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2007年6月30日 (土)

復元!琉球の武具

琉球の武具というと、みなさんはどのようなイメージを持っているでしょうか。なかには三国志のような中国の武将を思い浮かべる方もいるかもしれません。これまで琉球の武具については実物がほとんど残されていないこともあり、実態はよくわかっていませんでした。

しかし最近ではグスクの調査などが進展し、多くの武具が発掘で見つかっています。例えば首里城からは実に300点を超える武具が出土しています。武具が使用されていた年代は主に古琉球(江戸時代以前)のものです。これらの資料をもとに、琉球の武具がどのようなものだったのか次第に明らかになっています。

そこで今回、出土した資料や文献記録などをもとに初めて画像で復元してみました。これは想定ですが単なる想像で描いたのではなく、具体的な根拠に基づいて作成したものです【画像。クリックで拡大】

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一見したみなさんの感想はおそらく「ん?これって日本の兜じゃない?」でしょう。そうです。琉球で使用されていた武具は、実は日本の様式のものだったのです。

【画像】についてマニアックな説明をしますと、兜の飾りである鍬形(くわがた)台は首里城南殿から出土したもの、兜の形式である筋兜(すじかぶと)も首里城出土資料に基づいています。それに加えて兜のすそに付く部分(しころ)も室町時代に流行した形式で復元してあります。顔をおおう面具は、15~17世紀の記録に「琉球の武装兵士は鉄の鬼面をかぶっている」とあることから推定しました。

沖縄県内から発見される武具はこれまで室町時代・日本様式のものしか出ていません(室町時代の武具はこちら参照)。文献記録もこれらを裏付けています。

では、琉球の武具は日本から輸入されたものなのでしょうか。これまではそう考えられていましたが、最近の分析では、実は琉球の武具は輸入品ではなく、琉球で製作されたものであることがわかってきました。つまり日本様式の武具を琉球で生産していたのです。

琉球で製作された武具の部品は本土で見られない装飾のパターンがあり、またつくりも本土と比べてテーゲー(おおざっぱ)なのだそうです。技術的な面からみれば、琉球には漆器や金工品を製作して中国に輸出するようなレベルがありました。武具を作るには漆器や金工品の技術が必要なので、琉球で武具を生産することは十分可能です。さらに武具の主要パーツの原料となる牛革も、当時の琉球では容易に調達することができました(こちら参照)。

琉球では独自の様式を発明して武具をつくりあげたのではなく、もともとあった日本の武具をモデルにして、若干琉球風にマイナーチェンジをするかたちで生産し使用していたわけですね。

参考文献:久保智康『日本の美術437号 飾金具』、上里隆史・山本正昭「首里グスク出土の武具資料の一考察」(『紀要沖縄埋文研究』2号)

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2007年6月21日 (木)

映像でみる沖縄戦

6月23日は沖縄慰霊の日。太平洋戦争における沖縄での戦闘が終結したとされる日です。

1945年(昭和20年)からすでに62年たちましたが、その間に関連資料、とくにアメリカ側資料の発掘が進められています。アメリカ軍の沖縄侵攻作戦を「アイスバーグ作戦」と呼びますが、これらのアイスバーグ作戦資料や沖縄戦記録がアメリカ国立公文書館には大量に保存されていて、沖縄県はこの資料を収集し、一部がすでに『沖縄県史 資料編』(英文・和訳)で刊行されています。

沖縄県公文書館のホームページではアメリカ側から複製収集した映像記録も閲覧することができます。なかにはカラーフィルムも含まれていて、大変貴重なものです。すでにご存じの方もいるでしょうが、これらの貴重な記録類がもっと多くの方々の目にふれることを願って、今回紹介したいと思います。

沖縄戦関連映像資料

映像のなかには日本軍の砲撃に被弾する瞬間のアメリカ軍戦車や戦死者などの衝撃的なものも含まれていますのでご注意を。

自分ごときが偉そうに言うのも何ですが、公文書館はとてもいい仕事をしてますね。ネット上の動画と同じように見れますので、皆さんも良かったらのぞいてみてください。

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2007年6月16日 (土)

琉球の「親方」の話

琉球の歴史に興味のある方は、「親方」という言葉をよく目にするかと思います。この「親方」とはもちろん相撲の親方ではなく、琉球王府の最高ランクの官人のことです。有名な親方といえば薩摩軍に立ち向かった謝名親方(鄭迵)や、近世琉球の大政治家・具志頭親方(蔡温)、名護聖人と呼ばれた名護親方(程順則)などがいますね。

この親方というランク、舜天や英祖の時代からずっとあったわけではありません。親方は古琉球の末期(戦国時代頃)に新設されたランクだったのです。それまでの高位の官人はすべて「大やくもい」と名乗っています。「大やくもい」は「親雲上(おやくもい)」と漢字が当てられ、やがてペーチンと呼ばれます。

