復元!琉球の武具
琉球の武具というと、みなさんはどのようなイメージを持っているでしょうか。なかには三国志のような中国の武将を思い浮かべる方もいるかもしれません。これまで琉球の武具については実物がほとんど残されていないこともあり、実態はよくわかっていませんでした。
しかし最近ではグスクの調査などが進展し、多くの武具が発掘で見つかっています。例えば首里城からは実に300点を超える武具が出土しています。武具が使用されていた年代は主に古琉球(江戸時代以前)のものです。これらの資料をもとに、琉球の武具がどのようなものだったのか次第に明らかになっています。
そこで今回、出土した資料や文献記録などをもとに初めて画像で復元してみました。これは想定ですが単なる想像で描いたのではなく、具体的な根拠に基づいて作成したものです【画像。クリックで拡大】。
一見したみなさんの感想はおそらく「ん?これって日本の兜じゃない?」でしょう。そうです。琉球で使用されていた武具は、実は日本の様式のものだったのです。
【画像】についてマニアックな説明をしますと、兜の飾りである鍬形(くわがた)台は首里城南殿から出土したもの、兜の形式である筋兜(すじかぶと)も首里城出土資料に基づいています。それに加えて兜のすそに付く部分(しころ)も室町時代に流行した形式で復元してあります。顔をおおう面具は、15~17世紀の記録に「琉球の武装兵士は鉄の鬼面をかぶっている」とあることから推定しました。
沖縄県内から発見される武具はこれまで室町時代・日本様式のものしか出ていません(室町時代の武具はこちら参照)。文献記録もこれらを裏付けています。
では、琉球の武具は日本から輸入されたものなのでしょうか。これまではそう考えられていましたが、最近の分析では、実は琉球の武具は輸入品ではなく、琉球で製作されたものであることがわかってきました。つまり日本様式の武具を琉球で生産していたのです。
琉球で製作された武具の部品は本土で見られない装飾のパターンがあり、またつくりも本土と比べてテーゲー(おおざっぱ)なのだそうです。技術的な面からみれば、琉球には漆器や金工品を製作して中国に輸出するようなレベルがありました。武具を作るには漆器や金工品の技術が必要なので、琉球で武具を生産することは十分可能です。さらに武具の主要パーツの原料となる牛革も、当時の琉球では容易に調達することができました(こちら参照)。
琉球では独自の様式を発明して武具をつくりあげたのではなく、もともとあった日本の武具をモデルにして、若干琉球風にマイナーチェンジをするかたちで生産し使用していたわけですね。
参考文献:久保智康『日本の美術437号 飾金具』、上里隆史・山本正昭「首里グスク出土の武具資料の一考察」(『紀要沖縄埋文研究』2号)
↓ランキング投票よろしくお願いします(緑のボタンをクリック)
| 固定リンク
コメント
二十うん年前にダイナハ近くの劇場で、尚巴志の琉球統一を描いた「琉球三国志」という大仕掛けの沖縄芝居を見たのを思い出しました。
「琉球三国志」では、鎧も刀も日本の鎌倉時代の物と同じなのを奇異に感じましたが、そういうことだったのですね。
しかし、沖縄人は支那の武具を実見する機会も多かったと思いますが、どうして支那でなく日本の武具をそのまま生産したんでしょう?
「支那より大和の武具の方がカッコいいさ~」と感じたのでしょうか?w
投稿: ○ | 2007年6月30日 (土) 15:00
>○さん
琉球でなぜ日本様式の武具を使用したかというと、まず第一の理由は性能の問題でしょう。当時の日本は室町後期から戦国時代にかけて戦乱が続き、武器・武具がどんどん洗練されていってました。後の秀吉の朝鮮出兵で日本の兵器の優秀さに驚いた明・朝鮮側は、積極的に導入を図っています。琉球でも性能の良いほうを選ぶのは当然の流れです。
もうひとつの理由は、当時の中国では武器・武具などが輸出禁制品になっていて、海外への持ち出しが厳しく禁止されていたことも影響しているように思います。
それでも琉球は中国側の武器(銃砲)なども導入していますから、やはり日中双方で使えるものをそれぞれ選んでいったのはないでしょうか。
投稿: とらひこ | 2007年7月 1日 (日) 08:40
>琉球でも性能の良いほうを選ぶのは当然の流れです。
それもあるとは思いますが、図の兜に付いてる鍬形や大きな吹返は、むしろ性能を低下させる物ですよね。
