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2007年4月14日 (土)

首里城にある「書」のヒミツ

年間数百万人が訪れる首里城。この城は1992年、多くの人々の努力によって50年ぶりに復元されました。この復元は厳密な時代考証により、日本の史跡のなかでも高い水準の復元精度を実現しています。その経緯は『プロジェクトX 挑戦者たち/炎を見ろ 赤き城の伝説』で放送されましたが、実はテレビで紹介された赤瓦や壁の彩色の復元以外にも、多くの困難に立ち向かい復元を成し遂げた物語が首里城には隠されています。

Cimg1769 首里城の中心・正殿の2階には、「御差床(うさすか)」と呼ばれる王の玉座といわれている大きな部屋があり、その玉座の背後には3つの書が掲げられています【画像。クリックで拡大】。この書は歴代の中国皇帝自ら書いた書を“へん額”に仕立てたものです。本来はこの部屋に9つの書が飾られていて、御差床は「御書楼」とも呼ばれたそうです。現在ある3つの書には次のように書かれています。

中山世土(ちゅうざんせいど)」 …琉球は中山が代々治める土地である、という意味。康煕帝の筆。
輯瑞球陽(しゅうずいきゅうよう)」 …球陽(琉球)にはめでたい印が集まっている、という意味。雍正帝の筆。
永祚瀛壖(えいそえいぜん)」 …海の向こうの琉球を永く幸いに治めよ、という意味。乾隆帝の筆。

このへん額は全て復元されたものです。実は、御差床にある皇帝の書は何と記されていたかは知られていましたが、写真などが全く残っておらず、具体的なカタチはわかっていませんでした。この書を復元するにあたって、適当にへん額に字を書いて作ることもできたはずですが、復元の担当者たちは驚くべき方法でかつての書を忠実に再現することに成功します。

復元の手がかりは、この書が皇帝の書いたものである、ということでした。人の書く文字にはそれぞれのクセ(筆跡)があります。同じ人が書けば、別のものに同じ文字を書いてもだいたい似たような字になります。つまり中国皇帝の書いた字のなかから首里城の書と同じ字を探し、それを組み合わせることによって、限りなく現物に近いカタチで復元することが可能になるわけです。皇帝の書は沖縄に残されていなくても、中国にはたくさんあったので、それらを参考にすることができました。

調査団は中国に残されている中国皇帝が書いた書籍やへん額、碑文などを徹底的に探し、首里城の書に書かれていた各文字を見つけ出します。しかし、文字の全てが見つかったわけではなく、無かった文字については、何と皇帝の書いた文字のなかから必要なパーツのみを取り出し(漢字の各パーツについてはこちら)それらをコンピューターで合成して必要な文字を作り出します。文字はさらに皇帝の筆跡の特徴を分析しながら書道の専門家によって実際に書かれ、皇帝の書いた文字を全て復元することができたのです。

首里城2階に飾られている書は現物そのものと寸分たがわず同じとはいえなくても、現時点でできる限りのあらゆる方法を駆使して、きわめて現物に近いものを作り上げたものだったのです。

首里城観光に訪れるみなさんは、美しい正殿の外観や豪華な玉座のほうに目が向いてしまい、オマケのように飾られている「書」については素通りしてしまうことが多いかもしれません。しかし今度首里城を観光する際には、目立たない細部にも挑戦者たちが情熱をそそいだ復元のドラマがあることを心にとどめて、じっくりと城内を巡ってもらえたら、と思います。

参考文献:首里城公園友の会編『首里城の復元~正殿復元の考え方・根拠を中心に~』

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コメント

おひさしぶりです。
以前に、「90年前の2ちゃんねる(沖縄版)」で書き込みをしたものです。
正殿にドンと大きく書が設置されているのを私も拝見しましたが、今のようにすべての人が文字を読めるわけではない時代に、こうした書(文字)を王が自己に引き寄せたことのインパクトはどうだったんだろうと思ったりします。
私は文学や言語学に詳しいわけではないので、丁寧な説明はできませんが、いわゆる無文字社会から文字を持つ社会に変化していくプロセスが琉球でもあるとするならば、そのシフトのなかでこの書が出てきたのかなと、かなり勝手なことを考えたりします。
正殿のこの書を見るたびに、社会が文字を持つことのインパクトは如何に?と思います。

(付記)
もちろん、無文字社会が劣っていて、文字を持つ社会が優れていると思っているわけではないので、その点はご了承ください。

投稿: まようべき人 | 2007年4月15日 (日) 00:13

皇帝の書は言うまでもなくすべて琉球を褒め称えたものですね。
上記の「まようべき人」さんのような意見は私には難しくてあまり理解していないのですが、別視点からコメントを述べさせていただきたいと思います。

皇帝の書はいずれもCGを駆使して作られたもの。当時の皇帝の字の素晴らしさから、皇帝自身をイメージさせるための物であったと思いますね。その皇帝の言葉が琉球を褒め称えたもの。これは言霊の一つではないかな?と思います。
当時の扁額を見ると、たとえば近世の琉球人のものですが、無事に渡海をする事ができたそのお礼にと、薩摩の枚聞神社にはたくさんの扁額が奉納されています。その文言も(もちろん奉納されるものであるから)おめでたい言葉が多いのが印象的です。
首里城の正殿も城でありながら、聖域でもあるのでそのような言霊を掲げているのではないかな?とも感じます。

