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2007年5月28日 (月)

講演会のお知らせ

私、「とらひこ」による講演会のお知らせです。

500年前の沖縄移住ブーム ―那覇にあった「日本人町」―

日 時:平成19年6月2日(土) 午後2時半頃~4時
場 所:沖縄都ホテル(地階・瑞雲の間)
主 催:首里城公園友の会 098-886-2020

(入場無料!)

概 要
アジアとの貿易によって繁栄していた古琉球の時代、北のヤマト(日本)からの「沖縄移住ブーム」が存在していた。渡来者は商人をはじめとして禅僧や医師、文化人など海域世界で活動する多様な人々であった。彼らは港町の那覇に居留地をつくり、琉球の地元民と雑居するかたちで生活していた。那覇にはチャイナタウンの「久米村」以外に「日本人町」が存在していたのである。

那覇の「日本人町」の実態とは?琉球王府は彼らとどのような関係を築き、古琉球の社会にどのような影響を与えていたのか?実は彼らが移住した背景には、16世紀後半のアジア海域世界で起こっていた銀をめぐる空前の「交易ブーム」があった。アジアのダイナミックな世界から琉球とヤマト(日本)との関係を展望し、従来の「一国史観」を脱却した新たな古琉球史像を描き出す。

講演の内容は僕の研究テーマである古琉球時代の国際関係、とくにヤマトと琉球の関係についてのお話です。沖縄在住で興味のある方は是非いらしてください。入場無料でどなたでも大歓迎です。もちろんブログの作者:とらひこがどんな人間かのぞいてみたいという方も(笑)

話の内容はなるべく噛み砕いて、ビジュアルを多用しながらやさしく解説するつもりなので、お気軽に足を運んでくださいませ。

みなさまのご来場、お待ちしています。

※会場は地階・瑞雲の間に変更です。

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2007年5月26日 (土)

琉球に土の城塞都市!?

Cimg0204_2

琉球の城塞(じょうさい)といえば「グスク」と呼ばれる遺跡です。「グスク」というと、多くの方は世界遺産となった首里城や今帰仁グスク、勝連グスクなどの石灰岩の石積みで築かれたものを思い浮かべると思います。しかし、これらの有名な遺跡はグスク全体のほんの1パーセントほどにすぎません。実はグスクは南西諸島に300以上あって、しかも石積みではない「土でできたグスク」もたくさんあるのです。

土でできた代表的なグスクといえば、桜で有名な名護グスク(名護市)。名護グスクを訪れた方は、グスクと呼ばれているのになぜ首里城のような城壁がないのか疑問に思ったかもしれません。実はそれは何も残ってないのではなく、名護グスクはもともと土でできたグスクなので、その跡がわかりにくいだけなのです。よく観察すると、山の尾根を断ち切って掘状にした跡や、造成された平場などが確認できます。

土のグスクはとくに沖縄島北部から奄美諸島にかけて分布しています。その構造は室町から戦国時代の日本でつくられていた中世城郭とよく似たものです(日本の中世城郭についてはこちら)。この地域に土のグスクが多い理由は、城壁に使われる琉球石灰岩が沖縄島の中南部と比較してあまり多くないことが、そのひとつとして考えられます。しかし中南部に土でできたグスクが全くないわけではありません。

ところで皆さんは「琉球に土でできた城塞都市が存在した」と聞いたら、ビックリされるのではないでしょうか。しかもその規模は首里城よりも大きく、豪華だったとしたら?

「そんなものあるはずない!」と一笑に付されるかもしれません。しかし、「それ」は確かに存在していました。既成概念を捨てて発想を変えることによって、これまでほとんど注目されてこなかった驚くべき事実が浮かび上がってくるのです。その正体とはいったい何なのか?

ここまで引っぱっておいて何ですが、その答えは次回ということで。

【写真】は浦添グスク南側にある土でできた郭。盛り土によって人工的にグスクから突き出した丘をつくっている。

参考文献:沖縄県教育委員会文化課編『ぐすく グスク分布調査報告(Ⅰ)』、當眞嗣一「いわゆる「土から成るグスク」について」(『沖縄県立博物館紀要』23号)

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2007年5月23日 (水)

「大正沖縄の2ちゃんねる」開設

以前、このブログで「90年前の2ちゃんねる(沖縄版)」として、大正時代の匿名掲示板『琉球新報』の「読者倶楽部」について紹介したことがあります。しかし、その時にはほんの一部だけしか載せることができませんでした。