親方という語句が初めて登場するのは1597年。ちょうど豊臣秀吉が朝鮮に出兵している最中です。墓碑に「うらおそいのおやかた(浦添の親方)」と記されています。それまでの高位の官人は「大やくもい」だけでしたが、そのなかでも三司官(大臣)になる人々は「かなぞめはちまき」(紫の冠)をかぶっていました。このグループを独立させて、新しく「おやかた」というランクをつくったのです。

「おやかた」には「親方」の漢字が当てられていますが、最近その語源について面白い説がだされています。この「おやかた」は、実は「お館やかた。または屋形)」というヤマトからの輸入語ではないかというのです。「お館」といえば、大河ドラマで武田信玄などの戦国武将が家臣たちから呼ばれているあの「お館さま」です。

「お館(屋形)」とは中世日本で貴人を敬っていう語。とくに屋形号を許された大名たちを指します。1605年、琉球を訪れた浄土僧の袋中(たいちゅう)が記した『琉球往来』という書物には「那呉の館(やかた)」という人物が出てきます。彼は当時の三司官だった名護親方良豊のことだと考えられます。さらに「大里御屋形」も登場しています。これが漢字で書かれた「おやかた」の初見でしょう。

実は古琉球の王府の役職には中世日本から輸入した用語がありました。それは「奉行」です。琉球では土木工事など臨時プロジェクトの責任者をこう呼んでいました。このような例もあるので、「お館」という言葉を輸入して使ったとしても、何の不思議もありません。

琉球の「親方(うぇーかた)」が大河ドラマでおなじみの戦国大名の呼び方「お館さま」と一緒だったなんて変な感じがしますが、以上のように説明されるとちょっと納得なのではないでしょうか。

参考文献:国健地域計画部編『石碑復元計画調査報告書』、首里城公園友の会編『「袋中上人フォーラム」実施報告書』

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2007年6月13日 (水)

シルクロード・ツアーの詳細!

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沖縄タイムス・プレ創刊60周年企画「シルクロードと琉球~南海路と絹の道~」の詳細がエアー沖縄さんのホームページに掲載されました。

興味のある方は【こちら】からどうぞ。

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2007年6月 8日 (金)

著者と行こうシルクロードの旅

『目からウロコの琉球・沖縄史』著者、私「とらひこ」と一緒に歴史ロマンの旅へ出かけませんか?現地同行の講師として私「とらひこ」が参加するスペシャル・ツアーのお知らせです。

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沖縄タイムス・プレ創刊60周年企画
「シルクロードと琉球~南海路と絹の道~」

Aコース 西安・敦煌・ウルムチ・トルファンの旅8日間
出発日:①8月16日¥235,000 ②9月13日¥213,000(満席) ③9月16日¥235,000

Bコース ウルムチ・トルファン・コルラ・砂漠公路・米蘭遺址の旅11日間
出発日:①8月9日¥298,000 ②9月13日¥298,000

Cコース 琉球王国の大交易時代と中国福建・杭州の旅8日間
出発日:①8月16日¥196,000 ②9月20日¥196,000(東京発着の場合、¥227,000)

プレ創刊60周年企画ということで6月29日までのお申し込みの方は、何と¥6,000割引!

 

※適用条件など詳しくはお問い合わせください。
エアー沖縄 浦添支店
TEL:098-879-2525 FAX:098-876-7000

 

ワタクシ「とらひこ」による同行解説は、Cコース「琉球王国の大交易時代と中国福建・杭州の旅8日間」9月20日(木)出発の旅となります。

コース(7泊8日):那覇発(東京組は成田発)→上海(経由)→福州(2泊)→甫田(1泊)→泉州(2泊)→杭州(1泊)→上海(1泊)→那覇着(東京組は成田着)

Cコースは「海のシルクロード」と琉球の大交易時代ロマンにふれる旅です。歴史の舞台に立ち、私「とらひこ」による面白くわかりやすい「目からウロコ」な解説が聞けます。これはお得!