この扁額を見る事ができるのは士族という限られた人間だけだと思うので、見る方はすべて文字の読み書きができたと思いますよ。

とはいえ、小国である琉球にも中国皇帝から扁額が贈られているということにも少し考えを向けてみても面白いかもしれませんね。

投稿: かなしー | 2007年4月18日 (水) 09:19

>まようべき人さん
僕は文字や書についてはよくわからないので素人意見になるかもしれませんが、琉球での文字の導入は日本僧をはじめとしたヤマト文化の影響が特に大きいような気がします。

今回紹介した「書」については文字が導入された時代より数百年後のものですが、文字を「役立つ」ものとしてより、扁額のように「書」自体に何らかの意味を見出すのは中国文化の影響だと思います。それは琉球に限ったことではなく、日本も含めた前近代の漢字文化圏に共通して見られるのではないでしょうか。でも、もしかしたら琉球独特の「書」に対する観念があったかもしれませんが。

>かなしーさん
おっしゃるように、鹿児島をはじめとした本土で琉球人は結構「書」を残しているみたいですね。江戸上りなどの途中で、琉球使節が現地の日本人たちに求められて書いたものも多いようです。江戸時代の日本では琉球は先進文化を持つ中国に近いと考えられていたようで、琉球人の「書」をありがたがっていたわけですね。

歴代皇帝の書がこれだけいっぺんに見られるところはなかなか無いでしょう。そう考えると首里城の御差床は非常に珍しい場所なのかもしれません。

投稿: とらひこ | 2007年4月19日 (木) 01:08

「本来はこの部屋に9つの書が飾られていて」
康熙帝の筆 中山世土
雍正帝の筆 輯瑞球陽
乾隆帝の筆 永祚瀛壖、海邦濟美
嘉慶帝の筆 海表恭藩
道光帝の筆 屏輪東南、弼服海隅
咸丰帝の筆 同文式化
同治帝の筆 瀛嶠屏藩

投稿: 瀛洲 | 2007年9月19日 (水) 10:42

>瀛洲さん

情報提供、ありがとうございます。

こうして見ると、琉球はいろいろな皇帝からの書をもらっているんですね。

投稿: とらひこ | 2007年9月19日 (水) 22:20

とらひこさん。こんばんです!

文字について少しばかり気になる部分があり、知識のない自分では解決できそうにもないのでとらひこさんの力を借りれればなと。

以前知人との会話で「守礼門」に揚げられている扁額の文字「守禮之邦」が話題になり、その時にあの文字の意味は中国読みすると本当は「礼儀を守る邦」ではなく「礼儀を守らなければならない邦」だといわれた覚えがあります。

現在の中国・台湾の方がその文字を見ると「なーんだ、琉球は礼儀を守れと諭されているじゃないか」と感じるのだそうです。

酒の席で酔ってもいたので「まぁ琉球も外交では失敗した部分もあるだろーし、そういった意味もあったかもしれんねー」ぐらいな感じで受け止めていたのですが

今思えば???ってな具合で疑問だらけになってしまいます。

中国語は疎いので中国読みしたらそうなるんだ!っと言われれば考え込んでしまいますが実際のところどうなんでしょうか?

幼稚な質問ですいません。

投稿: 向日葵 | 2007年10月 8日 (月) 01:23

>向日葵さん
「守礼之邦」の意味は現代中国語の意味でどうなるかは知りませんが、Wikipediaによると

扁額となった「守禮之邦」という言葉は、尚永の冊封のさいの中国皇帝(このときは万暦帝)からの詔勅にあった文言で、「琉球は守礼の邦と称するに足りる」というくだりからきている。

とあります。皇帝は琉球を褒めてこの文言を記しているので、「礼を守っている邦」という意味でいいと思います。

また「礼儀を守らなければならない邦」というような琉球自身を貶めるような言葉をわざわざアピールするなんて、外交上の常識では考えられません。

あと、注意しなくてはいけないのは、あの時代の「礼」は今の意味でいう「マナー」ではありません。当時の「礼」とは「中国を中心とした世界秩序、親と子のような序列」を意味しています。つまり「守礼之邦」とは「中国に朝貢国として忠実に従っている邦」としたほうがより適切だと思います。

投稿: とらひこ | 2007年10月 8日 (月) 07:25

とらひこさんへ

目の前にある形だけで歴史や事象を判断するのは陥りやすい典型的な罠でした! この扁額の文字の「礼=マナー」っといった意味ではなかったんですね。なるほど合点がいきました。ありがとうございます。

投稿: 向日葵 | 2007年10月 8日 (月) 22:28

>向日葵さん
歴史を見る時に大事になってくるのは、現代の価値観や概念で判断せず、当時の考え方に立って物事を見ることだと思います。

投稿: とらひこ | 2007年10月10日 (水) 07:28

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