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2007年6月 1日 (金)

続・琉球に土の城塞都市!?

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琉球にあった土の城塞都市とはどこなのでしょうか。驚くなかれ、それは那覇にあったチャイナタウン・久米村(くめむら)です。「中華街」のイメージが強い久米村ですが、実は古琉球の時代には土の城壁で囲まれた居留区だったのです。

15世紀後半(第二尚氏初め頃)の朝鮮王朝の記録には、琉球居住の中国人は「一城」を築き、そこに住んでいるとあります。琉球に漂着した朝鮮人の証言には、滞在していた館のそばの「土城」に100余家があり、朝鮮人・中国人がここに住んでいて、建物は瓦屋根で内部は彩色された壮麗な建物ばかりだったとあります。この時期の首里城は板ぶき屋根です。中国人たちは王様よりも豪華な建物に住んでいたわけです。これらの「一城」や「土城」が久米村であることは間違いありません。

また久米村は「唐営」や「営中」とも呼ばれていました。「営」とは「とりで、めぐらす、しきり、境域」という意味があります。また「営中」は「陣屋・軍営のなか」という意味です。「営」は「住居」も意味しますが、「土城」があったとの証言から考えて、この場合はやはり何らかの「囲われた場所」を指しているとみたほうがいいでしょう。

また1606年、琉球を訪れた中国の使節団に対して日本人(倭寇的な商人)たちが暴力沙汰を起こした際、琉球側は「営中」に使節団を避難させようとしています。つまり久米村は緊急時に避難して、外敵から身の安全を確保できるような場所だったのです。1609年に薩摩軍が琉球に攻めてきた際には、琉球の軍勢は「久米村の城」に立てこもって防戦したとの記録もあります。

これらのことから、久米村が土の城壁で囲われた城塞的な性格を持っていたことはほぼ間違いないと思います。その規模も数千人が住む「久米村」の市街地を囲むことから、首里城より大きいものだったと推定されます。現存していないので詳細はわかりませんが、おそらく中国の城郭都市や、秀吉の築いた京都の御土居(おどい)を小さくしたような感じだったのではないでしょうか。つまり「土の城塞都市」です。

この久米村の土の城壁ですが、近世(江戸時代)にはすでに取り壊されていたようです。もしかしたら一部が残っていたかもしれませんが、現在確認されたものはありません。残っていても戦争や都市開発などによって地形が大きく変わってしまい、誰にも気づかれずに消えていったかもしれません。それでも久米村あたりの発掘調査をすれば、土の城壁の遺構(版築など)がでてくる可能性もあります。

これまでの琉球史の「常識」でいけば、古琉球の久米村を城塞都市として見ることは考えにくいことです。しかし先入観を捨てて歴史記録を見ていけば、その可能性を指摘することは確かにできるのです。久米村の「土城」をどのように解釈するかは今後の課題ですが、もしかしたら調査が進んで久米村がグスク研究の対象になる日が来るかもしれませんね。

【写真】は西武門(にしんじょう)から見た久米村のメインストリート跡。この地点から道路が見えなくなるまでの範囲が久米村だった。

参考文献:夏子陽(原田禹雄訳)『使琉球録』、申叔舟(田中健夫訳)『海東諸国紀』、池谷望子・内田晶子・高瀬恭子訳『朝鮮王朝実録・琉球史料集成』

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コメント

勉強になります。既知ではありましたが私達の父系先祖は系譜を辿れば僧で還俗し、薩摩商人。百年くらい前までは口承で出自を認識していた。これからも楽しみにしております。

投稿: アカギ | 2007年6月 1日 (金) 21:44

>アカギ さん
コメントありがとうございます。

アカギさんは沖縄在住の方でしょうか。琉球にもヤマト出身者を元祖に持つ士族がたくさんいたみたいですが、その一族なのでしょうか。

今後もブログのほう、是非見てくださいね。よろしくお願いします。

投稿: とらひこ | 2007年6月 3日 (日) 11:08

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