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2007年10月30日 (火)

100年前のグウタラ対談

100年前の「琉球新報」にはまだまだ面白い対談があります。今回は大正時代のダメダメさんたちの対談です。以下に紹介するのは当時そのままの文章で、決して僕の創作ではないことにご注意。

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◎対話(琉球新報・大正2年9月18日)

場所:バクチャ屋(那覇の辻付近)に近き墓と墓の間の芝生、月は無けれど星の降るような晴れたる夜。風なく蒸し蒸しする晩なり。前方のかなた、闇に包まれたる海、波立たず夢のごとくに映る。後ろの方、廓内より三味線の音とともに艶めかしき歌など聞こゆ。墓地のかなたの方に2、3人連れ酔客彷徨(*)す。男2人ビール瓶に酒を満たしラッパ呑みに飲みつづけながら帰る。連れの娼妓2人を背にし、やや離れたるところにて■のうなるように歌を歌う。

甲の人「・・・本当に君、何か方法を尽くして僕は生活を変えなくちゃならないね。モット真実な心持ちで自分で尊敬ができるような生活をたどるようにして、今みたような(今みたいな)、こうしたグウタラな生活から脱したい。真実そう思うんだから・・・」

乙の人「むろん生活の転換は早晩こなくちゃならないさ。今通りの生活をいつまでも続けていられるものか。だが生活転換の一方法として君が内職をするとしても、一切酒色の誘惑が断たれると思うのか。一心になって仕事はするはずだが、今まで荒らし歩いた廓の華やかさに心が引かれないという事が一切ないと思うのか。

思い出すと浮き浮きとした心持ちに飛び出すはずだよ。今のグウタラな生活をなぜ恐れる、あくまで続けてみるさ。酒も飲む、女郎も買うさ、して仕事も全力をあげて勤めていけば心もすく暇はなくてクヨクヨ思うこともないさ」

甲の人「それくらいの元気があるなら何も思わないさ。が、夜遅くまで酒を飲んだり女と夜をふかしたりすると、もう翌日ダルクテ頭の中がねばついているようで物憂くもなるし、また何でもないのに恐怖に襲われたりして無為に1日を暮らすのが怖い。こうしていたずらに身心を腐らせていって、末はどうなるかと思えば心細くもなる。

僕は4、5日前、母が10銭(今の価値で500円)くらいの駄菓子を買ってお寺参りに行く後姿を見て泣くにも泣かれない気になっていた。アノヨボヨボした母の姿、黒焦げになってアノ年まで働く母の苦労を思うて、ツイツイ不甲斐なき身が呪わしくなる。

貧乏の家庭で貧しく育つのだから兄姉の仲も面白くはない。1日だって家族とともに楽しんだということはない。家が面白くないのだから飛び出して歩きまわるが、何ら帰趨(*)するところもないから、一生こうヤキモキで暮らし終わるだろう。40か50くらいになって落ち着く頃になると、どこか場末の裏長屋で呑気な鼻歌を歌うだろう。夏になっても暑苦しい袷(*)を着て貧乏ゆすりで模合金(*)の5、60銭(今の価値で3000円)を調達に駆けまわったりするはずだろう」

(女2人に挨拶もせず静かに彼方、廓内へ降りて行く)

乙の男「いくら栄達を望んだところで達し得られないのだから生きられるだけ生きてみるさ。僕だって同じさ。家に万の金を貯えて、雇い人も数人使役し、西洋間の一室くらいあって、そこで気楽に寝起きができれば道楽も思いきっての道楽をするし、妾の2、3人は養って君らみたいな貧乏人は1年も2年も遊ばしておいて娼妓の1人くらい引かせて(*)進上するね。アア金が欲しい、金なるかなだ。マネー、イズ、アウルマイテイ(Money is almighty)だよ」

甲の人「ん、あいつめ(連れの娼妓)は逃げやがったねー。こんな心細い話をするのだから愛想を尽かして帰ったんだよ。いいさ僕が惚れてるんでなし、心安くしてくれるんだから行き行きしていただけだ。愛想尽かしを喰えば結局幸いだ。

