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2007年9月20日 (木)

いざ中国へ

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9月20日~27日まで沖縄タイムス創刊60周年企画「シルクロードと琉球」ツアーの現地同行講師として中国福建(福州・湄州島・泉州)、杭州、上海へ行ってきます(詳細はこちら)。

こちらのコースは「海のシルクロード」をめぐる旅です。くわえて琉球の大交易時代との関わりも探っていきます。

タイムス社企画ということで、ツアーには記者さんも同行して旅行の様子などを新聞で報道するようです。沖縄の方はよろしければ沖縄タイムスをチェックしてみてください。

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コメント

とらひこさん,質問があります

Do you know 七島(吐噶喇) belong to 琉球 in history?

and “Do you know 七島(吐噶喇) belong to 琉球 in history”は日本語で何ですか

ありがとうございます

投稿: 瀛洲 | 2007年9月20日 (木) 00:15

>瀛洲さん
你説的是、知不知道七島在歴史上属于琉球的事?

日文:あなたは歴史上、七島が琉球に属しているのを知っていますか?

中世、七島は琉球と日本の境界で、どちらの側にも完全に属しているという存在ではありませんでした。近世に入ると薩摩藩のもとに編入されますが、日本と琉球との関係を隠すために中国側には「七島は琉球の領土だ」と嘘をついたのです。

投稿: とらひこ | 2007年9月20日 (木) 08:04

万暦三十七年(1609)の前に,中国は「七島は琉球の領土だ」を知りました
一、陳侃《使琉球錄》[嘉靖十三年(1534年)]
“……南有太平山(宮古島),西有古米山(久米島)、馬齒山(慶良間群島),北有硫磺山(硫磺鳥島)、熱壁山(伊平屋島) 、灰佳山(たしか 伊是名島) 、移山(伊江島) 、七島山(吐噶喇群島)……”
二、鄭舜功《日本一鑑》[嘉靖三十五年(1556年)]
“七島者,在日本南,為琉球、日本之界。”
“七島之間,為琉球、日本之界。”
ただし,“界” はどこですが,取りません
“界”は臥蛇島だと思います

投稿: 瀛洲 | 2007年9月21日 (金) 12:57

>瀛洲さん
またまた詳しい史料紹介、ありがとうございます。

「界」というのは、明確にどこの島を指すのではなく、臥蛇島を含めた七島一帯を曖昧に指していると思います。臥蛇島は1450年の『朝鮮王朝実録』で半分が琉球、半分が日本に属すると記されていますね。

当時の七島は独立した海上商業勢力で、一方で種子島氏の影響下にありながらも、一方では琉球国王即位の際に「朝賀」に向かう存在で、琉球も七島を従属地域とみなしていたようです。

この時期の国境は固定されたborderlineではなく、曖昧なzoneであったわけで、両属する「界」という言葉はまさにその状況を表しているのではないでしょうか。

投稿: とらひこ | 2007年9月28日 (金) 06:55

これを見てください
琉球王室后代(丁亥夏修正)
http://loochoo.blog.hexun.com/7418531_d.html

投稿: 瀛洲 | 2007年9月28日 (金) 22:48

>瀛洲さん
すばらしいブログですね。中国でこれだけ調べることができたのはすごいと思います。瀛洲さんが運営しているブログでしょうか?

投稿: とらひこ | 2007年9月29日 (土) 22:17

瀛洲さんが運営しているブログでしょうか?
そうですね

投稿: 瀛洲 | 2007年9月29日 (土) 23:09

>瀛洲 さん
すごいですね。現代の尚家まで調べるのは大変だったでしょう。琉球史は海外ではあまり知られていないので、瀛洲さんのような方がいらっしゃるのは嬉しいです。

