戦国インテリジェンス―海域アジアをめぐる諜報戦―(4)
誤認情報はなぜ発せられたのか
明朝の対秀吉戦争に対する政策決定に重大な影響を及ぼした東シナ海経由のインテリジェンス。示し合わせてもいないのに、複数の情報源から期を一にしたような誤認情報がなぜ発せられたのでしょうか。それは発信者が意図的にニセ情報をつかませようとしていたのではなく、当時の日本国内では「朝鮮が日本に従属した」と本気で信じられていたからでした。
事の発端は1590年(天正18、万暦18)、朝鮮から黄允吉(ファンユンギル)らの外交使節団が日本へ派遣されたことでした。秀吉から朝鮮へは対馬の宗氏を介するかたちで服属と国王の来日要求が出されていました。しかしこのような理不尽な要求を朝鮮側が呑むはずがありません。
朝鮮との交流の歴史が長く、友好的関係を築いていた宗氏は両者の間でジレンマとなります。窮した宗氏は秀吉の服属要求を“秀吉の日本統一の祝賀のために来日してくれ”との内容に密かにすり替え、また朝鮮を荒らした倭寇を逮捕・引渡しをするという「土産」を持って、朝鮮使節団の来日を実現させたのです。
当然、日本側では「朝鮮は我らの服属要求を呑んで使節を派遣した」ととられ、しかも「朝鮮の関白」が来日したとの誤認情報が広く信じられていきます。友好のための使者が一方的に服属の使者にされているとは…朝鮮側からすればこんなバカな話はありません。
しかしどのような理由にせよ、朝鮮王朝が使節を来日させたことは事実であり、これをもとに作り上げられた風説は、当時の人々が持っていた朝鮮を見下す風潮とあいまって、日本において「常識」として定着してしまいます。琉球や許儀後らが明朝にもたらした情報は、当人たちも本気で信じていた情報だったのです。
朝鮮側の動揺
朝鮮は日本への使節の派遣によって秀吉が明征服を企んでいることを知り、朝鮮が勝手に明征服の先導役と位置づけられていることに驚きますが、この重大情報を宗主国の明朝にただちに通報することはしませんでした。朝鮮国内では秀吉が本当に出兵をするのかどうか、また秀吉の情報を明朝に報告するかどうかで国論が真っ二つに割れていたからです。
この背景には朝鮮国内における党派(東人派と西人派)の対立があります。さらに朝鮮では、明朝へ秀吉情報を報告することで、情報源となった日本へ使節を派遣した事実が知られることに強い懸念を持っていました。この行為が日本と内通しているという誤解を生むことを恐れたのです。結局、朝鮮は日本への使節派遣の事実を隠して秀吉情報を報告することになります。
しかし、時すでに遅し。朝鮮が明朝へ報告する頃には琉球発の情報が中国国内を風靡していて、道中の朝鮮使節は中国の人々に「この裏切り者!」とさんざんに罵倒される始末。以後、朝鮮側は火消しに追われることになりますが、当事者であるはずの朝鮮からの報告の遅れは不信を生み、この内通疑惑は明朝のなかで強まることはあっても弱まることは決してありませんでした。明朝と朝鮮は、疑心暗鬼のなかで秀吉の侵攻軍を迎え撃つことになるのです。(つづく)
参考文献:米谷均「『全浙兵制考』「近報倭警」にみる日本情報」(『8-17世紀の東アジア地域における人・物・情報の交流』科研報告書)
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コメント
>窮した宗氏は秀吉の服属要求を“秀吉の日本統一の祝賀のために来日してくれ”との内容に密かにすり替え、また朝鮮を荒らした倭寇を逮捕・引渡しをするという「土産」を持って、朝鮮使節団の来日を実現させた
この宗氏の二枚舌外交は、昔から研究者の間でも評判が悪く、非難されていますよね。ただ近年の偽使研究の成果を踏まえると、また別の見方ができるかとも思います。すなわち宗氏は100年以上も、ニセモノの使者を朝鮮に送り続けていたわけですから、秀吉・朝鮮間での遊泳術に関しても罪悪感は全然なかったんじゃないかと。
板挟みに遭った末の苦肉の策というよりも、習い性というか、今までの偽造の経験からごくごく自然に出てきた発想なんじゃないかなあという気がするんですよね。これまでの「常識」に照らせば、宗氏の行為はむしろ当然のものであり、むしろ「なあなあ」的外交を拒絶した秀吉の態度こそが、今までにない常識外のものだった気がするのです。
投稿: 御座候 | 2007年3月12日 (月) 20:25
>御座候さん
そうですね。その後の「柳川一件」の顛末を見ても二枚舌外交はお家芸だった感がありますね。この問題も「朝鮮出兵」という視点だけで考えてはいけませんね。当事者たちにとっては連続した時間のなかでの出来事のひとつだったわけですからね。
投稿: とらひこ | 2007年3月13日 (火) 00:56