だが僕はツクヅク女郎に金を貢ぐというのが馬鹿馬鹿しくなったね ―と言ってもたかだか月に5円(今の価値で2万5000円)もやってはいないが― 底ぬけ騒ぎで思う存分遊ぶのが真実楽しいならそれだけの報いに金もつかうが、もう酒飲んで遊ぶというのも大して興味がなくなったし、心底から女に惚れるという心の張りもないし、縦し(たとえ)したたか惚れてみたところで女郎と一生の苦楽をともにすることなどはできた話でもないのに切々と通って、いったい何で金を使うのか疑わしくなるね。本当にふるいつきたいほどの新生活を開拓しなくては浮かぶ瀬はないね」

乙の人「とにかくお互いに生活難などと話はするが、体全体を震撼するほどまでに痛切に感じないからこうグウタラな日を送っているはずさね。何か魂を振るわすような新奇な驚異なものにでもブッつからなきゃ駄目だろう。結局内容が僕らは貧弱だ。生活に対する奮闘力がとぼしいからこう苦しむのだ。時代の罪だ、社会が悪いんだ」

(おわり)

彷徨(ほうこう) …当てもなく歩き回ること。さまようこと。
帰趨(きすう) …行き着くところ。
(あわせ) …裏地をつけて仕立てた着物。秋から春先にかけて用いる。あわせの衣。
模合(もあい) …頼母子講や無尽講の一種で、広く沖縄の庶民に親しまれている相互扶助的な金融のしくみ。
引かす …芸者・遊女などの借金を払って、自由な身にしてやる。身受けする。

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二人の対談によると、結局時代と社会が悪いそうです(苦笑)。これって今でもしばしば耳にするような・・・

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2007年10月23日 (火)

海港都市シンポのお知らせ

またまたシンポジウムのお知らせです。ワタクシ「とらひこ」が報告します。少々専門的な集まりですが、お近くで興味のある方、是非お越しください。今回のシンポのキーワードは「港町のなかの宗教」です。最新の琉球史研究を紹介したいと思います。

2007年度 広島史学研究会大会プログラム

10月27日(土)

シンポジウム(13時00分~17時30分)  広島大学大学院文学研究科リテラ(B204教室)

テーマ「中・近世期の港湾都市と海域世界のネットワーク-海・都市・宗教-」

「戦国大名領国の国際性と海洋性」 
鹿毛敏夫(新居浜工業高等専門学校)

「15~17世紀における琉球那覇の海港都市と宗教」 
上里隆史(法政大学沖縄文化研究所)

「近世初頭の東地中海-オスマン帝国とエジプト海港社会-」 
堀井優(広島修道大学)

ディスカッサント
深沢克己(東京大学) 本多博之(広島大学)

議長団
井内太郎(広島大学) 岡 元司(広島大学)

※なお、本年度シンポジウムは、文部科学省科学研究費特定領域研究「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成-寧波を焦点とする学際的創生-」海域分野との共催でおこなわれます。

(シンポジウムの詳しい内容はこちら

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2007年10月20日 (土)

新聞コラムで紹介!

「沖縄タイムス」2007年10月17日夕刊の一面「今晩の話題」で拙著『目からウロコの琉球・沖縄史』をご紹介いただきました!

タイムスホームページで読めますので、よろしければのぞいてみてください。

記事は【こちら

伊禮さん、どうもありがとうございました!

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2007年10月16日 (火)

東芝シンポジウムのお知らせ

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突然ですがシンポジウムのお知らせです。

「珊瑚礁の王国-琉球諸島の考古学・文化シンポジウム」(11月17日・ロンドン大学アジア・アフリカ研究所カリリ会場)

Kingdom of the Coral Seas: A Symposium on the Archaeology and Culture of the Ryukyu Islands
SATURDAY | 17 NOVEMBER | 10AM-5PM
Khalili Lecture Theatre, SOAS, 

ASATO SHIJUN(安里嗣淳)
Director Emeritus, Okinawa Prefecture Archaeology Center
Archaeology of the Ryukyus: Major themes

ASATO SUSUMU(安里進)
Professor, Okinawa Prefectural University of the Arts
Urasoe and its Significance in the Emergence of the Ryukyu Kingdom

KAMEI MEITOKU(亀井明徳)
Professor, Senshu University
The Significance of Chinese Trade Ceramics from Ryukyu

KINOSHITA NAOKO(木下尚子)
Professor, University of Kumamoto
Ryukyu Shell Exchange and its Links to East Asia

