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2007年4月19日 (木)

早くも増刷!

単行本『目からウロコの琉球・沖縄史』、発売から1ヶ月ちょっと経ちましたが、猛烈に売れています!県内大手書店のリウボウブックセンターリブロでは全書籍の売り上げ3位にランクイン(4月8日付)、那覇空港内の宮脇書店でも3位と快進撃を続けています。

県内書店では売り切れ続出、補充するはじから飛ぶように売れていき、出版社にはすでに在庫がほとんどありません。

というわけで早くも増刷決定です!

…ですが、増刷本が出回るのは今少し時間がかかります。大変申しわけありませんが、しばらくの間お待ちくださいませ。購入を検討している方、どうぞお早めに!

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2007年4月14日 (土)

首里城にある「書」のヒミツ

年間数百万人が訪れる首里城。この城は1992年、多くの人々の努力によって50年ぶりに復元されました。この復元は厳密な時代考証により、日本の史跡のなかでも高い水準の復元精度を実現しています。その経緯は『プロジェクトX 挑戦者たち/炎を見ろ 赤き城の伝説』で放送されましたが、実はテレビで紹介された赤瓦や壁の彩色の復元以外にも、多くの困難に立ち向かい復元を成し遂げた物語が首里城には隠されています。

Cimg1769 首里城の中心・正殿の2階には、「御差床(うさすか)」と呼ばれる王の玉座といわれている大きな部屋があり、その玉座の背後には3つの書が掲げられています【画像。クリックで拡大】。この書は歴代の中国皇帝自ら書いた書を“へん額”に仕立てたものです。本来はこの部屋に9つの書が飾られていて、御差床は「御書楼」とも呼ばれたそうです。現在ある3つの書には次のように書かれています。

中山世土(ちゅうざんせいど)」 …琉球は中山が代々治める土地である、という意味。康煕帝の筆。
輯瑞球陽(しゅうずいきゅうよう)」 …球陽(琉球)にはめでたい印が集まっている、という意味。雍正帝の筆。
永祚瀛壖(えいそえいぜん)」 …海の向こうの琉球を永く幸いに治めよ、という意味。乾隆帝の筆。

このへん額は全て復元されたものです。実は、御差床にある皇帝の書は何と記されていたかは知られていましたが、写真などが全く残っておらず、具体的なカタチはわかっていませんでした。この書を復元するにあたって、適当にへん額に字を書いて作ることもできたはずですが、復元の担当者たちは驚くべき方法でかつての書を忠実に再現することに成功します。

復元の手がかりは、この書が皇帝の書いたものである、ということでした。人の書く文字にはそれぞれのクセ(筆跡)があります。同じ人が書けば、別のものに同じ文字を書いてもだいたい似たような字になります。つまり中国皇帝の書いた字のなかから首里城の書と同じ字を探し、それを組み合わせることによって、限りなく現物に近いカタチで復元することが可能になるわけです。皇帝の書は沖縄に残されていなくても、中国にはたくさんあったので、それらを参考にすることができました。

調査団は中国に残されている中国皇帝が書いた書籍やへん額、碑文などを徹底的に探し、首里城の書に書かれていた各文字を見つけ出します。しかし、文字の全てが見つかったわけではなく、無かった文字については、何と皇帝の書いた文字のなかから必要なパーツのみを取り出し(漢字の各パーツについてはこちら)それらをコンピューターで合成して必要な文字を作り出します。文字はさらに皇帝の筆跡の特徴を分析しながら書道の専門家によって実際に書かれ、皇帝の書いた文字を全て復元することができたのです。

首里城2階に飾られている書は現物そのものと寸分たがわず同じとはいえなくても、現時点でできる限りのあらゆる方法を駆使して、きわめて現物に近いものを作り上げたものだったのです。

首里城観光に訪れるみなさんは、美しい正殿の外観や豪華な玉座のほうに目が向いてしまい、オマケのように飾られている「書」については素通りしてしまうことが多いかもしれません。しかし今度首里城を観光する際には、目立たない細部にも挑戦者たちが情熱をそそいだ復元のドラマがあることを心にとどめて、じっくりと城内を巡ってもらえたら、と思います。

参考文献:首里城公園友の会編『首里城の復元~正殿復元の考え方・根拠を中心に~』

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2007年4月 9日 (月)

沖縄で豚をよく食べるのはなぜ?

代表的な沖縄料理の食材に豚肉があります。最近では「あぐー」などのブランドで全国で知られるようになりましたね。豚肉なしでは成り立たないほど沖縄料理に定着しているこの食文化、いつ頃からはじまったものなのでしょうか。

実は、豚肉はもともと沖縄の食文化ではメインの食材ではありませんでした。かつての沖縄でもっともよく好まれ、食べられていた肉は…なんと牛肉!かつて琉球料理の代表的な食材といえば豚肉(ポーク)ではなく、牛肉(ビーフ)だったのです。

沖縄は本土とはちがい、肉食をタブーとする文化は育ちませんでしたから、豚や牛だけでなく、山羊や馬、イノシシやジュゴンまで食べていました。その肉のなかでも牛肉は最上級の食材として位置付けられ、村々では冠婚葬祭にごちそうとして出されていただけでなく、牛皮も貢納品として王府に納められていました。

この「伝統的」な琉球牛肉料理は、ある時期をさかいにほとんど無くなり、かわって豚肉メインの料理へと変わっていきます。それはなぜか。実はこの変化は、沖縄の歴史的な展開と密接に関わっていました。

牛は食用のみの目的で飼育されていたのではなく、田畑を耕す農耕用としても使われていました。近世(江戸時代)に入り、羽地朝秀の構造改革が行われてから、行事の際に牛をつぶして食べることを一切禁止されてしまいます。王府の農業振興策で農耕に役立つ牛が食べれなくなったのです。

さらに豚肉食が普及した直接の原因が、中国の使節団(冊封使節)が滞在する際の食料調達にあります。琉球に滞在する中国人たちの食料には大量の豚肉が必要でした。使節団は総勢400人あまり、長い時には250日間も沖縄に滞在しました。彼らの食料として、1日に20頭の豚を消費したといいます。250日間では何と5000頭です。

琉球ではこのぼう大な数の豚を調達することができず、奄美地域から緊急輸入して何とかやりくりしているような状態でした。そこで1713年、王府は中国使節団の来琉に備えて豚の増産に乗り出し、各地の村々に豚の飼育を強制的に行なわせたのです。同時期に沖縄各地に飼料として使えるサツマイモが普及したことも、豚の飼育を加速させる助けとなったようです。

こうして琉球の各地に豚の飼育が広まり、現在にいたる沖縄の豚肉料理が定着することになります。沖縄で豚肉をよく食べる習慣は自然発生的に生まれたのではなく、近世琉球の改革の過程で「上」から強制的に導入されたものだったのです。

とはいえ、琉球の庶民たちは豚肉をとても気に入ったようで、年に数度の楽しみであった豚肉が王府の養豚の制限で食べれなくなった時、「豚肉を食わせろ!」と各地の百姓5000人が抗議のために畑仕事を止めるストライキを行なったといいます。きっかけはどうであれ、豚肉は沖縄になくてはならない食材となっていったわけですね。

参考文献:金城須美子「沖縄の食文化-料理文化の特徴と系譜」(比嘉政夫編『環中国海の民俗と文化1』)

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