やはり日本様式を格好良いとする感性によるんじゃないかと思うんですが………
投稿: ○ | 2007年7月 1日 (日) 13:43
>○さん
当時の人の内面までは確めようがないので僕は何とも言えませんが、日本様式の武具が琉球人の感性に合ったという可能性は指摘できると思います。
兜の鍬形については装飾ですが敵に対する威嚇や呪術的な意味があるとされ、吹き返しは横からの矢を防御するための機能を持っています。ムダなものが多いように見えて、実はとても機能的に作られているんですよ。
投稿: とらひこ | 2007年7月 1日 (日) 22:15
戦国武将は頭だから首を狙われる故に守備的防具機能に重点がありますね。直接は戦わない。日本では数年前NHKでも見たが威信や格好良さを見せるお披露目的要素もありますね。カブトムシはシンボリックだ。勉強なります。
投稿: アカギ | 2007年7月 2日 (月) 22:35
>アカギさん
そうですね。おそらくこれらの兜は上級クラスの人物が着用したと考えられます。
琉球の武具が日本様式だったということまではわかりますが、それがどのように使われていたのかまだまだ不明な部分は多いです。詳しい分析はこれからになると思います。
投稿: とらひこ | 2007年7月 3日 (火) 00:08
的確なご指摘ありがとう。戦国時代の川を挟んで名乗りながら「いくさ」を始める日本と易姓革命を慣習にする大陸とでは人の価値が違いすぎます。近代の欧米と日本の差もそこにあるのでしょうか(日本が弱いという意味ではなく)。
投稿: アカギ | 2007年7月 3日 (火) 00:39
ほほう、漫画「琉球王朝史」(創光出版)で琉球の武将の鎧はヤマト風で描かれてましたがそれで正解なんですね。那覇大綱挽の支度のような格好は後世の創作か?
ところで弓はどーなんですかね?前述の漫画の作中では和弓かどうか判断できません。和弓の材質は竹、ググったところ沖縄にも竹はあるそうですが竹林ってあまり聞かないし、沖縄の竹が和弓に向いてるかどうか知りません。
投稿: 金 淳樹 | 2007年7月 3日 (火) 02:42
初めまして、黒椿と申します。
去年の夏に沖縄に行った事がきっかけで、琉球王国の歴史にハマって、ここにたどり着きました。(全部読もうと思うのですが、凄い量で大変です。ですが大変解りやすく面白い)。
で、来てはじめての書き込みで失礼しますがアカギさん。「戦国時代の川を挟んで名乗りながら「いくさ」を始める日本」ってドラマに影響されすぎですよ。
戦国時代では名乗り上げはされてないです。源平の合戦期ですら名乗りを上げて戦を始めるなんて滅多に無かった事ですよ(最近では、源平合戦の頃の戦いも、鉄砲・大砲の有無以外は、そんなに戦国とは変わらなかったという説が有力。源平合戦の名乗り上げや一騎打ちの模様は、後世の平和な時代の物語風の史書の中での話)。
また日本の戦国時代には白兵戦はあまり行われていません。とにかく突撃というイメージは、どっちかというと旧軍に作られたもの。戦闘による死傷の数を見ると弓、石、鉄砲などの飛び道具で7割近くに達し、長距離戦(鉄砲・弓矢)と中距離戦(槍)で、ほとんど勝負が決まり、白兵戦や馬上戦は、平和な江戸時代につくられた作り話ですよ。
おまけに我が国における戦闘の歴史では、既に鎌倉時代には、「刀は使い物にならない」とされています。
ずれた話を長々としてしまい申し訳ありませんでした。
投稿: 黒椿 | 2007年7月 3日 (火) 04:24
>アカギさん
同じモノを使っていても、それぞれの文化で位置付けがちがう場合があるということですよね。
>金淳樹さん
琉球の弓矢については文献記録などから日本様式の弓矢であることが判明しています。
弓の材料については実物が残っていないので詳しいことはわかりませんが、尚真王がベトナムに「桑木弓」を贈った記録があります。矢は竹製だったとの記録もあります。
>黒椿さん
はじめまして。訪問ありがとうございます。ブログは2年前から週1更新ですので結構量があるかもしれません。よろしければ単行本などを読んでみてください(とさりげなく宣伝ですが)。
日本の戦いでは意外にも飛び道具が主力兵器だったみたいですね。近藤好和氏の『弓矢と刀剣』など読みましたが「目からウロコ」でした。
投稿: とらひこ | 2007年7月 4日 (水) 07:33
琉球は日本式の弓を使っていたんですね。
それは大和からの輸入でなくて国産かな?