ARNE ROKKUM
Professor, University of Oslo
The Kingdom of Ryukyu: Culture, Politics, Mentality

SHINZATO AKITO(新里亮人)
Archaeologist, Board of Education, Isen Township, Tokunoshima
Kamuiyaki and Early Trade in the Ryukyu Islands

TAKAMIYA HIROTO(高宮広土)
Professor, Sapporo University
Okinawa’s Earliest Inhabitants and Life on the Coral Islands

UEZATO TAKASHI(上里隆史)
Research Associate, Institute for the Study of Okinawan Culture, Hosei University
The Architectural Landscape of the Old Ryukyu Kingdom

(詳しい内容はこちら

僕は「古琉球王国の建築のランドスケープ」という題で報告します。僕の専門は文献史学で考古学ではないのですが、古琉球の歴史展開のなかでの建築の諸問題を考古学の成果をまじえながら論じようと思っています。

海外では琉球史という分野はとてもマイナーです。最近になって、琉球史が沖縄だけでなくアジア海域史や世界史を考察する際にも重要な意義を持つことが認識されはじめています。というわけで海外でちょっと琉球史の宣伝をしてきます。シンポジウムの様子は後日にでも。このブログをご覧の方でイギリスの近所にお住まいの方は是非お越しくださいませ。

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2007年10月 7日 (日)

赤瓦カッコワルイ

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赤瓦(あかがわら)は沖縄の伝統的な瓦で、首里城や古い民家などの歴史的な建物に使われています。現在でも「琉球的」な雰囲気を出すために、積極的に現代建築に採用されていますね。

この赤瓦に関して、最近首里城の発掘調査でおもしろいモノが発見されました。首里城の大奥に当たる御内原(おうちばる)という地点から、なんと黒く塗られた赤瓦がいくつも見つかったのです。これは単に泥がついて黒く汚れていたのではなく、マンガンという黒色の鉱物がうわぐすり(釉)として塗られています。つまり、赤瓦をわざと黒くしているのです。

これらの黒い赤瓦(?)は地層がかく乱された層から見つかっているので、いつの時代のものかははっきりわかりません。しかし赤瓦ができた歴史を考えてみると、この謎に対してある想定が可能です。

なぜ赤瓦をわざわざ黒く塗ったのか?それは当時の人が赤瓦を「カッコ悪い」と感じていたからではないかと考えられるのです。琉球にはもともと赤瓦は存在していませんでした。高麗系瓦やヤマト系瓦など灰色や黒色の瓦しかなく、瓦自体もそれほど一般的ではなかったのです。近世(江戸時代)以前は首里城の正殿は瓦ぶきではなく、ヤマト風の板ぶき屋根でした。

それが近世の18世紀頃になると、琉球でも瓦ぶきの建物がどんどん造られていきます。瓦を大量生産しなくてはならなくなり、手間ひまをかけて製造することができなくなります。その結果、丁寧に焼いて造られる灰色や黒色の瓦ではなく、コストのかからない赤瓦がたくさん造られたのです。つまり赤瓦は最初からそれを造ろうとして生まれたのではなく、粗製乱造の結果、生まれたものだったわけです。

現代の私たちは赤瓦を誇りある「琉球伝統」の美しい瓦だと考えますが、登場した当初、琉球の人々には非常に不恰好で粗悪なものに見えたにちがいありません。なにしろ灰色・黒色の瓦しかそれまで存在していなかったわけですから。

そこで困った人々はどうしたかというと、赤瓦をわざと黒く塗って、当時の人たちが考える「本来の瓦」のように見せかけたのではないかと考えられるのです。やがて赤瓦は普及していき、黒く塗られることもなくなって琉球の風景のなかに溶け込んでいきました。黒瓦よりも赤瓦が一般的になり、カッコ悪いと感じる人がいなくなっていったわけです。

【画像】は喜名番所(読谷村)の黒瓦。多数の黒瓦が出土した発掘調査をもとに復元された。かつての「琉球伝統」瓦建物の姿をしのぶことができる。(クリックで拡大)

※マンガン釉の赤瓦については、沖縄県立埋蔵文化財センターの山本正昭さんよりご教示いただきました。ありがとうございました。

参考文献:沖縄県立埋蔵文化財センター編『首里城跡-御内原西地区発掘調査報告書-』

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