なぜなら内容があまりにもぼう大で、全てを紹介するわけにいかなかったからです。そこで今回、「大正沖縄の2ちゃんねる」というブログを開設して、そこで面白い投稿内容を一気に紹介することにしました。

ここまで沖縄庶民たちの生き生きとした姿を知ることのできる資料が、ほかにあるでしょうか。

みなさま、新ブログ「大正沖縄の2ちゃんねる」をどうぞご覧ください。

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2007年5月18日 (金)

戦国インテリジェンス―海域アジアをめぐる諜報戦―(5)

泥沼化する戦い
朝鮮に侵攻した日本軍は緒戦こそ優勢であったもの、やがて明・朝鮮軍の抵抗にあって戦局は泥沼化していきました。1596年(慶長元、万暦24)に講和交渉が決裂して再開された戦闘でも日本軍は戦局を挽回できず、朝鮮半島南岸に「倭城(わじょう)」と呼ばれる拠点を築いて出口の見えない戦いを続けていました。

しかし戦場は朝鮮だけではありませんでした。福建-薩摩間を中心とした東シナ海世界においても戦局を左右する激しい「情報の戦い」が繰り広げられていたのです。

諜報員、薩摩へ潜入
戦争中、明朝は日本の薩摩に「インテリジェンス・オフィサー」を派遣して内情を探索し、さらには島津氏に日本軍の撤退を働きかけるよう工作を仕掛けています。明朝の兵部尚書(防衛大臣)の石星(せきせい)は、島津氏側近の中国人・許儀後が機密情報を送ってきたことに目をつけ、諜報員を薩摩に送りこみます。当時、東シナ海は空前の「交易ブーム」に沸いていました。中国福建と薩摩との間には頻繁な海商たちの往来があったので、商船に便乗して容易に薩摩領内へ潜入することができたのです。

1594年(文禄3、万暦22)、密命を受けた錦衣衛(軍人)の史世用(しせいよう)は商人に変装し、福建商船に便乗して薩摩へ向かいます。到着後、彼は島津義久とともに肥前名護屋城にいた許儀後に接触をはかり、さらに許儀後の仲介によって島津氏重臣の伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)に面会しています。諜報員の一人である海商の張一学(ちょういちがく)は京都に行き、聚楽第にいる秀吉の動向まで探っています。諜報活動を終えた史世用らは薩摩から出港しますが途中嵐に遭い、寄港していた琉球船に乗って琉球経由で中国まで送られました。

島津氏の秀吉に対する反発
史世用らが入手した情報は正確かつ詳細な内容が数多く含まれています。秀吉の生い立ちや「サル」とあだ名されていること、後継者のこと(息子鶴松の病死のこと)、また朝鮮に駐留する日本軍の様子、大友義統(よしむね)が作戦の失態により改易されたことまでつかんでいます。注目されるのが「各大名は秀吉に表向き屈しているものの、内心では恨みを忘れていない。島津義久も秀吉の朝鮮出兵の失敗を望んでいる」という情報です。諜報員は島津氏が秀吉に心服していないことを見抜き、彼らを離間させて島津氏を明朝の味方につけるチャンスがあることを上申しています。

大友氏・龍造寺氏を破って九州の覇者となった島津氏は、1587年(天正15)、秀吉の大軍の前に屈しました。降伏後の島津氏家臣団は秀吉への反発も強く、朝鮮出兵の際にもなかなか兵を派遣しませんでした。ようやく朝鮮へ渡海した島津義弘は「日本一の遅陣」として面目を失っていますが、島津氏のなかでも本宗家である義久らの家臣団は出陣要請にも関わらず全く動きませんでした。この島津氏・豊臣政権の溝を利用し、戦争を勝利に導くための策がこの後、福建発の「インテリジェンス・オフィサー」の手によって実行されていきます(つづく)。

参考文献:米谷均「訳注『敬和堂集』「請計処倭酋疏」」(『8-17世紀の東アジア地域における人・物・情報の交流』科研報告書)、山本博文『島津義弘の賭け』

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2007年5月14日 (月)

書店売り上げ1位!

単行本『目からウロコの琉球・沖縄史』、ついに那覇空港書店(宮脇書店)で全書籍売り上げランキング1位になりました!