投稿: とらひこ | 2007年9月30日 (日) 10:34

琉球史は海外ではあまり知られていない
中国にたくさんの琉球の資料があります,だから私は比較的に琉球史を理解しています

現代の尚家まで調べるのは大変だったでしょう
とても大変です,今,尚衛の子女の名前や職業など,探しています

PS:ご出身は琉球のどちらですか

投稿: 瀛洲 | 2007年10月 1日 (月) 19:24

>瀛洲さん
そうですね、冊封使録など琉球に関する中国の史料は結構ありますね。

尚衛というと現在の当主ですか。僕はさすがにそこまでは把握していません。

僕の実家は那覇市です。首里城は歩いて行けます。

投稿: とらひこ | 2007年10月 5日 (金) 06:54

琉球の名前
戰國 瀛洲
吳 夷洲
晉 紵嶼
隋書 流求
朝野僉載 留仇
嶺表錄異 流虬
太平寰宇記 幽求
明、清 琉球

投稿: 瀛洲 | 2007年10月 6日 (土) 15:45

>瀛洲さん
中国歴代の琉球の呼び方でしょうか?明以前は台湾も含め漠然とした地域をそう呼んでいたようです。

投稿: とらひこ | 2007年10月 8日 (月) 07:08

瀛洲、夷洲、紵嶼、留仇、流虬、幽求=琉球

《隋書》
流求國,居海島之中

《諸藩志》 流求=琉球 毗舍耶=臺灣
流求國,當泉州之東
毗舍耶,泉有海島曰彭湖

《文獻通考》 琉球=琉球+臺灣
琉球國,居海島(隋書から来ます),在泉州之東(諸藩志•流求國から来ます),有島曰彭湖(諸藩志•毗舍耶から来ます)

《宋史》 流求=琉球+臺灣
流求國,在泉州之東,有海島曰彭湖,

《元史》 瑠求=琉球+臺灣
瑠求,在南海之東漳、泉、興、福四州界內,彭湖諸島與瑠求相對

《明史》《清史稿》琉球=琉球

投稿: 瀛洲 | 2007年10月 8日 (月) 16:12

>瀛洲 さん
やはり明代以降に琉球の位置ははっきりしてくるようですね。この時代から琉球の朝貢が開始されたことと関係があるように思います。

投稿: とらひこ | 2007年10月10日 (水) 07:26

夷洲
夷洲在臨海東南,去郡二千里。土地無雪霜,草木不死。四面皆山谿。人皆髡髮穿耳,女人不穿耳。土地饒沃,既生五穀,又多魚肉。有犬尾短,如麕尾狀。此夷舅姑子婦,臥息共一牀,略不相避。地有銅鐵,唯用鹿格爲矛,以戰闘,摩礪青石,以作弓矢。取生魚肉,雜貯大瓦器中,以鹽鹵之,歴月餘日,乃啖食之,以爲上肴也。

if 夷洲=臺灣 夷洲在臨海西南。

《隋書》流求=琉球
流求國,居海島之中,當建安郡東,水行五日而至。
建安郡:今福建

投稿: 瀛洲 | 2007年10月10日 (水) 17:59

>瀛洲さん
『隋書』中の「流求」がどこを指すのかはまだはっきりと確定していませんが、福建から沖縄までは5日では行けませんからやはり台湾方面を指すように思います。

投稿: とらひこ | 2007年10月12日 (金) 18:18

とらひこ さん
『隋書』中の「流求」= 琉球
『隋書』卷八十一 東夷 高麗、百濟、新羅、靺鞨、流求國、倭國
臺灣 belong to 南蠻,not東夷


福建から沖縄までは5日では行けません come fromフランスの聖第尼•艾耳維侯爵(Le Marquis d’Hervey de Saint-Denys)
册封使
汪 楫、林麟焻 3日
天使館の對聯
帝德著懷柔、正朔萬年頒上國,臣心表忠信、南風三日到中山。
杜三策、楊 掄 5日
趙文楷、李鼎元 5日
林鴻年、高人鑒 5日

『隋書』
帝遣武賁郎將陳棱、朝請大夫張鎮州率兵自義安浮海擊之。至高華嶼,又東行二日,至{句黽}鼊嶼,又一日便至流求。
高華嶼:釣魚臺 {句黽}鼊嶼:久米島

投稿: | 2007年10月13日 (土) 01:01

琉球側の記録で琉球・福建間は通常10日かかったと記憶してましたが、順風なら5日では航行できるようですね。この点からすると琉球の可能性もありますね。

投稿: とらひこ | 2007年10月13日 (土) 06:48

とらひこ さん
中山門が知りますが?中山門の写真がありますが?
これを見てください
http://www.wonder-okinawa.jp/001/001/002-02.html

投稿: 瀛洲 | 2007年10月13日 (土) 19:20

>瀛洲さん
中山門は王国滅亡して早い時期に取り壊されましたから数枚の白黒写真しか残っていなかったと思います。ただ形状は守礼門と同一です。扁額が「中山門」である点が違うところです。

投稿: とらひこ | 2007年10月15日 (月) 20:55

十分感謝!

投稿: 瀛洲 | 2007年10月16日 (火) 12:02

>瀛洲さん
不客氣。

投稿: とらひこ | 2007年10月19日 (金) 07:30

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