現代の沖縄の伝統文化に弓が残っていないのは琉球王朝が武器を捨てたためなんでしょうね。
投稿: 金 淳樹 | 2007年7月 4日 (水) 12:15
>黒椿さん>とらひこさん
詳細のご説明ありがとう(ドラマが格好よすぎる作り物であることは十分承知しております~笑い)。名乗り上げに関しては浅知恵で断定調に過ぎましたね。それはNHK放送歴史検証番組で元寇関連のこと。武具における機能と意味の国際比較で琉球をと・・・勉強になります。
投稿: アカギ | 2007年7月 4日 (水) 15:35
>金淳樹さん
武具と同様に国産品の可能性もありますが、まだ十分に解明されてはいません。
それと琉球が武器を捨てたという説は明治から戦後にかけて作られた「神話」です。王国は禁武政策を実施した事実は全くありませんし、薩摩支配時代も鉄砲以外の武器の個人所有は認められていました。
戦前には王国時代の士族が所蔵していた武器の展示会なども開催されたこともあります。これらを含めた士族の宝物は沖縄戦でほとんど失われたみたいですが。
詳しくは単行本『目からウロコ~』書き下ろしコラム「武器のない国琉球?」をご参照ください。
>アカギさん
武器も人間が作り出した「モノ」ですから、単に「兵器」としてとらえるのではなく、他の「モノ」と同じように文化や社会のなかで位置付けていくことが大事なように思います。
投稿: とらひこ | 2007年7月 4日 (水) 21:34
いちいちケチを付けるようで恐縮ですが………
御返答にある「吹返」の機能は承知していますが、その機能は「頬当」が無かった時代に有効なものです。
しかし、図の兜には「頬当」が付いていますから、装飾物としての小さな「吹返」ならともなく、「大きな吹返は、むしろ性能を低下させる物」と述べた次第です。
もっとも、図の兜は鎌倉期~室町初期の様式で、「頬当」は一般に室町後期以降で使用されましたから、チグハグではあります。
大和ではチグハグに見える組み合わせも、当時の琉球人にとっては問題にもならない事柄だったのかもしれませんね。
琉球の武具について、研究がすすむと楽しみですね。
投稿: ○ | 2007年7月 5日 (木) 15:27
>○さん
ご指摘ありがとうございます。たしかに吹き返しは防御機能を第一というより、前時代の名残りか装飾性を持っていたと考えたほうがよさそうですね。
頬当(とくに目の下頬)はたしかに室町後期以降に隆盛するわけですが、琉球の記録では15世紀すでに日本様式の兜に「鉄面」を装着していたとあるので、図中のものは頬当(半頬)のなかでも古い形式のもの、『秋夜長物語絵巻』(南北朝~室町期)中の頬当を参考に想定復元しました。
頬当は早くは南北朝期に登場したとされるので、出土兜との組み合わせでも矛盾がないような形にしようと意識してはいたのですが、何分想定復元ということで、今後も検討の余地はあると思います。
琉球の武具研究はまだ始まったばかりで、まず実物そのものを確認しているような段階です。どのようなカタチだったのかが明らかになれば、なぜそのようなカタチにしたのか、モノの裏側にある思想や文化を探る段階に移行できると思います。
投稿: とらひこ | 2007年7月 5日 (木) 15:58
勉強になりました。
ありがとうございます。
投稿: ○ | 2007年7月 6日 (金) 15:26
いきなり大国日本と琉球を比較して優劣を導き出そうとする脈絡になりかねません。研究者の立場はいかほどか。似ていますが邪馬台国論争の虚しさはお笑いです。実際は邪馬壱(ネットでは探せない壱の旧字体)国なのに台国とは。魏志倭人伝では権威ある歴史学会ですら幼稚な間違いだらけ。本来はヤマイコクです。イが台に摩り替わっています(イ族なのに)。もう日本歴史学会なんて幼稚園的で信用できないのは認識済み。縄文尺を鑑みれば阿蘇あたりが邪馬壱(台こくではけしてない)国だそうです。素人の私ですら見抜いています(暇があり権威に囚われない情報を持っている)。権威ある学会とは何ぞや。歴史研究家に問いたい。
投稿: アカギ | 2007年7月 7日 (土) 05:34
>○さん
また武具に関する記事を書くかと思いますのでこのブログをのぞきに来てくださいね。
>アカギさん
邪馬台国のことについては僕はよくわかりませんが、現在の歴史学界は権威を振りかざすような存在ではないと思います。みなさん地道に堅実な研究されてますよ。むしろ当事者のみなさんは「今や歴史学界の社会に対する権威は失墜してしまった」と感じてる方も多いんではないでしょうか。
投稿: とらひこ | 2007年7月 9日 (月) 22:51
お初です。
>アカギさん
現在の歴史研究は文書と考古資料との突合せで進んでいます。ですから色々慎重にならざるを得ない部分があります(捏造問題とかありましたし)。
時に在野の研究者の発想が学会の考えより進んでいることがありますが、在野は発想=結果になりがちですが学会は発想→検証→結果と手間に時間をかけます。このあたりは仕方がないと思います。
日本では、在野の研究者の発見から色々展開していることもあるので面白いところではあります。
投稿: セイイチ | 2007年9月 9日 (日) 23:28