しかも福建の旅というのは、実はエアー沖縄にいる高橋俊和さんらが日本で最も早くツアールートを開拓して(詳細は高橋俊和『沖縄・福建交流顛末記』ひるぎ社、1991を参照)、この方面でここまでのツアーが組めるのは日本中でもエアー沖縄さんだけとのこと!普通の旅行ではなかなか行けません。この機会に是非!もちろん陸のシルクロード(A・Bコース)も面白いですよ。

旅行説明会は、
6月9日(土)14:00から八汐荘(那覇市松尾1-6-1)
6月16日(土)14:00から八汐荘(那覇市松尾1-6-1)
6月30日(土)14:00から沖縄タイムス9階会議室(那覇市おもろまち1-3-31)
で開催します。出席希望の方はエアー沖縄(TEL:098-879-2525 FAX:098-876-7000)のほうまで事前にご連絡ください。

追記:6月2日の講演会についての記事が6月8日付の『沖縄タイムス住宅新聞』10面に掲載されました。講演会に参加されなかった方はこちらをご参照くださいませ。

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2007年6月 4日 (月)

講演会、無事終了

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6月2日の講演会、無事に終了しました。

なんと200名を超える方々が参加し、急きょ追加の席を設けることに。会場は超満員!大盛況のうちに終わりました。ご来場の皆さま、本当にありがとうございました。

質疑応答も活発に行われ、とても熱心な方々が質問されていました。ちゃんと答えられたかわかりませんが、少しでも何かの参考になっていればと思います。

実は「500年前の沖縄移住ブーム」の講演内容は本土の学会などで何度も話していましたが、沖縄県内では1度もその機会がありませんでした。今回の講演会が沖縄では初めてです。本邦初公開、というやつでしょうか。参加された方々はちょっぴりお得だったかもしれません。

今回に限らず、これから沖縄でどんどん発表の場をつくっていければと考えています。沖縄歴史の「目からウロコ」な話をお届けしますので、皆さまどうぞよろしくお願いします(講演・執筆依頼も大歓迎です!)。

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2007年6月 1日 (金)

続・琉球に土の城塞都市!?

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琉球にあった土の城塞都市とはどこなのでしょうか。驚くなかれ、それは那覇にあったチャイナタウン・久米村(くめむら)です。「中華街」のイメージが強い久米村ですが、実は古琉球の時代には土の城壁で囲まれた居留区だったのです。

15世紀後半(第二尚氏初め頃)の朝鮮王朝の記録には、琉球居住の中国人は「一城」を築き、そこに住んでいるとあります。琉球に漂着した朝鮮人の証言には、滞在していた館のそばの「土城」に100余家があり、朝鮮人・中国人がここに住んでいて、建物は瓦屋根で内部は彩色された壮麗な建物ばかりだったとあります。この時期の首里城は板ぶき屋根です。中国人たちは王様よりも豪華な建物に住んでいたわけです。これらの「一城」や「土城」が久米村であることは間違いありません。

また久米村は「唐営」や「営中」とも呼ばれていました。「営」とは「とりで、めぐらす、しきり、境域」という意味があります。また「営中」は「陣屋・軍営のなか」という意味です。「営」は「住居」も意味しますが、「土城」があったとの証言から考えて、この場合はやはり何らかの「囲われた場所」を指しているとみたほうがいいでしょう。

また1606年、琉球を訪れた中国の使節団に対して日本人(倭寇的な商人)たちが暴力沙汰を起こした際、琉球側は「営中」に使節団を避難させようとしています。つまり久米村は緊急時に避難して、外敵から身の安全を確保できるような場所だったのです。1609年に薩摩軍が琉球に攻めてきた際には、琉球の軍勢は「久米村の城」に立てこもって防戦したとの記録もあります。

これらのことから、久米村が土の城壁で囲われた城塞的な性格を持っていたことはほぼ間違いないと思います。その規模も数千人が住む「久米村」の市街地を囲むことから、首里城より大きいものだったと推定されます。現存していないので詳細はわかりませんが、おそらく中国の城郭都市や、秀吉の築いた京都の御土居(おどい)を小さくしたような感じだったのではないでしょうか。つまり「土の城塞都市」です。

この久米村の土の城壁ですが、近世(江戸時代)にはすでに取り壊されていたようです。もしかしたら一部が残っていたかもしれませんが、現在確認されたものはありません。残っていても戦争や都市開発などによって地形が大きく変わってしまい、誰にも気づかれずに消えていったかもしれません。それでも久米村あたりの発掘調査をすれば、土の城壁の遺構(版築など)がでてくる可能性もあります。

これまでの琉球史の「常識」でいけば、古琉球の久米村を城塞都市として見ることは考えにくいことです。しかし先入観を捨てて歴史記録を見ていけば、その可能性を指摘することは確かにできるのです。久米村の「土城」をどのように解釈するかは今後の課題ですが、もしかしたら調査が進んで久米村がグスク研究の対象になる日が来るかもしれませんね。

【写真】は西武門(にしんじょう)から見た久米村のメインストリート跡。この地点から道路が見えなくなるまでの範囲が久米村だった。

参考文献:夏子陽(原田禹雄訳)『使琉球録』、申叔舟(田中健夫訳)『海東諸国紀』、池谷望子・内田晶子・高瀬恭子訳『朝鮮王朝実録・琉球史料集成』

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