沖縄の地元の方はもちろんですが、とくに観光客の皆さんが沖縄の歴史に興味を持って購入してくださっているようです。那覇空港は沖縄のなかでも最も人の出入りの激しい場所のひとつで(本土でいえば駅ナカみたいなところでしょうか)、より多くの方の目にふれる機会があることもプラスに働いていると思います。

少しずつですが、着実に『目からウロコ』本が広がっているように感じます。刊行から2ヶ月ほどなので、まだまだこれからです。今後も応援よろしくお願いします。

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2007年5月 9日 (水)

円覚寺から出た「クリス」

琉球第一の寺、円覚寺。首里城の北側にあり、王家の菩提寺として知られる名刹です。開山の住職は京都南禅寺の僧、芥隠承琥(かいいん・じょうこ)で、1492年(尚真王の時代)に建てられました。コラム「ヤマト坊主は外交官」でも述べましたが、古琉球の寺院はヤマト(日本本土)の禅宗と深く結びついていました。彼ら禅僧はそのネットワークを駆使して対日外交を担当し、またヤマト文化を琉球にもたらしました。琉球ではお寺が外務省と大学を兼ね備えた施設だったのです。

Photo_18 このように日本との関係が深い円覚寺なのですが、近年、円覚寺の跡から興味深いものが発見されています。「クリス」と呼ばれる東南アジアの短剣です【画像。クリックで拡大】。クリスは鉄製で全長30センチほど。蛇行した刃が特徴で、主にインドネシアのジャワやマレー半島で使われたものです。この短剣は実用的な武器というよりも、霊力を持った宗教的なシンボルとしての用途を持っていたようです。クリスが出土するのは日本初で、大変貴重な発見です。

おそらくこのクリスは東南アジアとの貿易で琉球にもたらされ、円覚寺に寄進されたものと考えられます。どのように使用されていたかは不明ですが、クリスが宗教的な性格を持っていたことから、寺院の宗教儀礼などに使われていた可能性もあります。一見、ヤマトの禅宗と東南アジアの短剣はミスマッチに思えます。しかし、琉球においてはそれほど珍しくはないのです。

ヤマト禅宗など外から来た宗教や文化は、琉球でそのまま「純粋培養」されていたのではありません。例えば王府の儀式には、琉球古来の神女(ノロ)とヤマト禅宗の僧たちが同席して、ノロは「ミセゼル(神託)」、禅僧は「お経」をそれぞれ唱えていました。ノロ信仰とヤマト仏教が共存して琉球王権を支えていたのです。また中国道教の神を祭る天尊廟には禅宗の鐘が設置されていましたし、琉球神女の頂点に立つ聞得大君(きこえおおきみ)はヤマトから渡来した弁財天や観音信仰とも融合していました。ノロの神歌(オモロ)にも「権現」や「菩薩」が登場します。

つまり、琉球にもたらされた様々な宗教はやがて溶け合い、独自の発展をとげて「琉球化」していったのです。例えば「琉球に仏教は根付かなかった」という見方は、あくまでも日本の仏教を絶対的な基準にしている見方です。インド伝来の仏教が日本で「土着化」してインドや中国仏教と全く同じでないように、ヤマト伝来の仏教はやがて琉球に「土着化」して、ヤマト仏教と似て非なる宗教になったと考えるのが適当です。

そう考えると、禅宗寺院から東南アジアの短剣が出たとしても琉球では全く不思議ではありません。東南アジアで神秘的な力を持つと信じられていたクリスが仏教儀式に使われていたとしても、特におかしいことではないわけですね。

参考文献:沖縄県立埋蔵文化財センター編『円覚寺跡-遺構確認調査報告書-』、真栄平房昭「琉球の円覚寺跡から出土した短剣(クリス)」(『沖縄タイムス』2002年2月7日)

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2007年5月 6日 (日)

琉球史の第一人者も絶賛!

『沖縄タイムス』2007年4月28日朝刊の書評で、単行本『目からウロコの琉球・沖縄史』が取り上げられました!

書評してくださった方は琉球史研究の第一人者、高良倉吉氏です!

近年さまざまな琉球史に関する普及本が刊行されているが、確かな知識と研究をふまえた本書のような入門書が出ることの意味は大きい。良質の情報のみが私たちの歴史認識を育ててくれるからである。(書評の一部から抜粋)

コラムを書くにあたり、なるべく確かな研究にもとづいた論文などを参照することに気をつけていましたが、その点が評価されたことが嬉しいです。キチンとした研究があってこその『目からウロコ~』で、僕はそれらにちょっとだけスパイスを効かせただけだと思いますが、研究を普及するという努力も評価されたことに喜んでいます。

僕の試みが呼び水となって、沖縄の面白い歴史を伝える動きがさらに出てくればいいなと思います。

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