戦国インテリジェンス―海域アジアをめぐる諜報戦―(5)
泥沼化する戦い
朝鮮に侵攻した日本軍は緒戦こそ優勢であったもの、やがて明・朝鮮軍の抵抗にあって戦局は泥沼化していきました。1596年(慶長元、万暦24)に講和交渉が決裂して再開された戦闘でも日本軍は戦局を挽回できず、朝鮮半島南岸に「倭城(わじょう)」と呼ばれる拠点を築いて出口の見えない戦いを続けていました。
しかし戦場は朝鮮だけではありませんでした。福建-薩摩間を中心とした東シナ海世界においても戦局を左右する激しい「情報の戦い」が繰り広げられていたのです。
諜報員、薩摩へ潜入
戦争中、明朝は日本の薩摩に「インテリジェンス・オフィサー」を派遣して内情を探索し、さらには島津氏に日本軍の撤退を働きかけるよう工作を仕掛けています。明朝の兵部尚書(防衛大臣)の石星(せきせい)は、島津氏側近の中国人・許儀後が機密情報を送ってきたことに目をつけ、諜報員を薩摩に送りこみます。当時、東シナ海は空前の「交易ブーム」に沸いていました。中国福建と薩摩との間には頻繁な海商たちの往来があったので、商船に便乗して容易に薩摩領内へ潜入することができたのです。
1594年(文禄3、万暦22)、密命を受けた錦衣衛(軍人)の史世用(しせいよう)は商人に変装し、福建商船に便乗して薩摩へ向かいます。到着後、彼は島津義久とともに肥前名護屋城にいた許儀後に接触をはかり、さらに許儀後の仲介によって島津氏重臣の伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)に面会しています。諜報員の一人である海商の張一学(ちょういちがく)は京都に行き、聚楽第にいる秀吉の動向まで探っています。諜報活動を終えた史世用らは薩摩から出港しますが途中嵐に遭い、寄港していた琉球船に乗って琉球経由で中国まで送られました。
島津氏の秀吉に対する反発
史世用らが入手した情報は正確かつ詳細な内容が数多く含まれています。秀吉の生い立ちや「サル」とあだ名されていること、後継者のこと(息子鶴松の病死のこと)、また朝鮮に駐留する日本軍の様子、大友義統(よしむね)が作戦の失態により改易されたことまでつかんでいます。注目されるのが「各大名は秀吉に表向き屈しているものの、内心では恨みを忘れていない。島津義久も秀吉の朝鮮出兵の失敗を望んでいる」という情報です。諜報員は島津氏が秀吉に心服していないことを見抜き、彼らを離間させて島津氏を明朝の味方につけるチャンスがあることを上申しています。
大友氏・龍造寺氏を破って九州の覇者となった島津氏は、1587年(天正15)、秀吉の大軍の前に屈しました。降伏後の島津氏家臣団は秀吉への反発も強く、朝鮮出兵の際にもなかなか兵を派遣しませんでした。ようやく朝鮮へ渡海した島津義弘は「日本一の遅陣」として面目を失っていますが、島津氏のなかでも本宗家である義久らの家臣団は出陣要請にも関わらず全く動きませんでした。この島津氏・豊臣政権の溝を利用し、戦争を勝利に導くための策がこの後、福建発の「インテリジェンス・オフィサー」の手によって実行されていきます(つづく)。
参考文献:米谷均「訳注『敬和堂集』「請計処倭酋疏」」(『8-17世紀の東アジア地域における人・物・情報の交流』科研報告書)、山本博文『島津義弘の賭け』
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