうヤキモキで暮らし終わるだろう。40か50くらいになって落ち着く頃になると、どこか場末の裏長屋で呑気な鼻歌を歌うだろう。夏になっても暑苦しい袷(*)を着て貧乏ゆすりで模合金(*)の5、60銭(今の価値で3000円)を調達に駆けまわったりするはずだろう」
(女2人に挨拶もせず静かに彼方、廓内へ降りて行く)
乙の男「いくら栄達を望んだところで達し得られないのだから生きられるだけ生きてみるさ。僕だって同じさ。家に万の金を貯えて、雇い人も数人使役し、西洋間の一室くらいあって、そこで気楽に寝起きができれば道楽も思いきっての道楽をするし、妾の2、3人は養って君らみたいな貧乏人は1年も2年も遊ばしておいて娼妓の1人くらい引かせて(*)進上するね。アア金が欲しい、金なるかなだ。マネー、イズ、アウルマイテイ(Money is almighty)だよ」
甲の人「ん、あいつめ(連れの娼妓)は逃げやがったねー。こんな心細い話をするのだから愛想を尽かして帰ったんだよ。いいさ僕が惚れてるんでなし、心安くしてくれるんだから行き行きしていただけだ。愛想尽かしを喰えば結局幸いだ。
だが僕はツクヅク女郎に金を貢ぐというのが馬鹿馬鹿しくなったね ―と言ってもたかだか月に5円(今の価値で2万5000円)もやってはいないが― 底ぬけ騒ぎで思う存分遊ぶのが真実楽しいならそれだけの報いに金もつかうが、もう酒飲んで遊ぶというのも大して興味がなくなったし、心底から女に惚れるという心の張りもないし、縦し(たとえ)したたか惚れてみたところで女郎と一生の苦楽をともにすることなどはできた話でもないのに切々と通って、いったい何で金を使うのか疑わしくなるね。本当にふるいつきたいほどの新生活を開拓しなくては浮かぶ瀬はないね」
乙の人「とにかくお互いに生活難などと話はするが、体全体を震撼するほどまでに痛切に感じないからこうグウタラな日を送っているはずさね。何か魂を振るわすような新奇な驚異なものにでもブッつからなきゃ駄目だろう。結局内容が僕らは貧弱だ。生活に対する奮闘力がとぼしいからこう苦しむのだ。時代の罪だ、社会が悪いんだ」
(おわり)
*彷徨(ほうこう) …当てもなく歩き回ること。さまようこと。
*帰趨(きすう) …行き着くところ。
*袷(あわせ) …裏地をつけて仕立てた着物。秋から春先にかけて用いる。あわせの衣。
*模合(もあい) …頼母子講や無尽講の一種で、広く沖縄の庶民に親しまれている相互扶助的な金融のしくみ。
*引かす …芸者・遊女などの借金を払って、自由な身にしてやる。身受けする。
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二人の対談によると、結局時代と社会が悪いそうです(苦笑)。これって今でもしばしば耳にするような・・・
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コメント
はじめまして、週末(最近月刊?)ブロガーのり坊と申します。
「百年前の2ちゃんねる」のはなしは、どれも面白いですね。
こうしたスッバラシイもの発掘、紹介いただき感謝。
普天間かおりの「芭蕉布」、夏川りみ「涙そうそう」、「島人の宝」BEGIN,、「南の島」bkoz,おおたか静流「花」、いいなあ、今聞いてた。
人生の楽しみからぼやき、ひと(のつま?)を恋う話、クレーマー、空想ではないホンモノの生活とあの時代の感触。
そのうえ、記事の言葉ににじむおかしみとユーモア。
メディア上でのうんざりするやり取り、オフ会の提案まであって、でも、いまのネットコミュニティとちがい直接のきつい反応はなく、どこかにゆとり。
新聞で読んで投書、デスクでのフィルターなど、時間と手間がかかっていることが、逆によかったのでしょうね。
明治維新から、たった五十年後の頃なのに市井の名も無き(ハンドルネームはあった!)庶民の表現力や、コモンセンスにも、全く感心しますね。
大正とは、やや伸び伸びもできた良き時代だったのかもしれないな。その後の琉球の人たち、大変だったのですよね。
僕らのこれは、100年後、見てくれる人いるのだろうか?。
もっとも、ひとは100年後も、おなじような楽しみや悩みを持って、やってるんでしょうけどね。
投稿: のり坊 | 2007年11月 3日 (土) 22:05
>のり坊さん
訪問ありがとうございます。戦前の新聞を調べていくなかでたまたま見つけたのですが、これほど当時の沖縄の人々の様子をリアルに表わす資料は他にはないと思います。
おっしゃるように100年前も今も、そして100年後もそれほど変わらないでしょうね。
投稿: とらひこ | 2007年11月 4日 (日) 23:22